フジロック19でヘッドライナーを務めるザ・キュアーの歩みを総括した、14000字の決定版インタビュー。各アルバムに対する評価とエピソードを、フロントマンのロバート・スミスが包み隠さず語る。

ザ・キュアーの11枚目のアルバム『Bloodflowers』の発売を目前に控えた2000年のある日、写真撮影を終えたばかりだったロバート・スミスは、トレードマークのヘアスタイルと口紅はそのままに、ニューヨークのとあるホテルにあるバーでザ・キュアーのCDの山を前にしていた。彼は1枚ずつ手に取り、笑顔を浮かべたり、時には思い切り顔をしかめたりしながら、各アルバムについて語ってくれた。

過去にもそうだったように、スミスは最新作がバンドの最後のアルバムになると確信していた。しかしその予想は外れ、2004年に本誌(米ローリングストーン)は同記事をアップデートしている。それから4年後、彼は再び本誌の取材に応じ、同記事には2008年作『4:13 Dreamについての内容が加筆されることになった。

1.
『Three Imaginary Boys / Boys Dont Cry』
1979年 / 1980年


送りつけたデモテープがほぼすべてのメジャーレーベルから却下された後、ロンドン郊外の町クローリー出身の幼馴染3人は、ポリドールの傘下にあるフィクション・レコーズと契約を交わした。レーベルオーナーでプロデューサーのクリス・パーリー(ザ・ジャムとスージー・アンド・ザ・バンシーズをポリドールと契約させた仕掛け人)の指揮のもと、ザ・キュアーはデビューアルバム『スリー・イマジナリー・ボーイズ』を、ロンドンのMorgan Studiosでわずか3日間のうちにレコーディングした。その翌年、Fictionは同作にバンドの初期シングルを追加した改訂盤『ボーイズ・ドント・クライ』をリリースしている。

スミス:デビューアルバムに収録されてる曲群は、僕が2〜3年かけて書いたものだ。「10:15 Saturday Night」や「Killing An Arab」を書いたのは16歳の頃で、アルバムをレコーディングしたのは18歳の時だったんだけど、中には完全には納得のいってない曲もあった。「Boys Dont Cry」とか、ポップな曲群はどうかしてるってくらいナイーブだよね(笑)。でも毎日学校に通うだけで、実体験じゃなくて本で読んだ内容を歌にするしかなかったティーンエイジャーにしては、なかなか良い出来のものもあると思う。

同じスタジオでザ・ジャムが昼間にレコーディングしてたんだけど、僕らは夜にこっそり彼らの機材を拝借してアルバムをレコーディングしたんだ。その管理を任されてた顔見知りのやつに頼んで、テープマシンとかそういうのを使わせてもらった。

キュアーのディスコグラフィーの中で、1枚目は最も好きになれないアルバムなんだ。自分で書いた曲だし、歌っているのは紛れもなく僕自身だけど、それ以外のことには一切口出しできなかったからね。プロダクション、収録曲の選択と曲順、それにアートワーク、そういうのは全部僕じゃなくてパーリーが決めたんだ。僕は若いなりに、そのことをすごく理不尽だと感じてた。アルバムを作ることをずっと夢見ていたけど、いざその時が来たら自分の意見はまるで無視されてしまった。その時に決めたんだよ、今後は制作費は自分たちで負担して、作品に関するすべてのことを自分たちで管理しようってね。

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2.
『Seventeen Seconds』
1980年


ザ・キュアーが前座として同行したスージー・アンド・ザ・バンシーズのUKツアーで、ヘッドライナーのギタリストが途中で脱退したため、スミスは両バンドでギターを弾くことになった。NMEはどちらのステージでも同じ見栄えのしない服を着ていたスミスを揶揄し、ザ・キュアーを「イメージもスタイルもないバンド」と評した。バンドが再びMorgan Studioでアルバムの制作に着手した際に、ベーシストのマイケル・デンプシーはスミスが書いたムーディーな新曲群をけなしたため、スミスは彼の代わりにサイモン・ギャラップをメンバーに迎えた。また当時新鮮だったシンセサイザーに夢中だったスミスは、キーボーディストのマシュー・ハーリーをバンドに加入させる。

