さる2月12日は、戦後、明治から昭和に至る時代を俯瞰し、数々の話題作で戦後の国民的歴史小説家と称された司馬遼太郎が1996(平成8年)にこの世を去った忌日「菜の花忌」でした。昨年2018年は明治維新150年。日本各地で明治150年を記念した催しが多く開催されました。そして今年は天皇の譲位と改元がおこなわれます。270年に及ぶ長い江戸幕藩体制が崩壊した後にはじまった日本の近現代史は、大きな戦争や災害、また体制の変遷をはさみながら、一つの連続体として捉えることができます。司馬遼太郎は「司馬史観」といわれる歴史の見方を提示して、戦後の歴史マニアのみならず、日本人論の教祖とも言える存在となりました。


「戦後」を体現した歴史小説家・司馬遼太郎の誕生

司馬遼太郎(本名・福田定一)は、1923(大正12年)年8月7日、大阪市に生まれました。太平洋戦争さなかの昭和17年、旧制大阪外国語学校(新制大阪外国語大学の前身、現在の大阪大学外国語学部蒙古語学科に入学。昭和19年、陸軍久留米戦車第一連隊に小隊長として配属、関東地方の栃木県で本土決戦に備えていたとき終戦を迎えています。復員後、地方新聞社を経て産経新聞社に入社、記者の仕事をしながらいくつかの短編を発表。1958年に発表した忍者を主人公にした歴史小説「梟の城」で直木賞を受賞し、産経新聞社を退職し、作家生活に入りました。以来、豊富な読書量と新聞記者時代に培ったキレのいい高揚感のある文体、わかりやすく明快なキャラクター造型、ユーモアのある語り口など、歴史小説に新風を起こし、一躍人気作家となりました。
司馬遼太郎のほとんどの著作は、日本史の出来事や人物を題材にしたいわゆる歴史小説ですが、日本史といってもその多くが室町末期の戦国から安土桃山時代、そして江戸時代、明治時代〜昭和前半までの近世〜現代史にほとんど材を得たもの。日本史の中で人気のある時代と言えば、戦国時代と幕末/明治維新が双璧ですが、そうした歴史マニアの偏った好みの傾向を作り上げたのは、司馬遼太郎である、と言っても過言ではありません。1963年からはじまり、今なお続くNHKの大河ドラマで、もっとも多くの原作を提供しているのも司馬遼太郎です。戦後高度成長期(1955年〜1973年)のはじまりとともに登場し、日本の絶頂期の経済成長と軌を一にするごとく、代表作を次々と発表します。そして、高度成長期が終わり、熱い時代から「しらけ」の空気が日本を覆い、「自分探し」がはじまるころ、司馬もまた小説家としては寡作となる一方、エッセーで日本人論・日本文化論を展開するようになり、あたかも日本人のアイデンティティをたずねて歩く巡礼のような連載「街道をゆく」を1971年にスタートさせ、連載は、1996年、司馬がこの世を去る直前まで書き継がれました。

