シベリア出兵の各国軍によるウラジオストクでの軍事パレード(出所:Wikipedia)


(佐藤 けんいち:著述家・経営コンサルタント、ケン・マネジメント代表)

 いまだに解決しない北方領土問題。この問題がボトルネックとなり、いまだに日本とロシアの間では平和条約も締結されず、国境線の最終画定も終わっていない。

 膠着状態はすでに75年に及んでおり、日本人にしては息が長いというべきかもしれないが、隣国関係としては異常な状態であることは否定しようがない。国際情勢が流動化し、近隣諸国との関係がギクシャクしがちな現在、北方の潜在的脅威は1日も早く取り除く必要がある。二正面作戦は絶対に避けなくてはならないからだ。

 残念なことだが、日本とロシアの関係はこれまで必ずしも良好な関係であったわけではない。4次にわたる日露協商が締結されていた、日露戦争後からロシア革命に至るまでのごく短い「黄金の10年間」は例外として、第2次世界大戦の最末期の1945年8月9日から降伏文書が調印された9月2日までの約3週間にわたったソ連軍による満洲侵攻、南樺太(サハリン)と千島列島への侵攻がもたらした虐殺と略奪は、日本人に拭いがたい不信感を植え付けた。それらの侵攻は、「日ソ中立条約」を踏みにじっての対日戦参戦であり、その後の11年間に及ぶ過酷な「シベリア抑留」につながった。日本全土で空爆を実行し、広島と長崎に原爆を投下した米国よりも、ソ連が嫌いだという人が「冷戦」時代に少なくなかったのは、そのためだ。

 この状況は、ソ連崩壊に伴う冷戦崩壊後も、基本的に大きな変化はないようだ。中国共産党政権が急速に膨張して巨大化した2010年代の現在でも、日本人のロシアに対する意識はあまり変化がないように見える。

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シベリア出兵はいまだに“知られざる戦争”

 だが、日本人は国際情勢の変化をよく認識する必要がある。中ロを一体として見なすのはやめたほうがいい。

 日ロ関係を理解するためには、まずは戦前の約70年間について振り返ってみておくことが重要だろう。それは「熱戦」の時代であった。日ロ間で戦われた4つの戦争とは、「日露戦争」(1904〜1905)、「シベリア出兵」(1918〜1925)、「ノモンハン事件」(1939年)、すでに触れた第2次世界大戦末期の日ソ戦(1945年)である。これに満洲国とソ連との国境紛争であった「張鼓峰事件」(1938年)を加えるべきかもしれない。日露戦争とノモンハン戦争、第2次世界大戦末期の日ソ戦については、何度となく映画やドラマ化されているので比較的よく知られていることだろう。

 今回はその中から、多大な戦費と戦死者数を出したにもかかわらず、現在の日本ではいまだに“知られざる戦争”となっている「シベリア出兵」について重点的に取り上げたい。前回のコラム記事(「高級チョコを日本に広めたロシア人が受けた仕打ち」http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/55430)で、白系ロシア人のモロゾフ一家が難民として日本に移住することになった背景がこの戦争の時代であった。

「岸壁の母」で有名な京都府舞鶴市生まれの私は、シベリア抑留の話を耳にすることが多かった。また、徳島市生まれの父方の祖父が「シベリア出兵」に出征している。そのため、戦前から戦後にかけて日本人が体験した2つの「シベリア」に長年にわたって強い関心を抱いてきた。祖父の現地体験については、のちほど触れることにする。

ロシアから見たら侵略戦争だった

 シベリア出兵は、第1次世界大戦(1914年7月〜1918年11月)末期の1918年8月2日に始まった。ロシア本土からの撤兵は1922年10月25日、北樺太からの最終撤兵は1925年5月15日。足かけ7年に及ぶ戦争であった。