スミス:『Three Imaginary Boys』の売上金で、僕は10日間スタジオを押さえた。アルバムは8日間で完成させたから、2日分は払い戻してもらった。ビールにお金を使いすぎてたから、あれは助かったね。レコーディングを終えた日の朝8時頃、そこで写真も撮ったんだ。顔見知りのスタッフに「ブレたやつも何枚か撮ってくれ」ってリクエストしてね。結果的に、そのブレたやつを使うことにしたんだ。ピントの合った写真があまりに酷かったからね。

『Seventeen Seconds』を作ってた時、誰も聴いたことがない音楽を生み出してるっていう手応えを感じてた。その時から僕は、いつだってバンドの最後のアルバムにするつもりでレコーディングに臨むようになった。有終の美を飾るに相応しい作品にしようと、自分のベストを尽くしてきたんだ。『Seventeen Seconds』は、そういう思いが実を結んだ数少ないアルバムのひとつだと思う。

「A Forest」では、素晴らしいサウンドとミステリアスなムードを表現できたと思う。クリス・パーリーからは「ラジオ向けにアレンジすれば、この曲は大ヒットする」って言われたけど、僕はこう答えた。「手を加えるつもりはない、これが僕の頭の中で鳴っているサウンドだから。ラジオでヒットするかどうかなんて重要じゃないんだ」僕が意図的に成功を避けようとしてると彼は思ってるようだったけど、それは事実じゃない。バンドが大勢の人々から愛されるようになったのは、僕らが常に予想不可能な存在だったからだ。そうじゃなかったら、僕らのキャリアはこんなにも長続きしなかったはずさ。

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3.
『Faith』
1981年


スミス自身が認めているように、ザ・キュアーの3作目『Faith』は多難なアルバムとなった。1ヶ月間に渡って複数のスタジオでレコーディングされた同作は、死と疎外感、ドラッグ、そしてアルコールの影響下で生まれた。

スミス:バンドのメンバー全員が家族の死を経験したことが、『Faith』のサウンドに大きく影響したんだ。僕の両親の家のダイニングルームで録った最初のデモは、すごくアップビートだった。でもその2週間後には、バンド内に漂うムードは一変してた。ある夜に僕が書いた「All Cats Are Grey」と「The Funeral Party」が、アルバムのトーンを決定づけることになった。

このアルバムのツアーに出た時、バンドには陰鬱なムードが流れてた。辛い出来事を毎晩ステージ上で追体験するっていうのは精神的に良くなくて、完全にうつ状態になってた。そういう理由で、このアルバムには複雑な思いを抱いてるんだ。

大した規模ではないにせよ、バンドが成功を収めつつあるという事実に、周囲の人間の多くが居心地の悪さを覚え始めてた。僕らのことを妬んで「お前らは変わっちまった!」なんて言ってくるやつらが大勢いたよ。そりゃあ変わりもするさ、ヨーロッパを渡り歩くようになれば毎日同じパブに通うわけにはいかないんだから。僕らは多くの友人を失い、以前にも増して閉鎖的になっていった。記憶がなくなるまで呑んではステージで歌う、そういう毎日の繰り返しだった。

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4.
『Pornography』
1982年


「僕らが死に絶えても、何ひとつ変わりはしない」という歌詞で幕を開けるザ・キュアーの4作目は、前作にも増してダークであり、英Rip It Up誌は「イアン・カーティスが能天気に思えるほど陰鬱」と評した。この頃からスミスは髪をムースで固め、口紅をひくようになり、イメージがないというバンドに対する批判は聞かれなくなった。

スミス:『Pornography』の制作中は酒とドラッグに溺れていて、バンドは崩壊寸前だった。僕は依存ぶりが酷かったから、当時の記憶にはあまり自信が持てないんだけどね。
 
汚らわしさを出したくて、何曲かはトイレでレコーディングしたんだ。そこのトイレはマジで汚くておぞましかったからね。サイモンは何ひとつ覚えてないらしいけど、僕は服を着たまま便器に座って歌詞を考えてる時の写真を持ってるんだ。悲劇としか言いようのない一枚さ。
 
