2018年5月に発売されたハッチバック・タイプの新型MINI3ドア(写真:BMW)

MINI(ミニ)がイギリスで誕生して、今年で60年を迎えた。現在はドイツのBMWがMINIを引き継ぎ、開発・製造・販売をしている。とはいえ、イギリスを本拠とし、今も英国車らしい雰囲気を大事にしている。

そのMINIは、国内輸入車販売で根強い人気を保っている。2017年度(2017年4月〜2018年3月)のJAIA(日本自動車輸入組合)の集計によれば、MINIは5位となっており、近年ではその位置を堅持している。日本でMINIが継続的に愛好されている様子を知ることができる。

庶民のクルマとして誕生したMINI

MINIは、1959年8月にイギリスで売り出された。当時の販売価格は、約55万円だった。製造したのは、BMC(ブリティッシュ・モーター・コーポレーション)というイギリスの自動車メーカーである。


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BMCは、第二次世界大戦後にモーリスモーター社とオースティンモーター社が合併してできた企業で、イギリス一の規模を誇った。それでも戦後の経営は困難を極め、イギリスに復興をもたらす経済的な庶民のクルマとしてMINIが誕生した。これを開発したのが、オスマン帝国(現在のトルコ)生まれのアレック・イシゴニスである。

イシゴニスは、開発の前提として車体寸法をまず定めた。全長3メートル、全幅1.2メートル、全高1.2メートルだ。この小さな箱にすべてが収まるクルマを設計した。もちろん、中心となるのは人間であり、大人4人がきちんと座れることを第一とした。そのうえで、エンジンや変速機などの機械をのせ、また後ろに荷室も備える。

この人間中心の考え方は、例えば日本のスバル360でも見ることができる。富士重工業(現SUBARU)の百瀬晋六は、まず4脚の椅子を持ち出して前後に並べ、人がきちんと座れる広さを検証し、そこから車体寸法を決めていった。背が高かったといわれる百瀬が足を伸ばせる空間ということで、スバル360は当時の軽自動車の中でも「室内が広い」と評判になった。

スバル360は、客室後ろにエンジンを搭載したが、MINIは客室の前側、進行方向に対し横置きにしてエンジンを搭載し、変速機をその下へ配置することで、3メートルの全長に収めた。したがってMINIは前輪駆動車である。開発段階の試作車では、ほかに後輪駆動車も作られ、徹底的に試験走行が行われた。限られた空間にすべての機能を収めるため、サスペンションにはゴムが使われ、その弾力を利用して衝撃吸収を行った。

客室後ろの荷室はそれほど容量が大きいわけではなかったが、トランクリッドを上から手前に開ける機構とすることで、開けたリッド部分を台にして荷物を載せ、ベルトで固定することにより、必要に応じて多くの荷物を運べるように考えられていた。

外観の造形もイシゴニスが行った。戦前のクルマはいずれもタイヤを覆うフェンダーが張り出す格好だったが、今日に通じるエンジンフードからフェンダーが一体となる姿とした。ラジエターグリルと丸いヘッドライトを持つ、戦後の顔つきになっている。ドイツやフランスにも、フォルクスワーゲンのタイプ1(ビートル)や、シトロエン2CVなど、庶民のためのクルマはあったが、いずれも戦前の設計であったためエンジンフードとフェンダーが分かれた造形となっている。

室内の速度計などはダッシュボード中央にあり、右ハンドルにも左ハンドルにも対処できる造形だった。見栄えという点においても、当時のMINIは内外装ともに斬新だった。

当初の購買層と異なる人々の評判

斬新でありすぎたのか、発売されたMINIは消費者の受けがよくなかった。実はMINIは、戦前の大衆車に比べ車体が小さかった。戦前は先に紹介したようにタイヤを覆うフェンダーが張り出していたため、立派に見えたのだ。実際、寸法も若干大きかった。「近所の人にこんな小さなクルマで出かけるところを見られるのはごめんだ」というのが、MINIに対する庶民の率直な感想だった。

一方、顧客像として想定外の会社役員や管理職、果ては貴族や王室の人々にMINIは絶賛された。顧客名簿には、エリザベス女王の長女アン王女、ビートルズのポール・マッカートニー、俳優のピーター・セラーズなどの名が並ぶ。

ファッションデザイナーのポール・スミスは、「デザインが本当に機能的で、同時に、速く、セクシーで、革命的だった」と語ったとされる。ミニスカートを創案したマリー・クワントは、「MINIを運転していると、すっかり自由になれて、解放されるの」と話した。

さらに、レーシングカー製造会社としてF1でチャンピオンを獲得したジョン・クーパーの手で高性能化されたMINIが、1961年にBMCの工場で製造され、発売されることになる。MINIクーパーの誕生だ。その発表会場では、名だたるレーシングドライバーたちが試走を披露し、花を添えた。