 シベリア出兵は、多国籍軍による「シベリア干渉戦争」として始まり、後半は日本のみによる単独出兵となった。

 戦費はトータルで約10億円(当時)、戦死者は3500人にも及んだが、ほとんど何も得ることなく終わったこの戦争は、「大正デモクラシー」という時代背景もあり、日本国内ではきわめて批判が多かった。

 議会では中野正剛が激しく政府を攻撃し、「日本の近代漫画の祖」とされる北沢楽天による政治風刺漫画が人気を博していた。このような状況のなか、軍部は報道管制を行って都合の悪い情報はすべてシャットアウトし、戦地の正確な状況が国民の目から伏せられた。「知られざる戦争」となった理由がここにある。

 だが、それだけではない。戦場となったロシアは革命後の大混乱のさなかであったとはいえ、日本からみればあくまでも他国の領土である。攻め込まれたロシアから見れば、侵略戦争以外の何物でもなかった。農民を主体にしたゲリラ部隊のパルチザンだけでなく、一般住民も多く巻き込まれ、虐殺され、略奪された。ロシアからみれば、日本は何をするか分からない恐ろしい国というイメージを残すことになったのである。この事実は、きちんと認識しておかねばならない。これが、第2次大戦末期のソ連軍侵攻とシベリア抑留につながっているのである。

『はいからさんが通る』とシベリア出兵

 ここで、シベリア出兵当時の日本がどういう状況にあったかを見ておこう。

『』(大和和紀著、講談社)


『はいからさんが通る』は、1975年から77年にかけて発表された少女マンガだ。半世紀近くにわたって読み継がれてきた名作であるだけでなく、昨年(2018年)にはアニメ映画化されたほか、ドラマ化も何度もされてきた。宝塚歌劇の演目でもある。

『はいからさんが通る』の時代背景は大正ロマンの時代。現代の大学卒業式シーズンの女子大生の袴姿は大正時代のものだ。大正時代といえば「大正デモクラシー」だが、「原始女性は太陽であった」(平塚らいてう)というフレーズで有名なように、大正は「新しい女」の時代の始まりでもあった。働く女性が増えてきた時代でもある。前回のコラムで取り上げたように、「はいから」な洋風生活が浸透してきた時代でもある。

 だが一方では、全国規模で爆発した米騒動(1918年)に始まり、シベリア出兵(1918〜1925)、関東大震災(1923年)と、国内外で多事多難な時代でもあった。そもそも米騒動は、シベリア出兵宣言の翌日に始まっている。出兵に伴う食糧のコメ買い上げの噂が、さらなる米価急騰を招いたのも原因の1つであった。1973年の石油ショックの際に発生したトイレットペーパー買い占め事件を想起させるものがある。米騒動は陸軍の治安出動によって鎮圧されている。

 大正時代は「大衆の時代」の始まりであるが、ロシア革命の影響もあって労働争議が多発し、明治末期の「大逆事件」後に逼塞していた社会主義運動も息を吹き返していた。1925年には「普通選挙法」が成立して成人男子すべてに選挙権が与えられたが、「治安維持法」と抱き合わせの成立であった。

 マンガ『はいからさんが通る』は、そんな時代を背景にした作品だ。主人公の婚約者は帝国陸軍の少尉であり、シベリア出兵開始と同時に出征した設定になっている。「シベリア出兵」は、そんな大正時代の出来事であったことを、押さえておきたい。

多国籍軍による共同出兵として始まった

 では、シベリア出兵に至る経緯を見ていこう。

 ロシア革命(1917年)は、第1次世界大戦のさなかに起こった出来事である。第1次世界大戦において、革命前の帝政ロシアは英仏主導の「連合軍(協商国)」(日本もその一員)に属しており、欧州の東部戦線ではドイツ帝国およびハプスブルク帝国(オーストリア・ハンガリー帝国)と戦っていた。

 ロシア革命後に、ブレスト・リトフスク条約でドイツと単独講和を実現したボルシェヴィキ政権は東部戦線から離脱したため、ドイツは全勢力を西部戦線に振り向けることが可能となった。この状況に強い危機感を感じていたのが英国とフランスである。英仏は、ボルシェヴィキ政権を倒して、ロシアを東部戦線に復帰させることを意図していたのである。