当時はとにかく俗悪なものに浸っていて、それがメンバー全員の精神状態に悪影響を及ぼしてた。ダークなムードを作品に反映するために、えげつない映画や写真をやたら集めてた。今になって思えば、あんなことに意味があったのかなって考えてしまうけどね。僕らはまだ20代になったばかりで、世の中にはとことん下劣で悪い人間がいると知って愕然としてたんだ。

バンドのファンの中には、他のどのアルバムよりも『Pornography』に思い入れを持ってくれている人もいるけど、発売当初はとにかく評判が悪かった。ライブ中にオーディエンスが会場を出ていったり、ステージに物を投げつけてきたりするのは、きまってこのアルバムの曲を演奏している時だった。僕らの演奏が下手だったこともあるんだろうけどさ(笑)。

このアルバムにはあまりいい思い出がないんだけど、僕らの作品の中でもベストのひとつだと思うし、極端な状況に身を置かなければ生まれ得なかったアルバムだと思う。キュアー史上最も強烈で情熱的なレコードだって言ってくれる人もいるよ。でも、こんなアルバムばかりを作り続けるわけにはいかないんだ、身がもたないからね。

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5.
『Japanese Whispers』
1983年


自身の「陰鬱でカルトなイメージ」を払拭し、『Pornography』の下劣な世界観と決別すべく、スミスはロンドンの気が滅入るような部屋を引き払い、故郷で再び両親と一緒に暮らし始める。スミスとトルハースト以外のメンバーが頻繁に入れ変わるようになったバンドは、思いがけず快活なシングル曲を集めたEPをリリースする。

スミス:かつて1日の大半を過ごしてたその寝室に慣れるまでに、何週間か必要だった。それだけ自分が変わったってことだったんだろうね。そして僕はポップスターになることを決意したんだ(笑)

フィクションの連中に「Lets Go to Bed」を聴かせた時、彼らは言葉を無くしてた。「こいつ、完全に気が狂っちまったな」と言わんばかりの目で僕を見ながら、彼らはこう言われた。「これは何かの冗談だろ? バンドのファンから総スカンをくらうぞ」彼らの言いたいことはわかったけど、僕はそれまでのイメージを払拭したかったんだ。暗くて陰鬱な世界を抜け出して、元気になるような曲を書きたかった。僕自身こう思ってた、「きっと世間には受け入れてもらえないだろうな。元ゴス系アイドルがたった3枚のアルバムで人生を悟ったような気になって、心機一転ポップスターを目指すことにしたなんて、あまりに胡散臭すぎる」ってね。

思いがけないことに、「Lets Go to Bed」は大ヒットした。特にアメリカ西海岸で反響が大きくて、バンドは10代の女の子たちを中心とした若いファン層を獲得した。グロテスクでおぞましいゴス系サイコパスばかりだったライブ会場に、真っ白な歯を輝かせる健全な人々が押し寄せるようになったんだ。その変わりぶりには戸惑ったけど、僕は歓迎してた。もはや笑えるレベルだったね。

それから「The Walk」と「The Love Cats」をリリースして、僕はすごく解放感を味わってた。「The Love Cats」はディズニーのジャズ版というか、『おしゃれキャット』をイメージしたんだ。そうこうするうちに、何をやってもヒットするようになっていったんだよ。

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6.
『The Top』
1984年


1982年〜1984年にかけて、スミスは不定期にスージー・アンド・ザ・バンシーズでギターを弾いている。キュアー以外のバンドで活動することは、彼にとってちょうどいい息抜きとなっていた。また彼はバンシーズのベーシストであるスティーヴ・セヴリンと共に、ブリティッシュ・インヴェイジョンにインスパイアされたサイドプロジェクトのザ・グローヴを結成し、1983年に唯一のアルバムとなる『ブルー・サンシャイン』を発表している。翌年の1984年、スミスはキュアーの新作に着手すべく単独でスタジオ入りしたが、その時点でアイディアは皆無に等しかったという。

