平成6年9月の退院会見でのビートたけし(C)共同通信社

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【平成芸能界 直撃の30年史】(5)

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 東京は明治記念館と赤坂御用地の間を走る安鎮坂を原付バイクがエンジン音を高く響かせた。カーブを曲がり切れずガードレールの鉄柱に激突、運転していたビートたけしは頭部に重傷を負い生死の境をさまよった。平成6(1994)年8月2日深夜1時40分のことだ。約4メートルも吹っ飛ばされたという現場に駆けつけると、真っ赤な血痕がアスファルトにいくつもの線を描いていた。

 高層ビルが立ち並ぶ新宿副都心の東京医科大学病院に救急搬送されたたけしは、手術で一命を取り留めた。しかし翌9月下旬の退院会見では、記者やリポーターが絶句する。口元が大きく歪み、顔が曲がり、目の焦点も合わないという痛々しい後遺症があったのだ。

「治らなかったら、芸名を顔面マヒナスターズにするよ」と、この期に及んでギャグを飛ばす姿勢にはさすがの声も上がったが、復帰は絶望視されていた。

 事故当日、たけしは酒気帯びで、自殺だったんじゃないかという見方もある。不倫関係にあったフーミンこと細川ふみえのもとへ向かっていたんじゃないかとの臆測も伝えられる。当時47歳。タモリ、さんまとお笑いBIG3ともいわれ、TVで見ない日はないほど売れて、目まぐるしく働く中、ふと、むちゃをしたくなる瞬間でもあったのではないか。

 事故の前年に親友のアナウンサー、逸見政孝さんががんで亡くなっていた。逸見さんもたけしも、当時自宅は世田谷区の東急大井町線尾山台が最寄り駅というご近所さんでもあり、享年48という逸見さんの死に相当のショックを受けていたらしい。

 たけしは「家に帰っていない」と公言し、愛人をつくっては別宅住まいをしているように語っているが、元漫才師の幹子夫人をないがしろにしてきたわけじゃない。

 バイク事故以降も毎週金曜日は夫婦で食事を共にし、1月18日のたけしの誕生日には毎年たけし軍団の弟子らを招いて夫婦で内々のパーティーを開き、そこで幹子さんが手料理でもてなし、最後に見送るといった慣例があった。

 同棲を経て1983年に入籍して以来、近所のスナックでアルバイトをして駆け出し時代を支え、長男長女を育て上げてきたのが幹子さんだ。一体、本当のところはどうなのか、何度も直撃取材を試みた。

 最初はノーコメント。それでも質問を続けると、こちらをじろりと睨んで、「お話しすることはありません」と声を張り上げた。怖い。それでも、たけしが「オフィス北野」から独立し、今の愛人とされる18歳年下のA子さんとの新事務所を設立、公私ともにパートナーにするようになると、少し声色も変わっていく。

「怖いなんて、書かないで下さいよ」と、ちょっと笑顔を見せてくれて、短い時間の立ち話には応じてくれた。

「その人(A子さん)が自分の思ういい展開になると思ってるんじゃないですか」と、本妻の意地を見せつつ、離婚については完全否定。それでいて「(たけしに)腹の立つこともあるじゃないですか」と複雑な胸中を語ってくれた。

 よく見ると、たけしの誕生日にしていた車のナンバーも変わっている。

 高齢化社会の到来とともに、熟年離婚が増えていった平成。たけしと幹子さんもその線上に立ったまま、時代の節目を迎えようとしている。

(聞き手=長昭彦/日刊ゲンダイ)

あおやま・よしひろ▽1954年、東京生まれ。美空ひばりの時代から取材歴40年。現在も週刊誌などで活躍するベテラン直撃記者。