著述家・講演家、立石美津子さん

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「ジャー!」

【写真】勇太君が集めたトイレコレクションほか、母と息子のあゆみ

「横浜ランドマークタワー3階のトイレ。TOTO C425」

 スマホを耳に当てた勇太君(18=仮名)はトイレを撮影した動画の流水音を聞くだけで便器の型番をスラスラと答える。200種類以上入れてある動画のごく微妙な音の違いまで聞き分け、どの動画で試しても正解が返ってくる!

精神年齢は5歳8か月

 自宅での勇太君はほとんどの時間をパソコンの前で過ごす。トイレの動画を一心不乱に見て、ときどき家の中をぴょんぴょん走って、また戻ってきて動画を繰り返し見る。

 勇太君は知的障がいを伴う自閉症だ。先天的な脳の機能障がいで、特定のものへの強いこだわりや興味の偏り、他人との関係の形成が難しいなどの特徴がある。知能指数(IQ)は37。今年3月に特別支援学校高等部を卒業したが、精神年齢は5歳8か月だという。

 そんな勇太君を、立石美津子さん(57)はシングルマザーとして、ひとりで育ててきた。一時は親子で死んでしまいたいと思い詰めたほど大変な時期を乗り越え、穏やかな生活を手に入れた。

「障がい児を育てる親の中には“今度産むなら健常児がいい”という方もいますが、私は自閉症児がいい。ウソもつかないし、素直だし、すっごく楽しいですよ」

 いとおしげにわが子を見つめる表情からも、勇太君のことが可愛くてたまらない様子が伝わってくる。

「抱っこしてあげようか?」

 大きくなった息子にそう声をかけると、照れた感じで拒絶されてしまう。

「僕は赤ちゃんじゃない!」

 それでも、立石さんはうれしそうだ。

「だって、これって会話じゃないですか。昔は私の言ったことをオウム返しするばかりでしたから、“ああ、すごく成長したな”と。健常児なら気づかず通り過ぎてしまうようなことでも、成長を感じて感動できるんですよ」

 勇太君が6歳から12年間通った放課後デイサービスのスタッフ、松本さんと石井さんも「その成長ぶりには驚きました」と口をそろえる。

 通い始めた当初、ひんぱんにパニックを起こし自閉症児のなかでも症状は重かった。それが徐々におさまり、今ではスタッフたちにお礼を言ったり手伝ったりできるまでになったという。

「自閉症は治るものではないけど、ここまで成長できたのは、お母さんが勇太君のこだわりを認めてあげたことも大きいと思います。普通、トイレにあそこまでこだわっていたら、途中でやめてくれと言ってしまいますよ。でも、立石さんは勇太君が興味を持ったことには何でも、納得するまで付き合って伸ばしてあげたんです。そこまでできる親は、なかなかいないですよ」(松本さん)

 わが子を育てた経験を役立てたいと、立石さんは講演で話をしたり本を書いたりしている。依頼が引きも切らないのは、障がい児を持つ親はもちろん、子育てに悩むすべての親にとって、心に響くアドバイスが多いからだろう。

「お子さんは自閉症ですね」

 立石さんは幼児教育のプロだ。幼児向け教材を作り、課外教室で読み書きなどを長年教えてきた。

 38歳で産んだのが、ひとり息子の勇太君だ。何度か出会いがある中で、大らかな人柄に惹かれた当時のパートナーと2年間、不妊治療を重ね10回目の人工授精で授かった待望の子どもだった。だが、気持ちのすれ違いもあり、結局、ひとりで育てることになった。

 出産後は文字どおり持てる力のすべてを注いで英才教育をした。生後3か月からは毎日、90分かけて絵本を30冊読み聞かせ、漢字カードや算数の教材まで見せた。

 最初に「何かおかしい」と感じたのは、勇太君が生後8か月のころだ。

「目の前に人の顔が近づいてきても、息子は無視するんですよ。人見知りが始まるころだから、普通は嫌がるか喜ぶかどちらかなのに。私が歯科医院で治療している間、受付の人に抱っこされても親を追って泣くこともない。だから楽は楽でしたけど……」

 一方で、国旗や時刻表、数字に強い興味を持ち、複雑なパズルを瞬時に完成させたりしていたので、あまり深刻に受け止めなかった。

 2歳3か月で保育園に入園。健常児の中にまざると、「明らかに変だ」と感じた。

「言葉はまったく出ないし、誰とも遊ばないし。仕事中も気になって保育園のライブカメラを覗くと、ずっと玄関にうずくまっている息子の姿が見えて。絶望的な気持ちになりました。どうしても周りの子たちと比べちゃって、何で自分の子だけできないんだろうって……。毎日、迎えに行くのがつらくて嫌でしたね」