スミス:契約が残っていたフィクションの連中に半ば強要される形で、僕はキュアーのアルバムを作ることになった。彼らはその気になれば、僕がバンシーズの活動に参加することをやめさせることもできたんだ。

『The Top』は、僕のソロアルバムと言っても過言ではないかもしれない。僕はアルバム一枚を完成させるだけのまとまったアイディアを持ち合わせていなかったし、それが作品にも反映されてると思う。『The Top』はたぶん、キュアー史上最も散漫なアルバムだろうね。

もしかしたら、バンシーズとザ・グローヴでの活動が悪影響を及ぼしたのかもしれない。それがなかったら、自信のあるアイディアは全部キュアーで形にしてただろうからね。ザ・グローヴの「Sex-Eye-Make-Up」と「A Blues in Drag」は、本当は『The Top』に収録したかったんだ。逆に「Dressing Up」は元々ザ・グローヴの曲だったんだけど、セヴリンには聴かせなかった。出来が良すぎたからとっておきたかったんだ(笑)。

『The Top』では、ドラム以外の楽器を全部僕が弾いてる。このアルバムを聴いてると、小さなボンゴやらスプーンやらに囲まれた自分がスタジオの床に座り込んでるっていう、奇妙なイメージが頭に浮かぶんだ。僕は思いつくがままにアコースティックギターを弾いて、(プロデューサーの)デイヴ・アレンにも少し楽器を弾いてもらった。その数週間後に、僕が自分で素材を編集した。曲を録ったというよりも、録音した素材を使って曲を組み上げていく感じだったんだ。

このアルバムが酷評されたことは辛かったよ。それ以降あのアプローチはやらないことにしたんだ、すっかり自信をなくしてしまったからね。

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7.
『The Head on the Door』
1985年


れっきとしたバンドを再び欲するようになったスミスは、ザ・キュアーを5人体制で再始動させた。前作『The Top』とは打って変わり、『The Head on the Door』のレコーディングは一発録りを基本とした。MTVでヘヴィローテーションされた「Close to Me」のビデオで定着したヘアスタイルと口紅のイメージを嫌ったスミスは、全米ツアーを前にクルーカットにした。

スミス:金属製の弦を張った立派なアコースティックギターを買ったんだけど、それを手に取るやいなや「In Between Days」のコード進行が浮かんだ。それまでは質のいいものを所有したことがなかったから、弾きたいと思ったことも特になかったんだ。

ポールは(・トンプソン)はギタリストとして常に素晴らしい仕事をしてくれているし、ボリス(・ウィリアムス)は文句のつけようがないドラマーだ。「Six Different Ways」みたいな曲ができたのは、それまでのドラマーと違って彼が8分の6拍子を叩けたからだ。腕のいいミュージシャンたちと一緒にやれて、すごく気分が良かったよ。好きなだけジャムっていられるって素晴らしい、そう思ったね。

歌詞の大半は、スタジオでのくだらない会話が元になっているんだ。猫の皮を剥ぐ方法は何通りあるかっていう、昔からあるトピックだよ。あの会話の中身のなさは絶望的だったね(笑)その時に誰かが言ったんだよ、「絶対に6通りはある」ってね。曲が8分の6拍子だったこともあって、タイトルにぴったりだと思ったんだ。

1時間おきに流れるMTVニュースのヘッドラインに、「衝撃! ロバート・スミスが断髪」っていうヘッドラインが出たことがあった。正気なのかジョークなのか、よく分からなかったよ。自分の容姿にはいつも嫌気がさしてるけど、クルーカットの自分は特にひどいと思う。ツアー前にあんな髪型にしたのは、髪型と口紅のことばかり取り上げるメディアにうんざりしてたからだよ。

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8.
『Kiss Me, Kiss Me, Kiss Me』
1987年


キュアーが『Kiss Me, Kiss Me, Kiss Me』のレコーディングの舞台に選んだのは、南フランスのブドウ園だった。メンバー全員が作曲に携わった初のアルバムである本作が2枚組となったのは、曲作りが楽しすぎて延々と続いたからだとスミスは説明している。「Just Like Heaven」は、バンド史上初めて全米トップ40入りを記録した。

