「道徳教育を受けた人は収入が多い」は本当か
2018年から教科化された道徳は、今後どう変わってゆくのだろうか(写真:Greyscale/PIXTA)
2018年度から小学校で、2019年度からは中学校で「特別の教科」として教科化されることになった「道徳」。教科化されることで何が変わるのか。『大人の道徳:西洋近代思想を問い直す』著者の古川雄嗣(北海道教育大学旭川校准教授)、中野剛志(評論家)、佐藤健志(評論家・作家)、施光恒(九州大学大学院准教授)、柴山桂太(京都大学大学院准教授)の気鋭の論客5人が、徹底討議する。
戦後の道徳教育の変遷
中野剛志(以下、中野):古川さんは今年(2018年)『大人の道徳 西洋近代思想を問い直す』を上梓されましたね。
古川雄嗣(以下、古川):私は国立の教員養成大学である北海道教育大学旭川校というところで教員志望の学生たちを教えていて、担当が道徳教育なんです。その道徳が今年度(2018年度)から教科になるということで、改めて義務教育の中で道徳を学ぶ意味を問い直すべきではないかと考え、本にまとめました。
柴山桂太(以下、柴山):道徳が教科になることで、具体的には何が変わるんでしょうか。
古川:検定教科書を使って授業をしなければならなくなったことと、教えたことをどれだけ身に付けたかという「評価」をしなければならなくなったこと、この2点です。
ご承知のように日本では戦前、「修身」という道徳教育のための教科が設けられていました。これは戦後に廃止され、「道徳教育は学校の教育活動全体を通じて行うもの」と定められました。しかし1958年の学習指導要領改訂で、「教科外の教育活動」という扱いで新たに「道徳」という時間が設けられ、それが今回「特別の教科 道徳」に格上げされたわけです。ですから、形式的には、教科で道徳を教えていた戦前に近くなったわけです。
佐藤健志(以下、佐藤):古川さんは教科化に賛成の立場ですね。
古川:ええ、基本的にはそうです。ただし、教科化という考え方それ自体には賛成ですが、現在進められている内容の教科化には反対です。
そもそも道徳の教科化については、右派も左派もそろって否定的なんです。左翼系は「戦前の修身への逆行だ」と反対しているし、保守系も、まともな人ほど「道徳とは日々の体験の中で身体化していくもので、教科書で教えて評価するものではない」と言いますね。
佐藤:となると、誰が後押ししているんですか。
古川:一言で言えば、いわゆる「自称保守」、つまり安倍政権と自民党、およびその支持者たちです。1958年に「道徳の時間」を新設したのも自民党ですし、それを教科に格上げすることも彼らの積年の宿願だったんです。
ネオリベラリズム化する道徳教科書
中野:教科化が議論になるのは、「道徳教育で何を教えるのか」というコンセンサスが取れていないからでしょう。一口に近代思想といっても、リバタリアニズムもあれば、リベラリズムも、保守主義もある。それらも単に知識として通り一遍に教えるのであれば問題はないけれども、深く踏み込んで理解させるとなったら話は別で、左翼も保守も「これが道徳の教科になじむのか」「そんな思想は危険だ」という議論を始める。
古川 雄嗣(ふるかわ ゆうじ)/教育学者、北海道教育大学旭川校准教授。1978年三重県生まれ。京都大学文学部および教育学部卒業。同大学大学院教育学研究科博士後期課程修了。博士(教育学)。専門は、教育哲学、道徳教育。著書に『偶然と運命――九鬼周造の倫理学』(ナカニシヤ出版、2015年)、『看護学生と考える教育学――「生きる意味」の援助のために』(ナカニシヤ出版、2016年)、共編に『反「大学改革」論――若手からの問題提起』(ナカニシヤ出版、2017年)がある(写真:古川雄嗣)
古川:そうですね。その点に関連してちょっとおもしろいのは、実は自民党は、「国民意識を持って主体的に国家を担いなさい」というナショナリズムや、「私利私欲を犠牲にして公共の利益に尽くしなさい」という公共精神を教えようとしているわけではないんです。そうではなくて、道徳の教科書を開いてみると、「個性を大事にしよう」「自分らしさを磨こう」「夢に向かってがんばろう」といった言葉がこれでもかというぐらい出てきます。「道徳」という言葉で連想しがちな、いわゆる滅私奉公とは、実は逆で、「自分のために生きなさい」「自由に私的な利益を追求しなさい」と教え込もうとしているんです。
中野:「個性を大事に」というのでも、「自分の個性を大事にする」と「ほかの人の個性を大事にする」とではだいぶ違いますよね。ほかの人の個性を大事にするのなら「配慮」「社会性」になるが、「俺の個性を大事にしろ」だけなら単なるエゴになりかねない。
古川:教科書では「自分の意見をきちんと表現して、人の意見もきちんと聞いて、お互いに認め合って仲良くしましょう」という言い方ですね。だけど、これも結局は、他人とうまくコミュニケーションできてチームワークができるという能力や道徳性がないと、将来サラリーマンとして会社でうまくやっていけないからでしょう。
佐藤:すると仕事で業績をあげられないのは、道徳に問題があるからだという話になる。自民党は道徳と称して、成果主義に徹する価値観を教えこみたがっているのではないか。「立派なグローバル人材になって高い収入を得たければ、これこれの道徳を身に付けなさい。それがあなたにとっても、日本経済にとっても合理的な選択です」、そんなノリを感じます。