 この英仏からの強い要請に応じて、ロシア極東とシベリアに干渉軍を派遣することになったのが、日本と米国の連合軍を中核とした15カ国に及ぶ「多国籍軍」であった。いわゆる「シベリア干渉戦争」である。

 第2時世界大戦後の朝鮮戦争やベトナム戦争、近いところではアフガンとイラク介入も米国が主導した干渉戦争であった。それらの原点がシベリア干渉戦争だったということができよう。

大義名分は「チェコスロバキア軍団の救出」

 英仏だけでなく、日本もまた別個に野心をもっていた。帝国陸軍には、「日本海内海化構想」なるものがあったという。すでに押さえた朝鮮半島と隣接する満洲、さらにバイカル湖以東のシベリアとロシア極東に、日本の傀儡政権を樹立して勢力圏を確保するという軍事構想である。

 ただし、日本は米国が踏み切らない限り出兵しないという方針を貫いていた。というのも、日米関係は経済関係が密接であったにもかかわらず、「排日移民法」(1924年)につながることになる移民制限によって、政治的には関係が悪化する傾向にあったからだ。あくまでも日米共同歩調をとることで、米国の批判を回避しようとしていたのである。

 米国は第1次大戦の開始当初は孤立主義を保っていたが、後半の1917年には大規模に出兵し、11万人強の戦死者を出して連合国の勝利に多大の貢献をなした(ちなみに第1次大戦での日本の戦死者は415人)。さらなる英仏から批判の矢面にたった米国は、ついにシベリア出兵を決断する。その要因となったのが、「チェコスロバキア軍団の救出」であった。

 チェコスロバキア軍団を説明すると、次の通り。東部戦線で捕虜となったドイツ軍とオーストリア=ハンガリー軍の将兵が、ロシア各地に収容されていた。オーストリア=ハンガリー帝国は他民族国家であり、捕虜となった将兵の中にはチェコ人とスロバキア人がいた。彼らは軍団を形成し、ロシアでボルシェヴィキ革命後に「反革命軍」として行動することになる。それがチェコスロバキア軍団だ。

ウラジオストクのチェコ軍団(1918年)(出所:Wikipedia)


 英仏は、シベリアで孤立していたチェコスロバキア軍団をシベリア鉄道経由で6000キロ以上離れたウラジオストクに移送し、さらに海路で欧州に運んで西部戦線に投入する計画を推進しようとしていた。当時は、まだチェコスロバキア(冷戦後の1992年にチェコとスロバキアの2カ国に分離)が誕生した1918年より前のことである。

 結果として、英仏の意図するとおりに、日米連合軍が「チェコスロバキア軍団の救出」という大義名分でシベリアに出兵することになった。将兵はともに7000人という申し合わせであったが、日本はなにかと理由をつけては増員し、ピーク時には7万2000人も出兵している。

シベリア出兵のために編成された浦潮派遣軍(1918年8月18日)(出所:Wikipedia)


 なお、日本以外の多国籍軍は、英仏米いずれも地理的に近いアジアの植民地から出動させた。英国は香港、フランスはインドシナ、米国はフィリピンからだ。米国は現地駐留の米国人将兵であったが、現地派遣の英国軍の傘下にはインド兵、フランス軍の傘下にはベトナム兵がいた。南方出身者にとってシベリアの過酷な環境での苦労は、想像を超えたものがあったことだろう。

ウラジオストク上陸後にパレードするアメリカ軍(1918年)Wikipedia


パルチザン部隊に包囲され全滅した部隊

 初戦は本格的な戦闘が行われたが、軍隊には付き物の先陣争いという要素もあって、日本軍が攻撃の中心にあった。日露戦争から14年しかたっていなかった日本軍のレベルはきわめて高く、敗北した敵側はただちに戦術を修正して、パルチザン主導に転換した。