スミス:毎晩のディナータイムが最高に楽しかった。メンバー全員が彼女を連れてきてたから、会話の話題も男だけで集まる時よりもずっと華やかだったしね。

僕は1日のレコーディングを終えると、森の中で気を落ち着けながら新たに曲を書いた。レコーディングもすごくスピーディだった。プロダクションにはあまりこだわらなかったから、曲によってはかなり荒い部分もあると思う。

僕らは「評定委員会」って呼んでたんだけど、全員の彼女をコントロールルームのソファに座らせて、曲を10段階で評価してもらってた。だからこのアルバムには、女性的な視点が多分に反映されてるんだ。「Fight」なんかは人気がなかったね、女の子受けしそうな曲じゃないから。それに対してメンバーたちは、「これぞロックだ! 俺たちはこういう曲を作るべきなんだよ、女々しいやつじゃなくてさ」なんて言ってた。個人的なお気に入りは「Shiver and Shake」だったね、いかにも男っぽいからさ。対照的に、「The Perfect Girl」なんかは女の子からウケが良かった。あのアルバムがいろんな層から支持されて成功を収めたのは、そういう背景があったからだと思う。

『Kiss Me〜』のツアーでロサンゼルスに行った時、ファンの女の子たちが服を脱いでツアーバスの前に横たわって、僕たちの出発を阻止しようとしたことを覚えてる。あの時はこう思ったよ、「このバンドでこんな経験をすることになるなんてな」

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9.
『Disintegration』
1989年


1989年、30歳になって自分がゆっくりと死に向かっていることを自覚するようになったスミスの心は、喜びよりも苦悩や悲しみに支配されるようになっていた。「重大な意味を持つアルバム」を再び意識するようになった彼は、同作の完成後にバンドを解散する可能性について口にしている。

スミス:すごく傲慢に聞こえるだろうけど、当時は誰もが僕にあやかろうとしてた。どんな時も等身大以上の自分を演じないといけないポップスターという立場に、僕は必死で抵抗してた。そういう状況下で、僕はうつ状態になっていった。
 
気を紛らわすために、僕は再び幻覚系のドラッグに手を出すようになった。アルバムを作ることになった時、僕は修行僧のように口を閉ざし、誰とも話をしないことに決めた。今となってはカッコつけてるとしか思えないけど、当時はそういう不穏な環境に身を置きたかったんだ。

「Just Like Heaven」みたいな曲を期待されてることはよくわかってた。でも僕らは、少しだけ影のあるアッパーな曲を書くバンドっていう世間のイメージを覆すことにしたんだ。

僕の妻であるメアリーへのウェディングギフトとして書いた「Lovesong」をアルバムに収録したのは、どことなくロマンチックなムードを演出するためだった。アルバムの中では最も地味な曲だと思っていたから、全米チャートで2位になったことには驚いたよ。1位はジャネット・ジャクソンか何かだったと思う。「あの作品の中で飛び抜けて成功したのが、よりによってこの曲なのか?」っていうのが正直な気持ちで、すごく落胆したよ。

そうなるまいと努めてきたはずなのに、気づけばキュアーは僕が最も忌み嫌うものになってしまってた。スタジアムバンドってやつにね(笑)。バンド内だけじゃなく、周囲の人間関係もボロボロになっていった。『Disintegration』っていうタイトルはそういう運命を辿ることを示唆していて、実際その通りになった。このアルバムの後、バンドを結びつけていたはずの絆は跡形もなく崩れ去った。バンドの黄金時代の終焉さ。

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10.
『Wish』
1992年


『Disintegration』のリリースからの3年間で、「オルタナティブ」というジャンルはメインストリームになり、キュアーはファン層をさらに拡大することになった。「Friday Im in Love」や「High」といった強力なシングル曲にも支えられ、バンドはスタジアム公演を次々と成功させた。コンサートフィルムの『Show』、そして同じタイミングで発表された2枚のライブアルバム(『Show』『Paris』)は、当時のバンドの勢いを如実に物語っている。

