爆売れ「八天堂のくりーむパン」の意外な軌跡
都心の駅などでよく見かける八天堂の“くりーむパン”。その意外な軌跡とは…(筆者撮影)
ふわふわのパン生地、しっとりした食感、口のなかでひんやりととろけるクリーム。八天堂の“くりーむパン”を一度口にすれば、これまでに食べたどのクリームパンとも違うと感じるはずだ。お土産に購入する客が多いのも従来と異なる。大げさではなく、八天堂はさまざまな点でクリームパンに革命を起こした。
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同社の3代目社長である森光孝雅氏によって開発された、このくりーむパン。創業地の広島をはじめ全国に26店舗、さらに海外5カ国(2019年1月現在)にも店舗展開している。恵比寿や池袋、上野の駅などにある店舗を、見かけたことのある人も多いかもしれない。
だが、これだけの人気と成功をおさめたのは実はここ10年ほど。現在に至るまでの道のりは順風満帆でなかった。
倒産寸前に追い込まれた時期も
「雪玉が坂道を転がるように赤字が膨れ上がり、従業員も離れていって、倒産寸前まで追い込まれた時期がありました。僕は経営者として本当に未熟だったんです。当時は絶望しかなくて、周囲を苦しめてばかりの自分なんていなくなったほうがいい、と本気で思っていました。かつての友人や先輩、さらには親からも『あの時、お前はよく死ななかったな』と今でも言われます」
八角形のロゴが印象的だ(筆者撮影)
柔和な笑顔で孝雅氏はそう語る。どのような逆境を乗り越えてきたのだろうか。
八天堂の創業は1933年。孝雅氏の祖父である香氏が、和菓子店として「森光八天堂」を広島県三原市に開店した。4年前に起きた世界恐慌の余波で、苦しい生活を送る人が多くいた。そんな人々を、甘いお菓子で明るく元気にしたい、という思いがあったという。
2代目の義文氏は洋菓子も取り入れ、屋号も「ラ・セーヌ八天堂」に変更。西洋化が進む中にあって、ごく自然な流れだった。孝雅氏が3代目社長になったのは1991年。有名パン屋での修業を経て、26歳の時「たかちゃんのぱん屋」として八天堂をリニューアルオープンした。売れ行きはというと……。
「3年くらいは棚にぎっしりとパンが並んだことはありませんでしたね。なぜなら、並べる前に売れてしまうんです。オーブンから出したばかりの焼きたてをトレーごと運び、『火傷に気をつけてください!』と叫びながら販売したことも。それくらい好調でした」
バブル崩壊直後で、まだ景気がよかった。それに当時、市内には大手コンビニや、朝からオープンしている店舗もない。孝雅氏のパン屋は、早朝から開くことで、朝帰りや早朝出勤をする方の取り込みに成功していたのだ。
その勢いのまま、10年足らずで13店舗にまで拡大。売り上げは年間4億円に上った。しかし、会社の経費で高級外車を乗り回すなど、「考えが間違っていた」と後に反省するような行動にも走っていたという。
「俺の2000万円を使ってくれ」
八天堂の本社で語る、社長の森光孝雅氏(筆者撮影)
そして凋落は訪れた。コンビニができ始め、状況が一変したのだ。客を奪われ、赤字に転落。従業員も離れていった。パン屋で独立を目指す人は、繁盛店で経験を積み、独立するという流れが一般的だった。八天堂にも独立志向のある者が多くいたが、低迷とともに見切りをつけ、去っていったのだ。
新しく採用しても、教育をできる余裕はない。それどころか、人手不足ゆえに長時間労働を強いることになり、すぐ離職してしまう。お店を回すには、孝雅氏自身が数店舗を回り、自らパンを焼かないと追いつかない状況だった。睡眠もろくに取れず、疲労困憊で車を運転し、物損事故を起こしたことも。脳震盪を起こして首を痛め、口も血だらけになったが、孝雅氏は病院にも行かず、お店でパンを焼き続けたという。どれだけ追い詰められていたかがうかがえるエピソードである。