 パルチザンとは、現地住民による農民主体のゲリラ部隊のことだ。神出鬼没のパルチザンは、形勢が不利になればさっさと撤退し、住民の間にまぎれこんでしまう。対ゲリラ戦は初めての経験となる日本陸軍は、最後の最後までパルチザンに翻弄されることになる。

 基本的に日本軍も米軍も、さらにチェコスロバキア軍団を含めた多国籍軍の任務の中心は、鉄道とその沿線の守備にあった。いわば「点と線」のみの確保である。パルチザン側は、至る所で鉄道と鉄道橋を破壊、電線を切断して、拠点ごとに分散して駐屯していた日本軍を孤立させ、各個撃破するという作戦をとってきた。典型的なゲリラ戦術である。そのため、日本陸軍の鉄道隊と工兵隊が、ひたすら鉄道橋や電信設備の修理に追い回されていたのが実態であった。さらにパルチザン側は、鉄道がストップし物資が欠乏している原因は日本軍のせいだと宣伝を行って、反日感情をかき立てる戦術をとりつづける。

 1919年2月25日には、シベリア鉄道沿線のユフタで田中勝輔少佐が率いる田中支隊がパルチザン部隊に包囲され全滅するという惨事が発生した。負傷して戦線を離れていた4人を除いて、44人がことごとく戦死した。その後、かけつけた友軍が発見した日本軍将兵の死体は、武器弾薬も持ち物もすべて奪われ、しかも衣服をはぎ取られていた。即死した者以外も、極寒のため凍死したのである。この全滅事件が、日本軍による報復を引き起こし、パルチザンをかくまったという理由で、村全体を焼き討ちにする事件も発生している。ベトナム戦争の際の、米軍によるソンミ村事件やと韓国軍による蛮行と変わることがない。この件については、歩兵として全滅後の現場にかけつけた松尾勝造氏による『シベリア出征日記』(風媒社、1978年)に、詳細にわたって具体的に記録されている。

 田中支隊の全滅は、帝国陸軍始まって以来の惨事となった。日本軍は太平洋戦争でのアッツ島やガダルカナル島では玉砕したが、シベリア出兵当時はまだ玉砕などという美辞麗句は使用されていなかった。この全滅の事実の詳細は軍部によって伏せられ、このあと述べることになる「尼港事件」ばかりがクローズアップされることになる。

『シベリア出征日記』や、この日記を世に出す役割を果たした高橋治氏によるノンフィクション小説『派兵 第1部・第2部』(朝日新聞社、1973年)を読むと、出兵当初は凍傷被害がきわめて多かったことが分かる。防寒対策が最初の段階では十分に進んでおらず、現地の状況から学んで改善・改良が実行されていったようだ。厳冬期にはマイナス40度以下にもなる現地では、防寒着のため着ぶくれ状態で、戦闘には不向きであった。こんな状態では、いずれにせよ、現地に根を張ったパルチザンに対して勝ち目があったとはとてもいえない。

 さらに、現地のロシア人に対して行われた虐殺や略奪だけでなく、日本軍内部でも窃盗や脱営・逃走、上官侮辱や抗命などが多数発生し、軍規が乱れていたことを、現地に派遣されていた憲兵隊が記録している。軍規が弛緩していたのは士官もまた同様であった。戦争の目的があいまいで明確ではなかったことが、これらの不祥事を引き起こしていたのである。

「尼港事件」以後は日本の単独出兵に

「尼港(にこう)事件」後は日本の単独出兵となる。尼港事件とは、アムール川河口にある地方都市ニコラエスク・ナ・アムーレで日本人居留民と日本守備隊が全滅した事件のことだ。1920(大正9)年5月24日に発生した惨劇である。