スミス:『Wish』の制作中はすごく疎外感を覚えてた。他のメンバーはただ仕事をこなしてるって感じで、僕はレコードを独りで完成させようとしてるみたいに感じてた。何もかもうまくいく日ももあれば、どうしようもなく酷い気分の日もあった。

『Bloodflowers』を除けば、『Wish』は個人的に一番好きなアルバムだね。ただ新鮮さは皆無で、惰性で作っているように感じてた。それってやっぱり良くないんだよ、自分たちの足場を固めようと必死になってるみたいでさ。アルバムを出してファンを増やしてコンサートの規模を大きくしていく、そういうことに僕は興味をなくしてしまったんだ。歌詞の中には僕のそういう思いを反映している部分があるし、ヴォーカルには割り切ったようなドライさが滲み出ていると思う。
 
『Show』に収められているのはデトロイトでのコンサートで、バンドは絶頂期を迎えてた。あの時点で8年間活動を共にしていて、演奏もすごくタイトだった。その様子を映像として残しておくことにしたのは、『Wish』のツアーを最後にバンドが崩壊すると分かってたからだよ。

最初に抜けたのはポールで、次にボリス、そしてサイモンが去った。(ギタリストの)ペリー(・バモンテ)と僕が次のレコードのデモ作りについて話し合っていた時、ふいに2人で大笑いしたんだ。そういえば一緒にやるメンバーがもういないんだった、ってね。

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11.
『Wild Mood Swings』
1996年


持て余すほどの成功、そして延々と続くツアー生活に疲弊したスミスは、時間をかけてバンドを再建することにした。スミス自身はラジオ受けすることを意識して曲を書いたとしているものの、長く続いた不在期間はバンドからかつての勢いを奪い、『Wild Mood Swings』のセールスは不振に終わった。

スミス:『Wild Mood Swings』の制作に着手した時、僕はモチベーションを取り戻してた。それは作風にも現れてると思う、思い切り羽目を外したような曲があるからね。でもあのアルバムは発売直後から酷評されて、ファンからの評判も良くなかった。あんなにも失望したのは、後にも先にも一度だけだよ。

僕が思うに、狂ったサルサのような趣のある「The 13th」が良くなかったのかもしれない。何年もシーンから遠ざかっていた僕らの久々の新曲だったわけだけど、人々はそれでアルバムに対して先入観を持ってしまったんだと思う。あの時点まで、僕らは作品ごとにセールスを伸ばしていたけど、あのアルバムはそれまでとは比較にならないほど不振で、レコード会社はそもそも僕らが成功していた理由がさっぱり理解できない様子だった。彼らがあのアルバムをロクに宣伝しなかったのは、そもそも何を誰にアピールすればいいのか分かってなかったからだ。

収録時間の長さも災いしただろうし、一貫性のなさも問題だった。バンドとして生まれ変わったことを示したくて、僕は意図的にいろんなスタイルに挑戦したし、『Kiss Me〜』っぽいやつなんかも試した。でもボリスがいなくなって、ジェイソン(・クーパー)が正式に加入するまでの間、ドラマーが毎週のように変わってたからね。中には名前を思い出せないドラマーもいるよ。

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12.
『Bloodflowers』
2000年


1999年5月に完成していながら、「ミレニアルの喧騒が過ぎるのを待つというレコード会社の思惑」(スミス談)によって発売が延期された『Bloodflowers』は、『Wild Mood Swings』とは趣の異なるアルバムだ。それはむしろ、『Faith』、『Pornography』、そして『Disintegration』の大部分のように、曲単位ではなくアルバム全体をひとつの叙事詩として聴かせるような一貫したムードを宿している。

スミス:僕は当初、『Bloodflowers』を簡潔なアルバムにするつもりだった。いちアーティストの作品で70分を超える作品は、ほぼ例外なくやり過ぎだからね。そういう理由で当初は45分を目安にしてたんだけど、収録曲を9曲まで絞っても、収録時間はまだ1時間を超えてた。各曲を短くする必要があるのかもしれないと思ったけど、長尺であること自体が曲の魅力になっていたんだ。自宅で「Watching Me Fall」(原曲は11分13秒)を編集して6分未満にしてみたんだけど、もう完全に別の曲になってしまってた。

