小島慶子

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 ニュースやバラエティーと、テレビをつければ必ずといっていいほど目にする女性アナウンサー。ミスコン出身者が多く、原稿を読むだけでなくタレント的な役割も担う女子アナは「花形職業」の代表格だ。

「最近調べてわかったんですが、女子アナは平成に定着した言葉。'88年に入社した八木亜希子さん、河野景子さん、有賀さつきさんを、フジテレビがタレントのように売り出したときに使ったようです」

 と、タレントでエッセイストの小島慶子さん。

同期とよく泣いていた

 女子アナブーム真っ盛りの平成初期。経済的な自立を目指して就職活動をしていた小島さんは、アナウンサーという職業に憧れを抱くようになる。

「競争率は1000倍くらい。ほとんど記念受験なので、実質の倍率は100倍くらいかな。平成7年('95年)に私が入社したときも世間は女子アナブームで浮かれていました。

『DORA』(永井美奈子・薮本雅子・米森麻美さんによる日本テレビ女性アナウンサーの歌手ユニット)が歌を出したり、TBSでは雨宮塔子さんの“天然ボケ”がブームになっていたり。OLが、ふざけたことをやらされているのを見て、そのギャップに萌えるという時代でした。

 私たちはアナウンス部から“(アナウンサーは)正確な日本語の伝え手。タレントと勘違いしてはいけません”と。世のブームにのってアイドルアナをつくりたい制作部には“キャラを出せ”“天然ボケやれ”と言われ。“おもしろいことを言わなくては”の焦りと“なぜこんなことを?”の疑問のせめぎあい。同期とよく泣いていました」

 当時、週刊誌で“女子アナ30歳定年説”がまことしやかに言われていた。

「若さに商品価値がある女子アナは、30歳で後輩に取って代わられるという、すごく女性蔑視的な“説”です。

 真に受けて悩んでる若手アナもたくさんいましたが、私は同期の堀井(美香アナ)のおかげで悲観的にならずにすみました。彼女は地に足がついていて、20代前半で人気が出てこれからというときに結婚、出産して育休後、ナレーションやニュースで実績を積みました。

 子どもを産んだら第一線を退くのが当たり前の時代でしたが、出産後も働きたいという時代背景もあって、共感を得やすかったと思います」

 いまでは出産後も仕事を続ける女性アナウンサーは増え続け、“ママ・アナ”は珍しくなくなった。

女性アナウンサーも多様化している

 小島さんが“歴史的転換”と注目するのは、MeToo運動と連動してセクハラ事件などが一昨年から盛んに報じられるようになったことだ。財務省の福田淳一事務次官(当時)による、テレビ朝日の女性記者へのセクハラ発言が報じられると、多くの女性アナが声を上げた。

「局アナは、予定調和的に振る舞わなくてはいけない、企業(テレビ局)の看板娘。にもかかわらず、フジテレビの山崎夕貴さん、テレビ朝日の宇賀なつみさん、小川彩佳さんなど若い女性たちが、セクハラはいけないと意見を言いました。勇気のいることですし、支持する声も多かったですね。

 その様子を目にして、思いました。“本当に、女子アナは死んだ”と。男性に光を当ててもらい、特別扱いされるのがステータスだった女子アナというコンテンツは、平成のブームからちょうど30年たって、賞味期限が切れました。くしくも“30歳定年説”と同じ30年で。

 もちろん、アイドル路線の女性アナウンサーはみんな滅んでしまえ、とは思いません。幅があっていい。この30年で社会が変わり、社会における女性の役割が変化したように、女性アナウンサーも多様化しているのだと思います」

《PROFILE》
小島慶子 ◎1972年生まれ。学習院大学卒業後、平成7年にTBS入社。アナウンサーとして活動。平成22年に独立。タレント、エッセイストとして多方向で活躍。東京大学大学院情報学環客員研究員。