ピーター・ドラッカー〔PHOTO〕Gettyimages

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ビジネスのみならず、行政や政策に関してさえ「選択と集中」という言い回しに出会う機会が増えている。もとは経営戦略の一手法を指す用語であった「選択と集中」であるが、行政や政策のフィールドでこの語が言及されるとき、それは、「当たり馬券だけを選んで買えば、競馬で大儲けができる」という話のような非現実的な議論に陥りがちだ。

国立大学運営の基本予算である運営交付金は独立法人化直後の1兆2400億円から近年では1兆円程度まで減額され、加えて重点分野・大学への重点配分枠を増大させている。選択し、集中を進めたことで日本の大学の研究や教育の質は上昇しただろうか。

これからの日本のコンテンツビジネスを進行するとして鳴り物入りで登場したクールジャパン関連事業は毎年500億から600億円の予算措置を受けているが、明確な成果を得られていない。

個別の企業の経営戦略としての「選択と集中」、政策として実施される「選択と集中」は似て非なるもの、そして後者にとって時に有害なものなのではないだろうか。

「多様性と分散」こそが必要だ

「選択と集中」という言葉をビジネス界に広めたのは何といってもジャック・ウェルチだろう。1981年から2000年にかけてGE(General Electric)の経営者を務めた氏による経営戦略の基本方針は明確だ。業界No.1かNo.2になることができない業務からは撤退する――企業の人材・知識・資金は有限であるから、十分な収益を期待できる分野にそのリソースを集中して利益率を上げていく。

同社の顧問でもあった経営学の泰斗、ピーター・ドラッカーがこの戦略を発案者ともいわれる。ウェルチ体制の下でGEの売上高・利益率はともに6倍以上に伸びるところとなった。

ピーター・ドラッカー〔PHOTO〕Gettyimages

選択と集中の有効性を示すエピソードして有名なGEの成功であるが、十分な収益を期待できる分野にそのリソースを集中して利益率を上げていく――というのは「経営戦略」と呼ぶほどのものなのだろうか。他の企業、さらには行政や政策の分野でも参考にし得るものなのだろうか。

以上の概要を聞いてだれもが思い至るのが、「十分な収益を期待できる分野」がわかれば苦労しないというものではないだろうか。実際、当のGE自体も2000年以降、選択し集中した業務の一つである不動産事業の失敗、買収企業の業績不振による再売却など、「選択と集中」に成功し続けているわけではない。

どこかに天才的な経営者がいて、経済の未来を見通して大胆な選択、そして集中に成功することもあるだろう。または、単なる偶然として選択し、集中したら結果として業績が上がるというラッキーパンチもあるだろう。

そのプロセスはともかく、どこかには成功している企業があるという点に注目されたい。無数の企業、無数の経営者が自身の信念に基づいて経営を行い、結果として社会・経済のニーズに合致したものが生き残っていく。このダイナミズムを通じて、一国全体での平均生産性の向上や経済成長が達成されていく。

個々の企業による選択・集中戦略の成功の陰には、無数の選択・集中の失敗が隠されている。多種多様な、無数の企業による試みがあるからこそ、そのなかで成功を収める企業も登場する。

個別企業の「選択と集中」の成功は、経済全体での多様性の中から生まれてくる。むしろ社会における多様性の恩恵を受けながら、自社のみが「選択と集中」を行うことができるところに、経営戦略における「選択と集中」を成功させる要因があるのではないかと思われる。

失敗の歴史としての「選択と集中」

マクロレベルで特定の活動を選択し、資源を集中投下するという政策方針は、経済・社会の多様性を低下させる。経済活動に限らず、上からのコントロールは本来ならば活躍できたかもしれない様々な試みを摘み取る危険性をはらんでいる。

その最大の例はソヴィエト型社会主義の失敗だろう。社会主義の失敗を平等主義の失敗ーーごく単純な例としては努力してもしなくても所得が同じなら誰も努力はしないだろうといった議論、と結び付けられることが多い。