1曲目の「Out of This World」も6分30秒から4分45秒まで削ってみたけど、ラジオでかけるにはイントロがまだ長すぎると言われた。でも僕はそのゆっくりとした展開が気に入っていたし、くだらない3分30秒ルールみたいなのを強要されたくなかった。デモを作ってる段階では、僕らなりのポップソングみたいなのも幾つか作ったんだけど、どれも浅はかで安っぽく聞こえたんだ。

でもあんなにレコーディングが楽しかったのは、それこそ『Kiss Me〜』以来だった。重みと情熱の宿ったアルバムを楽しみながら完成させる、そういう目標をしっかり達成できたと思う。制作中に自殺しないっていうルールも守れたしね。

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13.
『The Cure』
2004年


インターポール、ザ・ラプチャー、サーズデイなど、キュアーの影響下にあるバンドの人気が追い風となっていた2004年。彼らはヘヴィなサウンドで知られるロス・ロビンソン(Korn、スリップノット等)をプロデューサーに迎え、ロンドンのスタジオで『The Cure』を完成させた。言うまでもなく、そのサウンドはいつになくヘヴィだった。

スミス:当時の僕は、15年くらい温めてたアイディアを形にする時が来たと感じてた。僕ら(ロビンソンとスミス)はコーチェラの最終日に知り合ったんだ。少し話してみてすぐ、この人と何か一緒にやりたいと思った。

僕はすごくヘヴィな曲を書き始めた。ロスと一緒にやるなら、ダークでムーディなものじゃないと意味がないからね。でも蓋を開けてみると、彼はキュアーのいろんな作風を気に入ってくれてたんだ。メロディックなものもポップなやつも分け隔てなくね。僕らは37曲のデモを作って、全部を20点満点で採点した。最後の数ヶ月間は僕らはスタジオからほとんど外に出なかったし、来客もなかった。一切立ち入り禁止にしてたからね。すごく非現実的な毎日だったよ。

レコーディングはまるで延々と続くライブみたいで、日によって曲の印象が違った。ロスからテクニカルな指示を受けられるよう、メンバー全員がコントロールブースの方を向いてた。間近でアイコンタクトを取れるよう、僕らは互いにぶつかりそうなほど小さなスペースに入れられた。夜に作業する時は逆方向を向いて、キャンドルを灯すと何もかもがすごくリアルに映った。僕が立ち上がるのを合図に、全員で演奏を始めた。

バンドがこれまでにやってきたことが全部このレコードに帰結する、僕らはそういう気持ちでレコーディングに臨んでた。実際このアルバムに注ぎ込まれた情熱は、他の全作品を足してもかなわないんじゃないかな。

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14.
『4:13 Dream』
2008年


キュアーの13枚目のアルバムの構想を練りはじめた当初、ロバート・スミスは13曲ずつを収録した2枚組アルバムにするつもりだった。2006年から2008年の間にバンドは33曲をレコーディングしたが、曲をふるいにかけていたスミスは1枚で十分だと結論付けた。度重なる遅延の末、『4:13 Dream』は2008年10月27日に発売された。その数ヶ月前、作品の完成に向けた最終準備のためにスタジオ入りしていたスミスは、本誌の取材に応じてくれた。

スミス:完成が延々と遅れてしまってるけど、僕は前向きに捉えるようにしてる。準備が整っていないのに、無理に出すのは良くないからね。個人的には、締め切りに追われながら仕事をするのは好きなんだけどさ。僕はこのアルバムが長く人々の記憶に残ることになると信じてるから、納得がいくまでとことんやると決めてるんだ。でもあえて宣言しておくよ、僕はこのアルバムを誕生日の4月21日に完成させる。
 
