「日本にキャッシュレスが浸透しない理由には、文化的な要因がある」の写真・リンク付きの記事はこちら

東京の「日本橋」という地名は、江戸時代からある古い橋にちなんだものだ。現在の橋は明治時代に建設されたものだが、いまは橋の上に高速道路が走っていて美しい景観が損なわれてしまっている。

日本橋は東京のビジネス街の一角だが、外国人がここで現金を手に入れる場所を見つけるのはかなり難しいだろう。

最近、あるイヴェントでの講演のために東京を訪れる機会があった。ATMで現金を下ろそうとしたところ、最初の2台は米国のデビットカードは使えず、3台目でようやく1万円札を入手することができた。この美しい紙幣には、慶應義塾大学の創始者である福澤諭吉という学者の肖像画があしらわれている。

現金が必要だったのは、日本の小売業者は現金での支払いを望むからだ。韓国では店舗決済のほぼすべてがキャッシュレスで、中国でも電子マネーが急速に普及するなか、日本の小売販売の8割は依然として現金で決済されている。これは、この国では紙幣と硬貨が人々の日常生活に深く根付いているためだ。

現金は文化と強い結びつき

日本では現金は文化と強い結びつきがある。例えば、お年玉と呼ばれる伝統があり、子どもたちは1月1日に綺麗な封筒に入った少額の現金をもらうことになっている。国際大学グローバル・コミュニケーション・センター(GLOCOM)准教授の櫻井美穂子は、「子どものころはお年玉が本当に楽しみでした」と話す。

櫻井は現金には安心感があるとも指摘する。また、結婚式などのお祝いを送る習慣のある行事では、やはり現金が使われる。祝い事の席では折れ目の付いた古い紙幣はよくないとされ、新札を用意しなければならない。

日本の店舗スタッフは釣り銭の計算が非常にうまいため、キャッシュレス社会になったからといって、小売業界が活性化されるということはないようだ。櫻井は「お釣りの金額については、お店の人を完全に信頼できます」と言う。彼女は大学院時代に米国に滞在していたが、現地で暮らした経験から、米国の小売店のレジ係には日本のような安心感は抱けないと感じたという。

国際大学GLOCOM教授の高木聡一郎も、「日本ではクレジットカードの決済を待っているよりは現金で支払った方が早いと思います」と話す。

つまり、現金の安心感、店員の能力の高さ、儀礼の場での紙幣と硬貨の必要性といったことに秘密があるようだ。また、小規模小売店への同情もある。カード決済の場合、小売店はクレジットカード会社に3パーセント前後の手数料を払わなければならないからだ。高木は「ローカルで小規模な店舗の経営を考えて、現金で支払うケースもあります」と説明する。

アジア各国に後れをとる日本

昨年の訪日外国人旅行者数は3,000万人を超えたが、彼らの大半が、日本では他者への気配りとマナーが非常に重視されているということに気づいたはずだ。

アジアのほかの国に目を向けると、中国での電子決済の浸透を受けて、シンガポールと香港でもキャッシュレス化が進みつつある。韓国ではクレジットカード決済に対する減税措置に加え、一定以上の規模の小売店に対してカード決済の受け入れが義務化されていることもあり、20年以上前からカード社会への移行が進む。韓国銀行は、2020年までに硬貨の鋳造を停止する方針を示している。

日本と韓国は海を挟んでお隣同士で、テクノロジーに関しては韓国より進んでいる部分も多いが、キャッシュレス社会に向けた準備では大きく後れをとっているようだ。もちろん、電子決済プラットフォームは日本全国に存在する。東京なら、PASMOやSuicaといった公共交通機関のプリペイド式ICカードが小売店でも使える。

こうしたICカードの人気が高いのは銀行口座とひも付けられていないからではないかと、櫻井は指摘する。プリペイドのためリスクも最小限に抑えられている。しかし、プリペイドカードに入金するには現金が必要になるという矛盾もある[編註:一部でクレジットカードによる入金も可能]。

過渡期にある日本社会

交通機関と言えば、タクシーでクレジットカードが使えるようになったのはここ数年の話だ。東京での滞在中、タクシーを呼び止めるたびに、運転手とジェスチャーを使った「会話」をしなければならなかった。乗車する前に両手の親指と人差し指で長方形を作ってドライヴァーに見せて、カードが使えるか確認するのだ。

電子納税も簡単ではない。日本では2016年に共通番号制度が導入され、国民全員に「マイナンバー」と呼ばれる12桁の番号が割り当てられた。ただ、個人番号カードの取得は強制ではなく、実際にカードをもっている日本人は全体の10パーセント程度にとどまっている。また、ほかの各種制度との統合もそれほどには進んでいないようだ。

それでも、日本社会は過渡期にあるようだ。政府は生産性の向上を目指し、電子決済のさらなる普及に向けた施策を推進する。中小規模の事業者に対しては、非現金決済の場合は一部を還元することを検討中だ。

経産省による構想

一方で、キャッシュレスを巡る政策では問題点が指摘されているものもある。日本では10月に消費税率の2ポイント引き上げが予定されており、政府は増税による消費の落ち込みを防ぐための措置をとることを明らかにした。

具体的には、引き上げから一定期間は、ポイント付与機能がある電子マネーやクレジットカードでの決済に限って、ポイントのかたちで数パーセントを消費者に還元するという。ただ、増税の影響を強く受けるとみられる貧困層や高齢者はクレジットカードをもっていない可能性が高い。

電子決済が普及した場合の影響がどのようなものであれ、日本における現金廃止の動きは、構造的な変化には見えない。まず、行政システムの電子化が進んでいない。複雑な納税プロセスに加え、さまざまな人生の節目でアナログな手続きが存在する状況は当面は変わらないだろう。

経済産業省は「キャッシュレス・ビジョン」なる構想を明らかにしているが、これもスローガンに近いように思える。櫻井は研究のためにノルウェーに数年間住んだことがあるが、その間、現金はほとんど使わなかったという。ところが、昨秋に日本に帰国するやいなや、紙幣と硬貨なしでは生活ができなくなった。

既存のシステムとの不協和音

わたしは彼女に、日本政府はなぜキャッシュレス化を推し進めようとしているのか聞いてみた。ICカードはチャージに現金が必要なこと、電子納税の手順が複雑なことといったもろもろの事情を考え合わせると、状況がよくわからなかったからだ。

櫻井はこれについて、2020年に東京で行われるオリンピックが大きいはずだと言う。政府は外国人観光客が街なかで現金を入手することの難しさに気づいている(ATMから現金を引き出すのに苦労した外国人はわたしだけではなかったのだ)。オリンピック開催に伴う訪日客の買物需要を伸ばすためには、カード決済の普及は不可欠だ。

ただ、それに向けた努力は主に文化的な理由から既存のシステムにうまくなじまず、不協和音を奏でている。冒頭に説明した日本橋と高速道路のようなものだ。この高速道路は近い将来、地下化する構想があるという。日本人はスムーズな交通の流れを犠牲にしても、昔の美しい橋の姿を取り戻したいと思っているのだ。

スーザン・クロフォード|SUSAN CRAWFORD
『WIRED』US版アイデアズ・コントリビューター。ハーヴァード大学法科大学院教授で専門は通信政策。著書に「Responsive City」「Captive Audience」などがある。