94歳の祖母が最期のときに見せてくれた、生き方とは…(写真:筆者撮影)

人はいつか老いて病んで死ぬ。その当たり前のことを私たちは家庭の日常から切り離し、親の老いによる病気や死を、病院に長い間任せきりにしてきた。結果、死はいつの間にか「冷たくて怖いもの」になり、親が死ぬと、どう受け止めればいいのかがわからず、喪失感に長く苦しむ人もいる。
一方で悲しいけれど老いた親に触れ、抱きしめ、思い出を共有して「温かい死」を迎える家族もいる。それを支えるのが「看取り士」だ。
連載5回目は47歳の女性の視点を通して、長年の不仲を越えて最期に再会した祖母と父親の軌跡を紹介する。女性が祖母の姿に「人は死ぬときを自分で選んで旅立つ」と直感した理由、そして看取り士に「究極のホスピタリティ」を感じた理由とはそれぞれ何だったのか。

祖母の危篤に父親は見舞いを拒んだ

「あなたが、おばあちゃんのことを親同然だと思う気持ちはよくわかる。だけど俺は正直言って、死んでもらってホッとするよ。だから、おばあちゃんが危篤だと言われても病院に行くつもりはない」

受話器ごしに静かに、だが最後ははっきりと言い放った父親(76歳)の声に杉田香織(仮名・47歳)は直感した。それはパパの本心だけど本心じゃない、と。2018年4月下旬のことだ。


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だが、どんな経緯があろうと、祖母(94歳)の最期は父と娘で看取ってあげたいという望みが打ち砕かれたことも、杉田は認めざるを得なかった。

父親への電話を切ると杉田は気持ちを切り換えて、日本看取り士会に祖母の看取りを依頼した。小さいながらも会社を経営する杉田には、ためらっている余裕はなかったという。

「経営者として日々の業務をこなしながら、危篤の祖母を毎日見舞うのは精神的にも、肉体的にもギリギリの状態でした。家族を看取るのも初めてのことでしたし……」

日本看取り士会の存在を知り、祖母と自分の両方をケアして支えてくれる人たちだと思ったと杉田は言い足した。

「祖母と私は親子同然の関係でしたから、祖母を失う私自身のメンタルケアもあわせてお願いできる人は介護士でも、看護師でもなく、看取り士だろうと直感したんです。それに、私自身の看取りはどうなるのかと考えると、その参考にもなるだろうという気持ちもありました」

施設入所後の約10年間は元気だった祖母も、94歳の誕生日を境に急に弱っていった。緊急入院することになった病名は、虚血性心不全(動脈硬化などにより冠動脈が狭くなったり閉塞したりして、心臓に血液を運べなくなる状態)。肺に水がたまり、ひどい呼吸苦に繰り返し襲われていた。 

杉田は、日本看取り士会の柴田久美子会長の著書を参考に、祖母と呼吸を合わせて落ち着かせようと、試行錯誤を繰り返した。看取り士が終末期の人に行い、家族にも勧める「幸せに看取るための4つの作法」の1つだ。

「祖母がベッドから上半身を起こし、『ハァーハァーハァー』と肩で大きく息をするんです。私が祖母を抱きしめながら、意識的にゆっくりと息をしていると、祖母の荒い呼吸も次第に落ち着いてくる。それでベッドに横になると、また息苦しくて起き上がる。その壮絶な反復に直面すると私も涙が溢れてきたり、吐き気も催したりして、ひどく消耗させられました」

祖母と父親の間に生まれた葛藤


杉田さんを育ててくれた祖母(写真:杉田さん提供)

そもそも、杉田はなぜ祖母と親子同然で生きてこざるをえなかったのか。

杉田の両親は幼い頃に離婚。離婚後は父に引き取られたが、物心がつく前に地方で暮らす父方の祖父母に預けられた。父親が稼ぎ口を東京に求めたからだ。

幼少期はピアノや日本舞踊を習うなど裕福な暮らしだったが、杉田が7歳のときに祖父が急逝すると生活は一変。父親からの仕送りも不安定で、杉田は中学校へ通うためのバス代がなくて学校を休むことさえあった。

「でも祖母は、父への恨みつらみは一切口にしませんでした。一方で隣近所から3千円を借りたら5千円を返す人でしたから、貧しい暮らしの中でも周りからの信頼と、自身の矜持は失いませんでした」(杉田)

大正12年生まれで、戦争体験もある祖母は強かった。

東京で暮らす父親が一度、杉田を引き取りに来たことがある。祖母は隣近所の人たちを集めて、父親を杉田に会わせずに追い返した。その時は自分の存在がすでに祖母の生きる糧になっていたのかもしれない、と杉田は回想する。