1964年には、冬のモンテ・カルロ・ラリーでMINIクーパーSが優勝し、1965年と1967年にも勝って注目を集めた。ほかにも、1969年の「ミニミニ大作戦」という映画で、カーチェイスを演じるクルマとして選ばれ、大きな話題となった。

当初の購買層と異なる人々からの評判や、さまざまな場面での活躍をきっかけに、MINIは広く人々に愛用されるクルマとなっていったのである。

日本に導入されたMINIは、さっそく評判になった。しかし一方で、日本ならではの交通事情や気候による対応も余儀なくされていた。

1つは、オートマチックの変速機への要望である。欧州では、今日もマニュアルシフトの変速機が使われている。運転をより容易にということで、アメリカ同様に日本のオートマチック比率は急速に高まっていた。しかし欧州車全般に、オートマチックへの対応は高級車を除いて遅れがちであった。

そもそも排気量850cc直列4気筒エンジンではじまったMINIは、その後、排気量の増大が行われたり、クーパーのような高性能化が行われたりしたが、マニュアルシフトを前提としていた。クラッチ操作を不要とするため若干の滑りをもたせたオートマチックでは、走行感覚に活気は出にくかった。

もう1つは、空調である。高温かつ湿度の高い日本で空調は不可欠だ。一方、欧州は緯度が北海道より北にあることに加え、空気が全般的に乾燥していることもあり、窓を開けて風を導き入れれば過ごせる気候だ。MINIも、そうした気候を前提に冷却性能が考えられていた。エンジン冷却のラジエターはもちろん装備するが、それはラジエターグリルの裏側にはなく、エンジンルームの側面に配置されていた。

そして横置きされたエンジンで回るファンで冷やす仕組みだったのである。したがってラジエターグリルから導入される風が直接当たらないため、オーバーヒート傾向になる。そこに空調の負担がかかるとなおさらだ。

それでも、日本の消費者にも根強い人気のあったMINIは、改良を重ね、日本市場における不具合を払拭していった。年月を経て海外での販売が下降線をたどるなか、逆に日本での人気は高まっていった。

クルマらしいクルマ」の造形

人気の理由の1つは、やはり唯一無二の造形にある。そこはアレック・イシゴニスがこだわった点でもあった。「小さくても、クルマらしいクルマ」をイシゴニスは目指した。VWビートルやシトロエン2CVも、愛好家にとっては今なお懐かしさと共感を呼ぶが、独創的ではあっても奇抜な車種といえる。しかしMINIは、今なお多くの人が好ましいと思えるクルマの1台として残る。

MINIは、今日の軽自動車規格より小さな車体寸法だった。それでも粗略に扱われたりしないのは、寸法的な大小ではなく、その存在感ゆえであろう。その存在感をもたらしているのは、クルマらしいクルマとして設計・開発したイシゴニスの思想にある。

軽自動車の中にも今日では個性豊かな車種も出てきて、乗っていることが自慢になる例もあるが、MINIは60年前にすでにそうした価値を実現していた。開発者の思いがいかに大切であるかをうかがわせる。

その点は、2001年からのBMW・MINIとなっても重要視された。当初、BMW・MINIの開発に際しては造形案が2つあり、1つはイシゴニスのMINIを継承するもので、もう1つはまったく別の姿とするものであった。イギリスでは、その第2案が推奨されたが、アメリカをはじめ海外からはMINIの形を継承する支持が多く、今日のMINIの造形ができあがったのである。

イギリス人にとってMINIはすでに古く、やや飽きのくる姿でも、ほかの国の人々にとってMINIはあくまでMINIであって、ほかの小型車とは違う価値をその形に求めた。

MINIを選ぶのは姿かたちだけではない

それは単に姿かたちをまねることではない。なぜなら、VWビートルの姿をまねたニュービートルは、続いてザ・ビートルと呼ぶ車種への進化を見せたが、生産終了が発表されている。

初代ビートルは、フェルディナント・ポルシェ博士が戦前戦後の時代に最適な小型車として、後ろにエンジンを搭載する後輪駆動として設計した。その造形は、ドイツに建設された速度無制限のアウトバーンを走行するうえでの空力を重視した格好であった。しかし、ニュービートルはゴルフを基にした前輪駆動であり、あの姿である必要性は機能面ではなかった。

一方、MINIは、当初から意図的に前輪駆動を採用し、なおかつエンジン性能のみならず静粛性の観点から水冷エンジンを選んだ。それは、そのまま現在のMINIに通じる技術要素である。形をまねるだけでなく、その背後に技術の必然がある。

そこが60年に及び人気を保ち続けた理由であり、BMWは、MINIというブランドをただ継承するにとどまらず、存在理由をも継承したといえる。新旧MINIを愛好する人たちも、クルマの性能や格好だけにとどまらず、そうした精神に共感するからこそMINIを選ぶのだと思う。