 自閉症の診断を受けたのは、入園の1か月後だ。

 勇太君は卵、牛乳への重い食物アレルギーがあり、アナフィラキシーショックを起こしたこともある。アトピー性皮膚炎で湿疹もひどく、乳児のころから国立成育医療研究センターのアレルギー科に通っていた。

 診察後の雑談で、保育園での様子を話すと、主治医はその場でこころの診療部に予約を入れた。

「お子さんは自閉症ですね」

 こころの診療部の医師は勇太君を診て1分もしないうちに断言した。

 立石さんは診察室を出て、泣きながら看護師に苛立ちをぶつけた。

「この子をちっとも可愛いと思えない。食物アレルギーで大変なのに、なんで自閉症! こんな子じゃなかったらよかった!」

 診断に納得がいかず、あちこちの病院を巡った。耳が聞こえないから話せないのではないかと2か所の耳鼻科で検査したが、異常はなかった。児童精神科医は少なく、初診はどこも数か月待ちだが、3つの病院で診てもらった。

 だが、自閉症という診断が覆ることはなかった。

 物心がつくようになると、勇太君はこだわりが強くなり、1日に何回もパニックを起こした。

 例えば、夜7時ジャストに夕飯を食べ始めることにこだわり、1秒でも遅れるとパニックを起こす。甲高い悲鳴を上げて走り回り、そのへんの物を手当たり次第に投げたり、歯形が残るくらい自分の腕を噛んだり、壁にドンドン頭突きしたり……。

「ちゃんとしつけろ!」の声に涙

 好きなパズルもピースを置く順番が決まっている。1つでもピースが足りないとテーブルをひっくり返して暴れるので、同じパズルを3セット買って備えた。

「3、4歳のころがいちばんしんどかったですね。普通の子の100倍くらい大変なわけですよ。こだわりを否定すると不安になって余計パニックになるから、こだわりにはとことん付き合うしかない。

 でも、こっちも疲弊してしまうから、頭にきて私が爆発することも何回もありました。泣きながらバンバン叩きまくったこともありますよ。叩いたってどうしようもないと、わかってはいるんですけどね」

 困ったのは電車移動だ。井の頭線に最初に乗ったとき、旧車両の3000系の各駅停車だった。それ以来、3000系の各停にこだわり、ほかの車両には頑として乗らない。

 いつもは勇太君のこだわりに付き合うが、ある日、急いでいて新車両の1000系に無理やり乗せたら、パニックになった。

 大声でわめき、車内を走り回ってドアに体当たりした。

「静かにさせろ! ちゃんとしつけろ!」

 勇太君は見た目では障がいがわからない。乗客から怒号が飛んでくるが、どうにもできない。立石さんはあふれる涙を止められなかった─。

「子どもの寝顔を見ていて、一緒に死んでしまいたいと思ったことは、何回もあります。首を絞めたりはしませんでしたが……」

 うつうつとした日々を送る立石さんをさらに追い詰めたのは、騒音問題だ。

 自閉症児には聴覚過敏の子が多い。勇太君も幼いころは掃除機、ドライヤーなどの音が苦手だった。パニックを起こさないように、勇太君が寝ている朝6時に掃除機をかけていると、マンションの階下の住人から苦情が来た。多動で日常的に走り回っていた足音にも苛立っていたのだろう。事情を説明してみたが理解はしてもらえず、結局、転居するしかなかった。

狭くなる視野、そして限界

 週2回、保育園を休ませて療育に通い始めると障がい児を持つママ友ができた。療育とは障がいのある子どもが自立できるように、医療と教育を並行して進めることだ。

 それまで立石さんは両親や友人など誰にも苦しい胸の内を明かせなかったが、同じ立場のママ友には何でも話すことができた。

 もっと年上の自閉症児を持つ親にも会ってみたい。そう思い『日本自閉症協会』に入会した。当事者と親の集まりに参加すると、30代の子を持つ50代の親など、あらゆる年代の親子がいた。