しかし経営状況は改善せず、弁護士からは民事再生法の書類も渡された。万事休すと思われた中、栃木県でパン屋を営む弟から電話があった。かけられたのは「俺の2000万円を使ってくれ」という言葉。涙が止まりませんでした、と孝雅氏は振り返る。
「僕はそれまで、父親をどこか見下していました。父は1店舗しか運営していなかったのに、僕は13店舗にまで増やした。社員数も売り上げも圧倒的に違う。自分は父を超えたと思い込み、注意されても耳を貸さなかったのですね。けれど人間として見たとき、こんな立派な弟を育てられてる人なんだと気づいて愕然としました」
その一件が転機となった。孝雅氏のなかにあった傲慢な気持ちが消え、父や弟や支えてくれた人々への感謝の気持ちが自然と湧いてきた。また、これからはつらい思いをさせてしまった社員のために生きていくと誓い、もう一度チャンスをもらえるなら、経営者として必ず再起してみせると決意を新たにしたという。
後に子どもがいる社員のための保育園をつくったり、障害者の就労支援の一環として新工場を設立したりと、社員や社会のために取り組みを続けている同社だが、その原点はこの時に生まれた。
結局、弟からは1000万円を借りた。だが、数カ月の猶予ができたにすぎない。経営を立て直すため、根本的にビジネスモデルを変える必要があった。そんな時、地元のスーパーの「天然酵母の袋詰めパンがあったらいいのに」という声を受け、製造・卸売りを始めたところ大ヒット。経営状態は回復し、業績も好調が続いた。
しかし他社も参入し始め、次第に売り上げは停滞していく。2度目の経営危機だった。そのときに孝雅氏が考えたのが、約100種類あったパンを1つに絞ることだった。
「うちのような中小企業は、資本も資源もありません。だからこそ、選択と集中が必要だと考えたのです。100種類から1種類に絞ることで、商品開発にも100倍のエネルギーを費やせるようになりますから。同じく三原市にある菓子メーカーの共楽堂さんが、マスカットと求肥を組み合わせた『ひとつぶのマスカット』という商品を開発し、東京の一流デパートでも扱われるほど人気になったことにも勇気づけられましたね」
「口どけ×クリームパン」という組み合わせ
飽きられない、たった1つのパンを探した末に…(筆者撮影)
では商品を何に絞るのか。孝雅氏はこれまで1万点以上のパンを開発してきた。しかし、一時的に客の注目を集めても、すぐ飽きられることがほとんどだった。その理由について、「奇をてらったものばかりつくっていたからです」と分析する。長く愛される商品は、どのように開発すればいいのか。悩む孝雅氏に啓示を与えたのは、経済学者シュンペーターの言葉だった。
「“あるもの”と“あるもの”を組み合わせたときイノベーションは起こる。その“あるもの”とはスタンダードなものである、という言葉が稲妻のように入ってきました」
頭に浮かんだのは、「口どけ×クリームパン」という組み合わせだった。焼きたてのクリームパンはおいしいが、冷めると口どけで洋菓子にかなわない。また共楽堂のように、東京で販売することも考えたとき、広島で製造して運ぶことになる。時間が経過しても、味が落ちない商品をつくる必要があった。
試行錯誤を重ねた日々があった(写真はカフェリエのスタッフ。筆者撮影)
そこからは試行錯誤の連続だった。口どけをよくするため、カスタードに対し生クリームを多めに配合してみては。いや、それでは焼いたときに流れ出てしまう。パンを切って後からクリームを搾り入れたらどうか。手間がかかるからシュークリームのようにポンプで入れてみては。パン生地に使う小麦粉の配合はどうするか。パンとクリームの一体感を出すには……などなど。
周囲を説得することも楽ではなかった。商品を1つに絞ることに対し、誰もが大反対だったという。