「流れ流れて落ち行く先は、北はシベリア南はジャワよ」というのは、「流浪の歌」という当時の流行歌の一節だが、大正時代までは南方のオランダ領東インド(=現在のインドネシア)だけではなく、北方のシベリアにも多くの民間人がチャンスを求めて渡っていた。ニコラエスクにも、長崎や天草出身の女性が多く渡航していたという。シベリア各地に「からゆきさん」たちが多くいたことは、出兵前に特命を帯びてブラゴヴェシチェンスクに派遣されていた石光真清の手記『誰のために』(中公文庫、1979年)にも活写されている。

 ニコラエフスクはパルチザン部隊によって包囲されたのだが、5月になってもアムール川が凍結しているため日本からの救援隊が接近できず、日本人居留民と陸軍を中心とした守備隊の約700人、ロシア人や中国人・朝鮮人をふくめた住民 6000人強が、4000人近いパルチザン部隊によって虐殺され、ニコラエスクの街全体が焼き払われたのである。

「尼港事件」で焼け落ちた日本領事館(出所:Wikipedia)


 日本国内で「尼港事件の敵(かたき)を討て」という議論が沸騰したこともあり、軍部はこれに乗じて北樺太(北サハリン)を占領した。とくに海軍においては、石炭から石油へのエネルギー転換期にあたり、石油資源の確保が至上命題となっていたことも背景にある。

 この尼港事件と同時期のことになるが、連合軍のパートナーであった米軍が撤兵し、多国籍軍を構成していた英仏やその他の国の軍隊も撤兵していった。出兵の大義名分であったチェコスロバキア軍団の撤兵が完了し、しかも英仏は反革命軍に見切りをつけたためである。英仏は、その後1924年にはソ連を承認した。日本だけが単独出兵という形で居残ることになったわけだが、往生際が悪いとしかいいようがない。

プロレタリア作家が伝える兵士たちの気持ち

 その単独出兵のステージでシベリアに出征し、のちに作家となった一兵士がいた。

 シベリア出兵を題材に短編小説を数編執筆しているのが、プロレタリア作家の黒島伝治(1898〜1943)である。代表作の「渦巻ける烏の群れ」は岩波文庫に収録されているので、読んだことがある人がいるかもしれない。

『渦巻ける烏の群―他三編』(黒島伝治著、岩波文庫、1953年)


「シベリア出兵もの」の代表作が、岩波文庫に収録されている「渦巻ける烏の群」(1927年)と「橇(そり)」(1927年)であり、このほかにも「雪のシベリア」(1927年)、「氷河」(1928年)、「パルチザン・ウォルコフ」(1928年)、「リャーリャとマルーシャ」(1926年)、「栗本の負傷」(1926年)、などの短編がある。リンクをつけた短編は、「青空文庫」で無料公開されているので、関心のある人は読んでみてほしい。

 プロレタリア文学とか反戦文学とかいった先入観を外して読むと、なかなか面白い小説である。リアルな描写からはこの戦争の無意味さも伝わってくる。厳冬期のシベリアと、兵隊の立場からみた軍隊生活のリアルが描かれているからだ。作家自身のリアルな現地体験と伝聞情報をもとに、さまざまなエピソードが展開されている。

「橇」から一部抜粋して引用しておこう。戦地にいた兵士たちの気持ちを代弁しているといっていいだろう。

<兵士達は、銃殺を恐れて自分の意見を引っこめてしまった。近松少佐は思うままにすべての部下を威嚇した。兵卒は無い力まで搾って遮二無二(しゃにむに)ロシア人をめがけて突撃した。――ロシア人を殺しに行くか、自分が×××(引用者注:原文は検閲のため3文字が伏せ字)るか、その二つしか彼等には道はないのだ! けれども、そのため、彼等の疲労は、一層はげしくなったばかりだった。(・・・中略・・・)
 どうして、彼等は雪の上で死ななければならないか。どうして、ロシア人を殺しにこんな雪の曠野にまで乗り出して来なければならなかったか? ロシア人を撃退したところで自分達には何等の利益もありはしないのだ。
 彼等は、たまらなく憂欝(ゆううつ)になった。彼等をシベリアへよこした者は、彼等がこういう風に雪の上で死ぬことを知りつつ見す見すよこしたのだ。炬(こたつ)に、ぬくぬくと寝そべって、いい雪だなあ、と云っているだろう。彼等が死んだことを聞いたところで、「あ、そうか。」と云うだけだ。そして、それっきりだ。>

