「義馬上石河村春秋墓地」の北東部発掘現場。(資料写真、鄭州=新華社配信/河南省文物考古研究院提供)

 【新華社鄭州4月5日】中国河南省三門峡市の管轄下にある県級市である義馬市上石河村でこのほど、西周時代から春秋時代前期の諸侯国「虢(かく)国」の邦墓(ほうぼ、貴族や庶民の共同墓)が見つかり、副葬品2千点あまりが出土した。

 「義馬上石河村春秋墓地」で発掘された馬坑(馬を副葬した穴)。(資料写真、鄭州=新華社配信/河南省文物考古研究院提供)

 三門峡市文物考古研究所の鄭立超(てい・りつちょう)所長は「今回見つかった『義馬上石河村春秋墓地』の墓葬形式や器物の組み合わせ、装飾文様などは『三門峡上村嶺虢国墓地』のものと良く似ている。出土した銅鼎(どうてい)の銘文と史料の記載から見ると、上石河村の墓地は、虢国の滅亡に伴い東へ逃れた貴族とその家族、護衛に付き従った国人らの墓地だと考えられる」と述べた。

 「義馬上石河村春秋墓地」から出土した銅簠(どうほ、食物を盛る長方形の祭器)。(資料写真、鄭州=新華社配信/河南省文物考古研究院提供)

 史書の記載によると、虢国は紀元前655年に晋国に滅ぼされ、君主の虢公醜(しゅう)は東に出奔。東周の都・洛陽に避難した。周王は同行した貴族や護衛の国人を周都と虢国の間にある義馬に住まわせた。

 「義馬上石河村春秋墓地」から出土した銅製の匜(い、水差し)。(資料写真、鄭州=新華社配信/河南省文物考古研究院提供)

 1950年代と90年代に「上村嶺虢国墓地」で行われた大規模な考古学発掘調査では、大量の青銅器や玉器が出土し国内外から注目を集めた。

 考古学研究者によると、今回「義馬上石河春秋墓地」から出土した銅器や玉器は、これまでに「上村嶺虢国墓地」で見つかったものと比べ、数量や質に大きな差があると指摘。銅器の多くが冥器である上、器物も完全に揃っていないという。鄭氏は「これは国を追われたことと関係がある。人々は新たに青銅器を鋳造できなかったため、避難の際に持ち出した鼎や冥器を副葬品として埋葬するしかなかったのではないか」と語る。

「義馬上石河村春秋墓地」から出土した銅鼎の銘文の拓本。「虢季氏子虎父作鼎子子孫孫永宝用」と書かれている。(資料写真、鄭州=新華社配信/河南省文物考古研究院提供)

 2018年4月から9月にかけて、三門峡市文物考古研究所と義馬市文物保護管理弁公室は合同考古学(調査)チームを結成し「義馬上石河春秋墓地」の緊急発掘調査を行った。

 調査では春秋時代の虢国墓115基、唐代の墓1基、清代の墓2基、馬坑(馬を副葬した穴)7基の合計125基が発掘され、銅器や陶器、玉石器、骨器、貝器などの副葬品2700点余りが出土した。34号墓から出土した銘文の入った銅鼎は、随国の女性が虢国に嫁いだ際の「媵器」(嫁入り道具)だったと考えられる。

 鄭氏によると、初期段階の調査で明らかになった墓地の範囲は、東西約200メートル、南北約150メートルの面積およそ3万平方メートル。墓の分布は比較的密集していた。今後も十分な発掘整理を行い、遺跡保護や展示に関しても積極的に作業を進めていくとしている。(記者/桂娟、李文哲)