「社員からは『うまくいくとは思えない』『ついていけません』という声が相次ぎました。2代目からは『いよいよおかしくなったか』と、考え直すよう延々説得されましたね。商品を卸していたスーパーや量販店からも激怒され、出入り禁止になったお店もあったほどです」
それでも孝雅氏は、考えを決して変えず、商品開発に取り組み続けた。それくらい、クリームパンに社運と人生を懸けていた。離れていった社員や取引先もあったが、孝雅氏の覚悟を感じてくれたのか、応援してくれる人も現れるようになった。
そして2008年の夏、1年半の開発期間を経て、“くりーむパン”の原型が完成した。まずは八天堂の店舗や広島市内のデパートで販売を開始したところ、たちまち人気商品に。品薄となり、どこで買えるのかという問い合わせも殺到した。
翌年2月には念願の東京進出を果たす。五反田駅直結のショッピングセンターに出店した際は、目立たない場所にもかかわらず、1日に2000個以上売れた。大宮駅の構内では、催事売り場の坪当たりの売り上げで、過去最高の数字をたたき出した。選ばれたブランドしか出店できない、激戦区の品川駅にも店舗を構えることができた。有名人がテレビで絶賛したこともあり、メディアにも相次いで取り上げられるように。
1つ200円と設定した値段にも狙いがあった。パンというカテゴリーにおいては高めだが、スイーツとしては手頃に感じられるからだ。実際に購入客の多くは、ケーキのような感覚で、手土産用として購入していった。くりーむパンは経営危機を乗り越えるどころか、八天堂をまったく新しいパン・スイーツの世界へと飛躍させたのだった。
社員との関係性も「激変」した
カフェリエの外観(筆者撮影)
くりーむパン以外にも、孝雅氏はさまざまなチャレンジを続けていった。2016年には、広島空港前の工場に併設して、「八天堂カフェリエ」をオープン。工場見学だけでなく、実際にパンづくり体験も行える体験型の店舗だ。お店の外では、何と2頭のポニーと触れ合うこともできる(ちなみに名前は“マロン”と“クリーム”)。
「デジタル化が進めば進むほど、人はアナログを求める習性があります。動物園にスーツ姿の大人が増えていると聞き、そう確信しました。であれば、私たちはアナログを極めようと。非日常的な空間やサービス、コミュニケーションや触れ合いを通じ、楽しく温かくサプライズを提供するためにカフェリエを始めたのです」
カフェリエの外ではポニーたちと触れ合える(筆者撮影)
今後は2020年をメドに、道の駅とコラボし、広島空港前のこの地に食のテーマパークをつくりたいと孝雅氏は話す。地元の物産を販売したり、広島らしく鉄板と掛け合わせたスイーツを提供したりすることで、地域を盛り上げると同時に、くりーむパンをはじめとした食文化を三原から東京、全国、さらに世界へ発信していくことを目指しているのだそう。そして寿司やすき焼きやラーメンのように、“くりーむパン”という言葉が世界中に広まり、食文化として定着することが目標なのだと目を細める。
そのビジョン実現に欠かせないのが、社員との関係性だ。離職者が相次いだかつてとは大きく変わった。それを表す出来事として、孝雅氏の誕生日には毎年、サプライズでさまざまなプレゼントが社員から贈られるという。孝雅氏の顔をモチーフにした、アート作品が届いたこともある。「アウシュビッツに行ってみたいな」という何気ない言葉から、同地への旅行をプレゼントしてもらったこともあるという。
「これも私が、社員のために会社をよくしたいと心から思い、本気で実践していたからでしょうね。そうでなければ、こんなうれしいことをしてくれてなかったでしょうから」
幸福と慈愛に満ちた表情で、終始笑顔でインタビューに応えてくれた孝雅氏。「人々を甘いお菓子で明るく元気にしたい」という創業者・香氏の思いは、すべてを失いかけた孝雅氏によって再発見され、新たな価値をまとい受け継がれている。