(「青空文庫」より)

 小豆島に生まれた黒島伝治は、1919年に姫路の第10師団に招集され、看護卒(=衛生兵)として1921(大正10)年4月に戦地に送られた。『軍隊日記』にはウラジオストク上陸後、ラズドリノーエ駐屯地に移ったとある。1922年4月に肺尖炎の悪化によりシベリアから帰国、早期除隊している。作家としてのデビューはその後のことである。

シベリアの極寒を2回体験した祖父

 冒頭で触れたとおり、私の祖父もシベリア出兵に出征している。徴兵によって第11師団(善通寺)の歩兵62連隊(徳島)に招集された祖父がシベリアに駐留することになったのは、1920年7月10日のことであった。シベリア出兵の後半の「単独出兵」のステージにあたる。

 シベリア出兵の準公式戦史ともいえる『西比利(シベリア)出兵史要』(菅原佐賀衛、財団法人偕行社、1925)によれば、以下のような状況であった。菅原佐賀衛氏は、出版当時は陸軍少将。

<(ザバイカル方面からの)第5師団撤退の際、万一の事が起こってはならぬというので、第11師団(善通寺)の歩兵1旅団は浦潮(=ウラジオストク)に急派せられ、7月10日に同地に上陸した。(・・中略・・) かくて浦潮付近にありては、北に第13師団を、南に第11師団を、また北満洲にありては北満洲派遣隊を哈爾浜(=ハルビン)ボグラニーチウヤナ間に配置して、おのおのその地方の交通および治安の維持に任せしむる事になって、いわゆる新配置に移ったのである。>

(*引用にあたって、漢字は新字体にし、一部をひらかなに直した上で句読点を補った)

 祖父のシベリア駐留は、1922年5月にかけてのまる2年に及んでおり、その間、シベリアの極寒を2回も体験している。ウラジオストク周辺の沿海州で、シベリア鉄道沿線の守備が主要任務であった。上記の引用文に「急派せられ」とあるが、日本が撤兵していれば、戦地に送られることもなかったはずだ。

 奇しくもプロレタリア作家・黒島伝治とは、派遣の時期が重なっているだけでなく、なんと同じラズドリノーエ駐屯地にいたのである。すでに祖父が亡くなってから四半世紀に近いので、現在となっては確かめようがないが、現地の陸軍病院には必ず行っているはずだし、看護卒の黒島伝治と顔くらいは合わせたことがあったかもしれない。ただし、この時点では、黒島伝治はあくまでも陸軍病院勤務の看護卒(=衛生兵)であって作家ではない。

祖父の「軍隊手牒」(筆者撮影)


 黒島伝治の『軍隊日記』の1921(大正10)年10月15日の項には、「今日、歩62に浦潮の軍楽隊が来た・・」という記述がある。「歩62」とは祖父が属していた歩兵第62連隊のことだ。楽しみの少ない駐留生活にも、内地からの慰問袋のほかに、こんな催しもあったわけだ。

 シベリアの軍隊生活の話は、子どもの頃から大人にかけて祖父から何度か聞いたことがある。だが、本人の口から「シベリア出兵」というコトバは一度も聞いたことがない。自分が出征した戦争がそう呼ばれているという認識がなかったためだろう。祖父の遺品である「軍隊手牒」には、現地駐留中に「大正三年乃至九年戦役」の従軍記章が授与されたとある。第1次世界大戦が始まった大正3年(1914年)から、シベリア干渉の「多国籍軍」が撤退した大正9年(1920年)までがその期間である。