「後で知ったことですが、父親は子どもの頃に母方の本家に養子に出されたことがあり、寂しい思いをしたようです。追い返されて以降、父親と祖母の関係は疎遠なものになっていきました」

裏を返せば、それが杉田と祖母が親子同然で生きてきた理由。実母の行方が長らくわからなかったせいもある。

緊急入院後の祖母の話に戻す。呼吸苦を抑えるために医療用麻薬モルヒネが投与されると、祖母の意識はときおり遠のくようになる。

「それでも祖母は浴衣の襟元や裾をこまめに整えたり、医師に気づくと目を閉じたまま両手を1cmほど上げて、感謝の気持ちを表す両手握手を求めたりするのを止めませんでした。その姿には圧倒されましたね」(杉田)

祖母は、杉田が子ともの頃から身繕いをつねに整えることと、周りへの感謝を忘れないことを、口を酸っぱくして説き続けたからだ。

祖母は約10年間過ごした施設でもつねにニコニコしていて、相手の反応の有無に関わらず、朝は自ら「おはようございます」と周りに声をかけ、胸元に手作りの花のコサージュをつけたり、杉田の心配をよそに、90歳を越えても少しヒールのある靴を履き続けたりしていた。


若かりし日の祖母と父親ら家族(写真:筆者撮影)

死を前にして表れるのが本人の本質だとすれば、無意識であっても祖母の言動一致ぶりに杉田は鬼気迫るものを感じたという。

また、杉田が改めて気づいたのは、身繕いやあいさつに気を配るという祖母の教えは、自分の事業ともつながっていること。

「ベンチャー企業での秘書から始まった私のビジネスキャリアの延長線上で、ビジネスマナーやマネジメント研修に特化した会社を立ち上げたつもりでした。ですが、実は祖母が私に繰り返し教え込んでくれたものが事業の核になっているな、と。そういう意味では、祖母のためにも、この事業を成功させたいという思いを新たにしました」

一方で、病院での鬼気迫る姿を見せつけられて、祖母がその体を張って「死に方とは生き方だ」と自分に見せてくれている気もしたという。

「『私の最期の姿を見たでしょう? じゃあ、あなたは自分の人生をどう生きていくつもりなの?』 と祖母から問われているようで……。ずいぶん重たい宿題をもらった気分ですが、それも祖母からの贈り物だと思っています」

杉田はそう言って口を固く閉じた。

看取り士が見せた「究極のホスピタリティ」

看取り士の清水直美(48歳)が病室を訪れたのは、2018年4月下旬の午後。記事冒頭の、杉田からの面会依頼を父親が断った翌々日だった。個室のドアを開けると左中央の壁に沿ってベッドが置かれ、その先に窓があった。

それまでの呼吸苦がウソみたいに、当日の祖母はとても穏やかに目を閉じていた。昏睡状態にある祖母の耳元で杉田が話しかけた。

「おばあちゃん、お友達の清水さんだよ。かわいい人だね」

すると、祖母がウーッとうなるような声を出した。

「わかったのかなぁ」と杉田が言うと、清水が「(昏睡状態でも)耳は最期まで聞こえていますから」と伝えると、杉田は「さすがだわ、おばあちゃん」と話してフフフッと笑った。

その前日、祖母はせん妄(妄想や幻覚、記憶障害などのこと)状態で苦しんでおり、杉田はそのことをつらく感じていた。

「だから清水さんが来たとき、私の心は軽かったんですよ。祖母が少しも苦しそうじゃなかったから。確かにグッタリとしていて、素人目にも死に向かっていることは実感しながらも、穏やかな表情に安心していました」

杉田がトイレから戻ったときのことだ。

「清水さんは黙って祖母の左手をゆっくりとさすって下さっていたんですね。少しきざな例えになりますが、その光景は私が通っていた中学校の礼拝堂で祈っているような、そんな厳粛な空気感でした」

看取り士の寄り添いとはこれか、と杉田は感じ入った。接客などのビジネスマナー研修も行う会社の経営者として、具体的にどう見えたのか。


看取り士の清水直美さん(写真:筆者撮影)

「その場にすっと溶け込み、それでいて誰の邪魔も一切せずに、そこにただいられる技術とでも言えばいいんですかね………」

杉田は少し言いよどんでから続けた。例えば、「〇〇さ〜ん、お孫さんも心配されてここにいらっしゃいますよぉ」と、ビジネスライクな笑顔で、これ見よがしに話しかけるようなことを清水はしなかった、と。

「逆に、祖母に触れる看取り士さんのひとなでに、少しでも恐れやためらいがあれば、家族や本人も瞬時に見抜くはずです。でも、私の目には、清水さんからはそんな自我も感じませんでした。祖母の傍らで『ただただ、そこにいる』寄り添い方に、究極のホスピタリティを見て感動しました」