 勇太君が4歳を過ぎてもスプーンや箸を使えず、手づかみで食べていることを相談すると、先輩ママからこんな答えが返ってきた。

「世界の半数以上の国が手で食べる文化なのよ。手さえきれいに洗っておけば、問題ないんじゃない?」

 立石さんはハッとした。そして普通の子に近づけたいと焦るあまり、視野が狭くなっていたことに気がついた。

 勇太君が年長になったある日。2人で渋谷に買い物に行き、家電量販店で勇太君を見失ってしまった。どのフロアを探してもいない。自分も半分パニックになって必死に走り回りながら、同時にこんな思いが浮かんできた。

「このまま見つからなければいい……」

 ふと店の外を見ると、横断歩道の手前で泣き叫ぶ勇太君が見え、駆け寄った─。

 なぜ見つからなければいいなどと思ったのか。理由を聞くと、立石さんはしばらく考えてこう答えた。

「楽になりたかったんでしょうね。自閉症の子を育てるだけでも大変なのに、食物アレルギーがあったから、もう、気が抜けない。迷子センターでお菓子を出されて食べて死んでしまったらどうしようとか。ずーっと見張ってないといけないから、いつも神経がピリピリしていたんです」

 立石さん親子が歩んできた道のりを、小児外科医で作家の松永正訓さん(57)は著書『発達障害に生まれて 自閉症児と母の17年』にまとめた。実は、立石さんからこの迷子のエピソードを聞いて、本を書こうと決めたのだと松永さんは話す。

「勇太君が自閉症と診断されて数年後の出来事ですよね。自分の子どもの障がいを受容するのは簡単にはできないんだと実感したんです。受容したと思っても時間がたつとまた否定する気持ちになって、行きつ戻りつするんですね」

 昨年9月の出版以来、障がい児を持つ親以外の人たちにも反響が広がっている。

「日本は横並びの文化で同調圧力が強いから、立石さんも最初は“普通”“世間並み”からはずれることに非常な恐怖感を持っていたんじゃないですか。でも、普通からはずれても、惨めで悲しいわけじゃない。生き生きとした豊かな世界があると気がついたから、今の彼女は幸せなんだと思います」

 今は普通という呪縛から解放された立石さんだが、勇太君を産むまでは、むしろ逆の価値観にしばられていた。普通以上に頑張ることを求められて育ち、期待に応えようと努力してきたからだ。

完璧主義の母に育てられたトラウマ

 立石さんの父は祖父の会社を継いだ2代目社長だ。長女として生まれた立石さんは兵庫県芦屋市で3歳まで育ち、妹が生まれて間もなく東京に一家で転居した。

 お嬢様育ちの母は教育熱心で、ピアノ、習字、水泳など習い事もたくさんやらせてくれた。

「親からは“いつもいい子にしていなさい”“100点を取らないとダメ”と育てられたんですが、私はあまり出来がよくなくて(笑)。優秀な子と比べられて、“何であなたはできないの”とよく怒られていました。だから自己肯定感が低くて、自分にダメ出しばかりしていましたね」

 父の仕事の都合で、小学2年のときに芦屋に戻り、中学1年で再び東京に転居した。立石さんは自ら希望して、中学2年になるときに編入試験を受けて、聖心女子大学の姉妹校に。富士山の麓にある規律正しい寄宿舎で、高校を卒業するまでの5年間を過ごした。

「口うるさい母親から離れたいという気持ちがあったし、毎日が修学旅行みたいだと思ったんです。ところがどっこい、入ってみたら、もうすっごく厳しくって。勉強しろという親はいないかわりに、洗濯も掃除も自分でやらなきゃいけないし、当番で全員分の皿洗いをすると腰が痛くなっちゃう。親のありがたみが身にしみました」

 中学から大学までの同級生で、今も近所に住む中村千春さん(57)は、立石さんのことを度が過ぎるくらいまじめだと説明する。

「まじめだから突っ走っちゃうんですね。自分がこうだと思ったら、周りが見えなくなっちゃう。で、壁にぶつかってボーンとはねかえされても、ちゃんと起き上がって、また走っていくんです(笑)。

 思いつめて自分の主張を通すこともあるけど、他人に嫌な思いをさせることはないので、“美津子だからしかたないね”とみんな許容していたし、愛されるキャラでしたね。今は社会経験も積んで多少もまれた感じですけど、根本的には変わっていないと思います」

 大学は教育学部に進み、幼稚園の教員免許を取得した。卒業後、大手メーカーに就職したが、わずか2か月で強迫神経症が悪化。忘れ物を何度も確認したりして家から出られなくなってしまう。退職して精神科に入院─。