弘川寺 西行堂


「合理主義」「武士道」を理想化した司馬ワールド

戦後の日本が工業品輸出で猛烈に経済成長していた時代、それを支えた全国の経営者や労働者たちのモチベーションを支えたロマンが司馬遼太郎の歴史小説だった、といってもいいでしょう。敗戦の傷もまだ癒えない当時の日本人にとって、太平洋戦争以前の日本、江戸時代から明治時代に生きた、近代的な合理的行動原理と高い志を併せ持つ武士=サムライとその魂を継ぐ明治の男たち、それを支える気丈な女たちが美化して描かれた世界は心地よく、熱狂的に支持されました。
雑賀鉄砲衆を率い織田信長に抗した雑賀孫市(「尻啖え孫市」)、新撰組の副長で、洋服を好み実践的な戦法で知られた土方歳三(「燃えよ剣」)、曖昧模糊とした剣術の世界に合理的な理論と修行法を確立させた千葉周作(「北斗の人」)、北越戊辰戦争で政府軍を苦しめた河井継之助(「峠」)、近代日本の軍隊の礎を築いた兵法家大村益次郎(「花神」)など、近代合理主義の先駆となったような人物像。
強大な徳川家康に正義の戦いを挑んだ石田光成(「関ヶ原」)、明治新政府の種をまき、安政の大獄で死罪となった吉田松陰(世に棲む日日)、真田十勇士きっての実力者霧隠才蔵(「風雲の門」)など、命をかけて義と道理を貫く「侍」の生き様。
そしてそのどちらも兼ね備え、究極の理想像として描かれたのが、坂本龍馬(小説中では竜馬/「竜馬がゆく」)でした。薩長同盟を実現させ、日本に近代国家としての「夜明け」をもたらした最大の功労者として名をはせるスーパースター・土佐藩士坂本龍馬。明治政府で冷遇され続けた土佐藩の出身者たちが、坂本龍馬を主人公とした物語をアピールしてきた先例はありますが、そうした伝説をたくみに統合し、日本史屈指のヒーロー像を定着させたのはまぎれもなく司馬遼太郎です。しかし、その「竜馬」伝説は数々の創作や史実との齟齬を見せ、端的に言えば「歴史物」というよりは「神話」に近いもの。
史実を大きく逸脱したエピソードはたびたび批判もされ、小説内で書かれていることは事実なのか、と質問されることのあった司馬は、「自分は歴史学者ではなく小説家であり、答える必要はない」と反論しています。その上で「小説家といえども史実を捻じ曲げていいものではないとは思っている」と書いています。が、必ずしもその言葉は守られているとは言いがたいものがあります。
こうした司馬遼太郎の特徴的な小説世界を貫く作者の意図(テーマ)が、後に司馬自身によって語られることになる日本近代史論、すなわち「司馬史観」です。

竜馬が愛したという高知県「桂浜」


戦後日本を呪縛した甘い夢。「司馬史観」とは何か?

司馬史観の特徴は、簡単に言えば鎖国時代から近代国家に急速な変貌を成し遂げた明治維新政府、明治時代の日本人への賛美と、昭和に起きた太平洋戦争を引き起こした日本帝国政府、とりわけ日本陸軍に対する嫌悪と憎悪です。司馬は、日本人が急速な近代化をなしとげた理由は、江戸時代に培われた道徳意識、とりわけ高い志と自制心、責任感を植え付けるエリート教育たる「武士道」にあるとしました。固定身分制度だった江戸時代には、特権階級である武士の後取りは、生れ落ちたときから武士としての教育を叩き込まれて育ちます。それが何代も繰り返されることで、きわめて純度の高い志をもつ「武士」が培われたとします。江戸時代の日本人は、生まれた家により、武士は武士、農家は農家、商人は商人と、自身の生まれを運命として受け入れました。この独自の制度があったからこそ、江戸時代に優れた人材が準備され、近代化を見事に成し遂げられたのだ、としました。
また司馬は、大阪の生まれらしく、重商主義の考えを常に持ち、彼の言う「合理主義」とは、「無駄なこと、儲からないことはしない」「役に立つと思うことはどんどん取り入れる」という商人気質に近いものでした。逆に、司馬は役に立たない堅固な「思想」いわば理想主義を嫌い、このため、自刃した三島由紀夫の死と主張を、徹底的に批判しました。司馬は、こうした理想主義こそが、日本を無謀なアメリカとの戦争に駆り立てたと考えていました。その一方で、日清・日露戦争は、合理的実践者たる軍神たちによる美しい戦争としてとらえられました。
こうした司馬の考え方は、ある意味では正しく、ある意味では間違っていると言えます。
言うまでもなくいかなる戦争も悪であり悲劇です。そして戦争において、絶対正義の国家もなければ絶対悪の国家もありません。歴史を学ぶとは、そうした客観性を身につけることですが、その点で司馬史観は、太平洋戦争という「悪夢」を憎む余り、明治と戦後昭和を無辜な理想世界としてしまったのかもしれません。

記念艦「三笠」

暦の上では、春。巷で語られる「平成最後の…」というフレーズがいよいよリアルさを帯びてきました。一つの元号が変わろうとする今、さまざまな視点からこれからの日本の歴史について考えてみてはいかがでしょうか。