収録曲の選択にはすごく苦労したよ。7分を超えるダウンビート系のトラック、対照的にすごくアップビートな曲、その中間にあるようなものまで、実にバラエティ豊かだったからさ。この33曲には、ザ・キュアーのなんたるかが全部詰まってると思う。80年代に出した『Kiss Me〜』にも、そういうところがあったかもしれない。自分たちの持ち味を全部出して、最後に全体のカラーを統一するっていうプランだったんだけど、優先事項について意見の食い違いがあったんだ。かつてのファンを一気に呼び戻すような大衆受けする作品にして、実験的なものはライブの場でやるべきだっていう声もあった。その一方で、「そんなのはクソ食らえだ。とにかく暗くて重たいやつだけを収録して、他の曲は映画のサントラなり何なりにくれてやればいい」っていう意見もあった。

曲は全部同じスタジオで録ったんだ。そのうちの75パーセントくらいは一番最初のテイクを使ってる。いい感じの緊張感があるからね。後から編集で手直ししたり、テンポを変えたり録り直したりしたものもあるけど、大半はデモ段階のものをそのまま使ってるんだ。

今作の一番の魅力は、テンポの遅いものや早いもの、そのどちらでもない曲が混在しているところなんだ。使った音色やサウンドも厳選されてる。33曲ある中で、使ったキーボードの音色は4つだけなんだ。僕が弾いたのもベーシックな楽器ばかりだし、アンプも使ったのはせいぜい3台くらいだ。それを全部同じ空間でレコーディングした。曲自体はどれも風変わりでまとまりがないようにも思えるんだけど、少なくともサウンドには一貫性があるんだ。

レコーディング期間中は誰もスタジオに立ち入らせない、それが僕らの決めたルールだった。相手が誰であろうと関係なくね。僕ら4人以外で出入りしてたのは、何年か一緒に仕事をしてるエンジニアのKeith Uddinだけだった。ギャラリーも一切受け付けなかった。互いの嫌な部分も見えてくるんだけど、それも全部受け入れた上で付き合ってた。意見の対立はしゅっちゅうだったけど、そういう環境だったからこそ、レコーディングはすごく楽しかった。僕らはもう互いに怒鳴ったりしないんだ、そういうのって新鮮だよ。

曲の中には80年代に作ったデモが2つ、あと90年代のやつが1曲ある。何年か前、過去のアルバムの再発盤に収録するボーナストラックを用意してた時に、僕はとっておいた素材を片っ端から聴いていったんだ。何百本ものテープを聞き返すうちに、「これはいいかもしれない。ライブ映えしそうだ」と思える曲がいくつか見つかった。そのうちのひとつは典型的な80sサウンドなんだけど、どの曲かはきっとすぐに分かると思う。でも今回のアルバムにすごくハマッたんだよ。『The Head on the Door』のセッションの時に作った曲で、あのアルバムらしい80sサウンドなんだけど、それは別に悪いことじゃないと思うんだ。僕たちが築き上げてきたものの一部なんだからさ。仮だけど、今はその曲を「Kat 8」って呼んでるんだ。

アルバムに明確なテーマはないけど、歌詞の中には現代社会を意識してる部分もある。曲のひとつはサム・ハリスの『The End of Faith』っていう、数年前に読んだ宗教団体の不条理についての本に触発されてる。そういうテーマを、あくまでポップスっていう形で表現してみたかった。アーティストの中には本質をロクに理解もせずに社会問題について歌う人がいるよね、僕だって似たようなものなのかもしれないけど。だから僕はそういうことについて、普段はあまり語らないようにしてるんだ。

今のキュアーは過去20年、あるいは『Disintegration』以降で最高のラインナップだよ。スタジオでは電気が走るような化学反応が起きていたし、それが作品にも現れてると思う。今の僕は、昔よりもずっと高い基準を設けるようになった。ザ・キュアーのファンなら、きっとこのアルバムを気に入ってくれると思うよ。

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FUJI ROCK FESTIVAL19

期間:2019年7月26日(金)27日(土)28日(日)
会場:新潟県 湯沢町 苗場スキー場

オフィシャルサイト:
http://www.fujirockfestival.com