「まさに人生のどん底でした。もともとまじめで完璧主義な人が、こうあらねばと育てられると、発症しやすいそうです。入院させられたことがつらくて苦しくって、死にたいと思ったけど死ぬ自由もないんです。鉄格子の入った窓には鍵がかかり、紐状のものは全部取り上げられて。暴れて2日間、身体を拘束されたことは、今でもトラウマですよ」

 入院は9か月に及んだ。病棟のロビーにあるテレビを見ていると、自分と同い年の松田聖子が神田正輝と結婚式を挙げる映像が流れていた。あまりの境遇の違いに、立石さんは涙が止まらなかった。

 退院後に幼児教育の道に入る。幼稚園の教室を借りて読み書きなどを教える課外教育を行う会社に就職し、天職に出会った気がした。

「教えることは楽しくてしょうがなかったです。もともと子どもは大好きなので課題ができたときの子どもたちのうれしそうな顔を見ていると、これ以上の仕事はないなと。昔の教え子から今でも手紙をもらったりするんですよ」

父の冷たい言葉と、鉄格子の少年

 多様な子どもに対応できるよう働きながら小学校、特別支援学校の教員免許も取得した。

 教材作成や指導のマニュアル作りも担当したが、立石さんはまだ24歳と若く、年上の指導員たちからは陰口をたたかれた。

「子どもも産んでないのに、偉そうにマニュアル作って、私たちに指導する気?」

 腹が立ったが、「本当だな」とも思った。立石さん以外は子どもを持つ母親ばかりで引け目を感じていたのだ。

 ギクシャクした関係を引きずるより、自分で会社を作ろうと決意した立石さん。1千万円の貯金を投じ、1995年12月に起業し、課外教室『エンピツらんど』を始めた。

 最初の2年は持ち出しが続いたが、持ち前の熱心さで徐々に軌道に乗り、生徒数7500人、年商5億円にまで成長した。

 勇太君を産んだのは起業から5年たち、経済的な心配もなくなった2000年。38歳のときだ。

 初孫が自閉症だと両親に告げると、昭和ひとケタ生まれの父は冷たく言い放った。

「墓守なのに難儀な子を産んだな」

 幼い勇太君がパニックを起こすと、父は「うるさい!」と怒鳴りつけた。

 母は勇太君を可愛がり面倒も見てくれたが、立石さんは悩みや苦しみを打ち明けることはできなかった。弱い自分を見せると子どものころのように「ちゃんとしなさい」と怒られる気がして、今も鎧を脱げないままでいる。

 立石さんが考え方を変えるキッカケになったのは、ショッキングな光景を目にしたことだった。

 病院の一角にある療育施設に向かう途中、ふと病棟を見ると、鉄格子の窓の向こうに小学4、5年生くらいの男の子がひとりパジャマを着て立っていた。

 近づくとベッドとイスにベルトがぶら下がっている。身体を縛って拘束するためのベルトで、見た瞬間に自らのつらい過去が蘇った。そして、その少年の姿と6歳の勇太君が重なって見えた─。

「息子の障がいがわかって、少しでも健常児に近づけたい、親の努力で何とかしてあげたいと必死でした。苦手な音を克服させようと、嫌がるのにジェットタオルを使う訓練をしたこともあります。

 でも、そうやって無理強いしていると、いつかツケが回って2次障がいを起こして入院するかもしれない。先輩ママたちから何度も忠告されていたのを思い出して、怖くなったのです。自分が鉄格子の中にいた経験があるので、よけい恐怖を感じたんですね」

 2次障がいとは、もとの障がいに適切に対応できず、心身に異常をきたすことだ。うつや不登校、家庭内暴力、自殺願望などさまざまな事態を引き起こす。

 その日から、立石さんは考え方を変えた。勇太君の世界を理解し、あるがまま受け入れよう。そう決めると立石さん自身も楽になった。

普通という呪縛から解放

 小学校は特別支援学校に進んだ。5歳のとき「まだ食べる」と初めて言葉を発して以来、ゆっくりとではあるが、言葉は増えていた。あいさつや生活作法など学校で手厚い指導を受け、できることも増えていった。