しかし、共産主義政権下においても党内での地位や配給の優先といったインセンティブづけが行われており、所得のみでは計測できない不平等が存在した。むしろ、社会主義の失敗は計画経済の困難にあった。

社会主義計画経済において、当局は生産すべき財・サービスの種類・量を提示しなければならない。社会のニーズを予想することそのものが難しいことはいうまでもないだろう。

それに加え、計画内容の決定を「人」が行うことの問題もある。計画立案者が、直接の上司、さらなる上位の党幹部を納得させることができる生産計画は「誰もが否定できない定番の商品」を「いままでの実績の延長線上で考え得る量」だけ生産するというものになる。

組織で働いたことのある者なら多かれ少なかれ経験する事態であるが、それがマクロレベルで生じるのだ。結果、経済活動の多様性は低下し、画一的な商品のみが生産され続けることになる。

計画的な経済運営が奏功するのは、目指すべき経済状態、例えば産業構成や技術開発方針の「正解」が見えている場合に限られる。

途上国における開発独裁が一定期間の有効性をもつのは「追いつくべき姿(産業構成や特定の商品の生産量など)」という、それなりに合理性のある目標が与えられているからだ。新商品の開発や新たなビジネスモデルの発見が利益の源泉になる経済では、試行錯誤のプロセスを萎縮させる計画――上からの「選択と集中」の指令は経済成長の阻害要因となる。

政府による選択と集中の危険性を示す好例が、高度成長期日本の特定産業振興臨時措置法(特振法)だろう。1963年(昭和38年)3月閣議決定された同法案では、鉄鋼・有機化学・自動車を特定産業に指定し合併と整理統合を通じて競争力ある企業をつくることが目標とされた。特定の企業を選択し、その企業に資源を集中させることで成長を加速させようとしたわけだ。

特振法をめぐるエピソードは城山三郎の『官僚たちの夏』のモチーフとなっていることから、どこかで耳にされたことのある方も多いだろう。

63年から64年にかけて3回にわたって国会に提出されるも、幸いにも、いずれも審議未了のまま廃案となった。同法案が通過していたならば、ホンダやスズキの自動車が生まれることはなかった。(小型車生産企業に指定されたであろう)スバルのインブレッサもBRZもこの世に存在しなかっただろう。「選択と集中」が行われなかった未来から振り返ると、同法がもたらしたであろう危険性を確かに感じることができる。

このようなエピソードベースの話を離れても、政府による成長産業の指定・育成が当該産業の成長につながらないことは統計的にも示されている。戦後の日本において、税制優遇や補助金による産業育成・支援をうけた産業ほど成長していない。

「正しくばらまく」ことの必要性

ミクロの「選択と集中」の成功は、マクロの多様性に支えられている。政策当局が正しい「選択と集中」を行うことができる可能性は限りなく低い。

このように書き進めると、単に変化を避け、現状維持を礼賛する主張のように思われるかもしれないが、それは誤解である。人口の年齢構成、世界的な産業構造の変革期において、これまで通りの資源配分を維持することもまた合理的ではない。

むしろ、将来・未来のことは予想できない、わからないという前提に立った資源・予算配分への変更こそがいま求められているのではないだろうか。例えば、研究費の配分を考える際に、事前にどの分野が将来の役に立つか全くわからないならば、合理的な予算配分の方法は均等割になる。

無論、現実には分野毎に最低限必要な予算に差はあるわけだが、分野や機関間ではある意味「メリハリのない予算」が合理的な配分になるだろう。一方で、各分野内での大学・研究機関の中ではそれぞれの機関の方針にあわせて選択と集中を行えば良い。多様な思想・アイデア・基準による選択と集中がそれぞれ行われることが、「成功する選択と集中」を生み出すコツなのだから。

筆者にとって身近な研究費の配分を例に取ったが、これに限らず、多様なタイプの「選択と集中」を生み出すためには何が必要かという視点が必要だ。「選択と集中」は「あたり馬券だけを買う方法」ではなく、いかにして「政策をギャンブルにしないか」を考えるための反面教師として語られるタームなのではないだろうか。