「死は敗北ではなく人生の大切な締めくくり」

清水は心の中で、「私が来ることになるのでよろしくお願いします」と、杉田の祖母に繰り返し伝えながら左腕をさすっていた、と後日語った。

「あの場面では、祖母さんへの杉田さんの声がけをより響かせることが重要で、私の声を差しはさむ必要は一切ありませんでした。私の自我なんていらないんですよ。一般的にはホスピタリティは、おもてなしなどを『与える』イメージが強いかもしれませんが、看取り士の仕事は黒子役に徹して、旅立とうとする方や、ご家族の存在をこそ際立たせることですから」

清水はもともと看護師として働いていた。その頃、患者を治療することが目的の病院では「死は敗北」だった。患者を救えなかった結果だからだ。

だから呼吸合わせ1つとっても、看護師と看取り士ではまるで違う。

「看護師の呼吸合わせは、まだ治る見込みがある患者さんだけが対象でした。呼吸が荒い相手に顔を近づけて、意識的にゆっくりとした深呼吸を繰り返しながら、相手の呼吸を正常なペースに誘導するためです」(清水)

一方、多くの高齢者をその胸に抱いて看取る中で、日本看取り士会の柴田会長が編み出した呼吸法は違う。逝く人の死への恐怖心を、呼吸を共有して生まれる安心感で包み込むためのものです、と清水は説明した。

「看取り士にとって、『死は人生の大切な締めくくり』だからです。そこが『死は敗北』という病院の死生観との決定的な違いです」

清水が看護師から看取り士に転身したいちばんの理由だった。

清水が訪問した日の午後、杉田はもう1人の見舞客を待っていた。当日午前中に父親から「行きます」とメールが届いていたからだ。2日前の電話で「死んでもらってホッとする」と、見舞いを断ったばかりだった。

清水が入室して1時間ほど過ぎた頃、バツの悪そうな表情で父親が現われた。誰とも目を合わせず、祖母の顔を一瞬覗き込むような仕草をした後、ベッドを通り過ぎて窓際にあるソファに腰を下ろした。もしも祖母が目を開いても、その視界には入らない位置だった。

杉田が清水を、祖母が長年お世話になった施設の職員だと紹介すると、父親は「ありがとうございます」と言い、頭を下げた。その後、「よく眠っているじゃないか」と、視線を合わせずに杉田に声をかけた。

「人は死ぬ時を自分で選んで旅立つ」

しばらくの沈黙の後、清水が父親に、「お母様にお手を触れられませんか。手から触れて下さると、ご本人はとても安心されますから」と尋ねると、父親は「いやいや、いいですよ」と即答した。清水は自分がいると家族だけの時間がつくれないと考え、今日はこれで退室すると杉田に伝えた。

「入院で大変だったな」

清水を見送って戻ってきた杉田に、父親は場を持て余すように言った。
杉田は「ううん」と答えた後、心の中で自分にこう言い聞かせていた。

「……この会話は祖母に全部聞こえている。3人で話す最後の機会になるかもしれない。だから、楽しい会話を祖母に聞かせた方がいい」

父親が再び、「お前、仕事はどうしてるんだ」と口を開いた。


杉田さんの祖母が施設の入居者に配っていた裁縫物(写真:杉田さん撮影)

「ちゃんとやってるよ」

「ご主人には迷惑かけてないか」

「うん、それも大丈夫よ」

「でも、お前は、おばあちゃんの面倒を本当によく見てるよ」

「今度のことは後で本にでも書いて、私がごっそり儲けるからさ」

それは杉田の事業が成功することを強く願ってくれていた祖母へ向けた軽口で、杉田は微笑んでみせた。すると、父親が「じゃあ、そろそろ帰るわ」と言って腰を上げた。来てからまだ30分ほどだった。

そのとき父親はベッド脇で祖母の体をさすっていた杉田にまっすぐに近寄ってきて、その右手を祖母の額に近づけ、触るか触らないかの微妙な間合いですっとなでた。

「私はほぼ正面で父の顔を見ていましたけど、口角はしっかり上がっていて、祖母を見る目はとても優しかった。だけど、その触るか触らないかの父の右手がとても象徴的でした。触りたいんだけど、触れない。祖母との長い間の葛藤をぎゅっと凝縮したような場面でしたから」(杉田)

結局、祖母は父親の面会から約7時間後に逝くことになる。

「でも、祖母はうれしかったはずです、ずっと会いたがっていたと思うから。やっぱりパパのことを待ってたんだって、私、直感しました。柴田さんの本にもあったように、人は死ぬときを自分で選んで旅立つんだって」

杉田は晴れやかな顔つきでそう結んだ。

(=文中敬称略=)