 勇太君がトイレを熱心に観察し始めたのは、小学校高学年のころからだ。その前は消火器、非常口のマークなど興味が次々と移っていったが、トイレは飽きることがない。

 デパートなどに行くと全部の階のトイレの個室を3時間かけて見て回る。その間、立石さんはじっと待っている。勇太君はすべての便器の型を暗記し、家に帰ると数十種類の便器の絵を描き、型番を書き込む。2年前からはスマホで動画を撮影している。女子トイレは禁止、年に2回までなどルールを決め、旅行先でもトイレを何か所も撮影。帰宅後にパソコンに移す。

 小学3年生から中学までは特別支援学級で学び、特別支援学校高等部に入学した。高等部では主に就労に向けた訓練を行う。

 中学、高校と息子を勇太君と同じ学校に通わせたママ友の神崎さん(50=仮名)は、立石さんのおかげで、将来に向けて自ら情報収集する姿勢を学んだという。

「高等部の保護者会に区の担当者が説明に来てくださった際、立石さんはいちばん前の席に座って、みなさんが疑問に感じていることを積極的に聞いてくださいました。例えば、障害年金をもらえるかもらえないかで子どもたちの将来が大きく変わるのですが、年金申請のシステムには問題点も多いのです。

 みなさんが不安を抱えていらっしゃる中、彼女は社労士や専門家の方々と積極的につながり、そこで得た情報を共有してくれます。そのフットワークのよさと行動力にはいつも驚かされますし、学ぶところが多いです」

 2015年6月、立石さんは20年間続けた自分の会社を手放したという。

 今は講演や本の執筆を精力的に行っている。発達障がいと診断されたり、グレーゾーンの子どもが増えていることも背景にあるのだろう。特に営業しなくても月に4回は講演の依頼が入る。自治体などに呼ばれて話すと、障がい児を持つ親や、障がい者福祉に携わる人などが詰めかける。

 講演終了後は個別相談に応じる。多いのは家族の無理解を訴える声。子どもと過ごす時間の長い母親が障がいに気づいても父親や姑が認めず、板挟みになった母親がうつ状態になるケースが目立つという。立石さんのアドバイスはこうだ。

「夫や姑には黙って、子どもを病院に連れて行けばいいんです。子どものことを優先に考えてください」

 これまで出版した著書は『立石流 子どもも親も幸せになる 発達障害の子の育て方』など9冊にのぼる。失敗談も隠さずつづり、具体的なアドバイスが満載だ。

「息子を産むまでは、完璧主義でこうであらねばという思いが強かったのですが、普通という呪縛から解放されたら自由になり、世界がものすごく広がりました。人と比べることもしなくなったし。自分がすごく楽になったのは、息子のおかげですね」

 だが、そこまで劇的に変わることができたのは、教育者でもある立石さんだからではないか。そんな疑問を否定してくれたのは、前出の医師、松永さんだ。

「勇太君を育てていくなかで、親としての気持ちがムクムクと育っていったんです。だから、今は苦しくても、どんな人でも、いつかは受け入れられるよ。そんなメッセージを彼女は発しているのだと思います」

◇  ◇  ◇

勇太君の将来

 今年4月から勇太君は就労移行支援事業所に通っている。2年かけて職業訓練を受け、障がい者枠での就労を目指すが、自立するのはかなり難しい。

 では親亡き後、どうやって暮らしていくのか。立石さんだけでなく、障がい児を持つ親たちはみな、残される子どもを案じて頭を悩ませている。

 将来の見通しについて聞くと、立石さんは開口一番、真顔でこう口にした。

「必ず落ちるとわかっている飛行機があったら、息子と2人で乗りたい。本気でそう思っていますよ」

 すでに立石さんは勇太君が終生暮らせるグループホーム作りに向けて動き始めている。入居希望者は多数いるのに空きは少ない。ならば、自分で作るしかないと考えて、勉強を重ねている。

「守らなきゃいけない存在がいるということは生きる張り合いになりますよね。今は異常なくらい食事や健康に気をつけて、健診も必ず受けています。やっぱり息子より1日でも長生きしなきゃと思うから。息子が80歳まで生きるとしたら、私は元気な118歳で! アハハハ」

 立石さんなら、本当にやり遂げてしまいそうだ。

撮影/渡邉智裕
取材・文/萩原絹代(はぎわらきぬよ)大学卒業後、週刊誌の記者を経て、フリーのライターになる。'90年に渡米してニューヨークのビジュアルアート大学を卒業。'95年に帰国後は社会問題、教育、育児などをテーマに、週刊誌や月刊誌に寄稿。著書に『死ぬまで一人』がある。