サッカーの試合で、0−1というスコアが占める割合は1番か2番に多いだろう。それこそ無数に存在する。よって内容も千差万別だ。惜しい0−1もあれば、惜しくない0−1もある。日本対コロンビアはどうだったのかと言えば、惜しくない0−1だ。力関係を割合にすれば38対62。日本にはホームの利も加わっていたはずなので、それがなければ30対70と見るべきだろう。


注目のセンターフォワードには鈴木武蔵が起用されたコロンビア戦の日本代表

 森保一監督は試合後、コロンビアを「世界トップクラスの強豪」と評したが、このクラスの相手に日本が勝利しようと思えば、それこそ運が必要になる。コロンビアと言えば、レフェリーからPK&退場という超ラッキーなジャッジをプレゼントされ、2−1で辛勝したロシアW杯緒戦を想起するが、両者の力関係は、9カ月前とまったく変わっていなかった。近い将来、急速な変化が起こることもないだろう。

 だが、日本がW杯本番でベスト16を狙おうとすれば、コロンビア級の国に予選で勝利を収めなければならない。ロシアW杯で得た教訓だ。狙うべきは本番での番狂わせ。地力を培うことは当然だが、向こう3年8カ月後、カタールW杯時に目指すべきは、地力では少々劣っても、番狂わせを狙えるかもしれないというチーム作りだ。

 今季のチャンピオンズリーグ(CL)で言うならば、決勝トーナメント1回戦で4連覇を狙うレアル・マドリードを倒し、ベスト8に進んだアヤックスのようなチームである。アヤックスは24シーズン前(1994−95)のCLで、大方の予想を覆して優勝を飾っているが、その時も今季同様、メンバーに実力のある若手がひしめいていた。アヤックスに限った話ではない。番狂わせの背景には、たいてい若さが潜んでいる。巧さのあるベテランの存在も不可欠だが、基本的に若手主体である必要がある。

 今回、アジアカップに出場したメンバーをそのまま選ばなかった森保監督の選択は、そうした意味で評価できる。まだ足りないぐらいだと尻を叩きたくなるが、番狂わせを狙うのなら、それ以上に必要なのが監督の力量だ。

 コロンビア戦で30対70の関係を作り出している最大の要因は、選手個人のポテンシャルだろう。だが、監督にその差を埋める采配ができていたかと言えば、ノーだ。むしろコロンビアのほうが、そのエッセンスを取り入れたくなるいいサッカーをしていた。選手のポテンシャルに任せるサッカーをしていたのは、むしろ森保ジャパンのほうだった。

 ピッチを大きく使った展開力に富むパスサッカー。コロンビアのサッカーをひと言で言えばそうなる。出たとこ勝負。選手の即興的なプレーに頼りがちな日本に対し、コロンビアは、計画性の高い計算されたサッカーをした。

 たとえば前半4分、いきなりバー直撃弾に見舞われたシーンだ。ハメス・ロドリゲス(4−2−3−1の3の中央)から送られたボールをルイス・ムリエル(3の左)が折り返し、逆サイドのセバスティアン・ビジャ(3の右)がシュートを放つ――という展開力を、日本に期待することは難しい。

 日本に置き換えれば、ハメスは南野拓実(ザルツブルク)で、ムリエルは中島翔哉(アル・ドゥハイル)、ビジャは堂安律(フローニンゲン)になる。しかし、日本期待の3人組にこの美しいパスワークは望めない。追求している様子は見られないし、実際これまでに一度も見たことがないからだ。これほど高い確率で得点が望めそうなパターンは他にないというのに、である。

 日本の攻撃が小粒なのに対し、コロンビアはダイナミック。攻撃にスケール感があった。繰り返すが原因は、体格差でも個人能力の差でもない。サッカーゲームの進め方にある。

 コロンビアが相手ということで、森保ジャパンと比較したくなるのはロシアW杯を戦った西野ジャパンになる。そのサッカーは、森保ジャパンというよりコロンビアに近かった。展開美に優れたサッカーだった。即興的と言うより計画的。セネガル、ポーランド、ベルギーに対して善戦できた理由でもある。

 西野ジャパンと森保ジャパンは、ともに監督が日本人なので、”日本的サッカー”として括られるかもしれないが、それぞれの中身には大きな違いがある。

 計画性が不足していることは、堂安、中島の両ウイングと両サイドバックとの関係にも表れている。彼らには、室屋成(右/FC東京)、佐々木翔(左/サンフレッチェ広島)と意図的にコンビネーションプレーに及ぶ機会がほとんどなかったのだ。

 両者が両サイドで絡めば、攻撃に立体感が生まれる。その4人が四角形を形成すれば、そこをベースにパスコースが誕生する。コロンビアのサッカーがまさにそれだった。

 西野ジャパンでコンビネーションが冴えたのは、左サイドの乾貴士(アラベス)と長友佑都(ガラタサライ)だった。中島のプレーのレベルは確かに高い。3人組の中でも一番と言いたくなるが、後方の佐々木に、長友が乾に行なったような連携作業は期待薄だ。よってサイド攻撃は単調になる。出たとこ勝負。計画性に乏しいプレーになる。

 堂安もしかり。何をするのか、味方でさえよくわからない即興的なプレーをする。魅力的と言えば魅力的だが、これが連続すると、プレーの調和は難しくなる。日本がやろうとしているサッカーはシンプルではなかった。コロンビアに比べて遙かに難易度が高そうに見えた。

 そのしわ寄せが来るのがセンターフォワードだ。シンプルではないこの攻撃を新しく入った選手が仕上げることは至難の業。大迫勇也(ブレーメン)に代わる選手を見つけることが、日本サッカー界に課せられたテーマだと言われるが、それはセンターフォワードの能力の問題だけではない。慣れているか否かの問題でもある。

 鈴木武蔵(コンサドーレ札幌)にとって簡単であるハズがない。アジアカップで起用された北川航也(清水エスパルス)、武藤嘉紀(ニューカッスル)にとっても同様だ。この課題を克服できる新たなセンターフォワードはおそらくいない。3年半8カ月後、カタールW杯時に大迫以上の選手が誕生しているとは思えないのだ。

 まずメスを入れるべきは、ストライカーがスムーズに溶け込みやすい環境の設定ではないか。プロットはストライカーを始点に組み立てられるべきなのだ。コロンビア戦で鈴木武蔵の悲しげにプレーする姿を見ながら、一番に思ったことはこれだった。

 森保監督が相手から学んで欲しいポイントでもある。現状を変えられるのは監督しかいないのである。サッカーは監督で決まるのだ。