 シベリアの厳冬期がいかに過酷なものか、軍隊内で募集があったのを幸いに歩兵から通信兵に転換できたこと(人を撃つのがいやだったから)、必要に迫られて現地でロシア語を勉強したこと、ロシア人女性が美人であること、内地からの慰問袋などの話が中心だった。「軍隊手牒」には、現地駐留中に「パルチザン掃討」作戦に通信兵として2回参加していることが朱筆で記録されている。尼港事件の影響もあって、「パルチザン」というと日本人のあいだでは悪の代名詞のような存在だったとはいえ、現地では誰一人として殺さず、誰にも殺されずに生きて帰ってきたことは、孫としてはホッとさせられる。

祖父の「軍隊手牒」に記された軍歴(筆者撮影)


 徴兵されて戦地に送られるというのは、ある種の偶然のなせるわざではあるが、運命の巡り合わせとしかいいようがない。志願してなる職業軍人とは違うのである。

 1922年6月には、最終的に10月末までに日本軍のシベリア撤兵が決議され、10月25日はウラジオストクからの撤兵が完了する。祖父は閣議決定前の5月にウラジオストクから帰還している。日本軍の単独出兵に対するため、1920年に緩衝国家として作られた「極東共和国」は、その役割を終えてソ連に統合されることになった。

研究の余地があるシベリア出兵の「失敗の本質」

 日本軍が北樺太(北サハリン)から最終的に撤兵したのは1925年5月だが、同じ年の1月には「日ソ基本条約」を締結して、日本はソ連を承認した。英仏による承認の翌年のことである。だが、反共国家の米国がソ連を承認したのは、なんと1933年である。日本よりもはるかに遅かったのである。

 なお、その間の1924年には外モンゴルが独立し、ソ連の衛星国第1号としてモンゴル人民共和国が誕生している。1939年のノモンハン事件(=ハルハ河戦争)は、このモンゴル人民共和国軍と満州国軍との戦闘であったが、実質的にはそれぞれの背後にいたソ連軍と日本軍の戦争であった。

 日本を代表する経営学者の野中郁次郎氏を中心とした執筆陣によるロングセラーの名著『失敗の本質-日本軍の組織論的研究』(中公文庫、1991年)には、事例研究の一番目にノモンハン事件が取り上げられている。ノモンハン事件の失敗原因もまた、作戦目的があいまいであったことが指摘されているが、ノモンハン事件前史としてのシベリア出兵については触れられていない。シベリア出兵の「失敗の本質」については、まだまだ研究すべき余地があるといえるだろう。

 シベリア出兵では傀儡政権つくりに失敗したが、満洲事変と日中戦争では成功している。ただし、日中戦争においても、シベリア出兵と同様に、「点と線」だけで「面」を押さえることができなかった。抗日ゲリラにも大いに悩まされた。この点に関しては、日中戦争はシベリア出兵と同じであり、日本軍がシベリア出兵の失敗から真剣に学んでいなかったことがうかがわれる。同じ失敗がそのまま中国で繰り返され、そして、またそれも最終的に失敗に終わったのである。

 ところでプーチン大統領は、2011年11月にロシア国民向けに、次のような意味の発言を行っている。「現代ロシアには2つの困難な時期があった。皇帝が去ってすぐ始まった惨事、それと1991年のソ連崩壊だ」、と。前者の「惨事」とは、1917年のロシア革命とその後の激しい内戦によってもたらされた大混乱を指している。シベリア出兵とは、まさにそのロシア内戦のさなかに行われた干渉戦争であった。

 失敗の本質を考えるだけでなく、日ロ関係を正しく認識する意味でも、シベリア出兵について知っておく必要があるのだ。関心のある人は、まずは全体像をつかむために、政治外交面を中心にコンパクトにまとめられた『シベリア出兵-近代日本の忘れられた七年戦争』(麻田雅文、中公新書、2016)を読むことをお勧めしたい。

筆者:佐藤 けんいち