古川:実際「子どもの頃に道徳教育をきちんと受けた人間は、そうでなかった人間に比べて収入が多い。だから道徳教育が必要だ」とあからさまに言っている学者もいるんです。しかもそれがいわゆる「保守」を代表する学者で、今回の教科化を推進した中心人物の1人だという……。
中野:近代思想というよりネオリベラリズムですね。それを自民党が学校に押し付けようとしているのですか。
施光恒(以下、施):経済面からの要請が学校や子育てにどんどん入ってきていることは、道徳に限らず今日の教育の大きな問題でしょうね。
柴山:自分が身に付いていないものがあると、学校教育のせいだと文句をいう風潮がありますね。道徳教育でも、家族や地域社会の役割は重要なんだけど、学校だけが狙い撃ちにされているという構図がある。
中野:学校教育に過大な期待をしているんです。「教育を変えれば世の中が変わる」とか「教育を変えれば人間は変わる」というのは間違いではないが実に安易な発想ですよ。
道徳教育は何のために存在するのか
中野:古川さんご自身は、道徳という教科では何を教えるべきだとお考えなんですか。
中野剛志(なかの たけし)/評論家。1971年、神奈川県生まれ。元・京都大学工学研究科大学院准教授。専門は政治経済思想。1996年、東京大学教養学部(国際関係論)卒業後、通商産業省(現・経済産業省)に入省。2000年よりエディンバラ大学大学院に留学し、政治思想を専攻。2001年に同大学院より優等修士号、2005年に博士号を取得。2003年、論文‘Theorising Economic Nationalism’ (Nations and Nationalism)でNations and Nationalism Prizeを受賞。主な著書に山本七平賞奨励賞を受賞した『日本思想史新論』(ちくま新書)、『TPP亡国論』『世界を戦争に導くグローバリズム』(ともに集英社新書)、『国力論』(以文社)、『国力とは何か』(講談社現代新書)、『保守とは何だろうか』(NHK出版新書)、『官僚の反逆』(幻冬舎新書)などがある(撮影:今井康一)
古川:一言で言えば、「近代の社会と国家を成り立たせるために必要な、概念や思想、価値観」です。それらは実は非常に抽象的なものだから、日常の生活のなかで自然に身に付くものではなくて、教育によって人為的に理解させなければならないものだと私は考えています。
というのは、これはちょっと考えてほしいところなんですが、小学校や中学校の授業を参観すると、例えば小学校の高学年でも2桁の足し算ができないような子がクラスにつねに一定数いるんです。そういう子たちは先生に時間をとってもらって、何度も何度も懇切丁寧に教えられて、やっとなんとかできるようになって卒業していく。
2桁の足し算の何がそんなに難しいのかというと、これは抽象的な思考だからです。目に見える2つのミカンと3つのリンゴだったら、数えれば全部で5個だということは誰だってわかるんだけれども、「56+38=?」という問いは、目に見えないものを、頭の中だけで、純粋に論理的に考えなければいけない。これが実は、相当難しいことなんですね。
では、そんな難しいことを、なぜそんなに手間をかけて教え込むのかというと、やはりそれができないと近代社会では生きていけないし、逆に近代社会が成り立つためにはみんながそれをできる必要があるからです。そもそも学校という制度はそのためにこそ存在するものだったはずです。
だとすれば、道徳も同じではないか。いや、むしろ道徳こそ、その最たるものではないか。「自由とは何か」なんて、考えてみれば恐ろしく抽象的な思考ですからね。それは学校が手取り足取りしながらすべての子どもに教えなければならないことではないか。そんなふうに私は考えるようになってきたんです。
柴山:「近代社会、近代国家で生きていくのに必要な知識や思考方法があるので、それを学校で学ばせなければならない」ということですか。
古川:そういうことです。それが例えば「自由」や「人権」であり、そして「愛国心」や「公共精神」といった概念や価値観です。
左派は前者ばかり強調して後者を忌み嫌い、逆に右派は後者ばかり言って前者を軽視するけれども、実はこれらは両方ともが、近代の人間と社会と国家が成り立つために必要不可欠な価値であるわけですから、そんなところで対立しているようでは左も右もおかしい。要するに近代とは何かという基本的なところが何もわかっていないんです。
佐藤:近代社会は、そういった概念や価値観が人々に共有されることで成り立つと考えられている。この認識が正しければ、当の概念や価値観を啓蒙するのは、よき市民を育て、社会を発展させる意義を持つはずでしょう。
古川:もちろん、先ほど中野さんがおっしゃったように、それはそれで安易な考えだということは私も自覚しているつもりですが、それでも、まずは一度、そういう近代の基本的なところに立ち還ることが大事ではないか、というのが私の考えです。その結果、『大人の道徳』は、自分でも苦笑してしまうほど啓蒙主義的なスタンスの本になってしまったんですが(笑)。
考え、議論する道徳
中野:知識を教える段階をレイヤー1とすると、次のレイヤー2としては、それを使って「何が正しいのか」という判断ができるよう、判断能力を訓練することになりますね。
佐藤 健志(さとう けんじ)/評論家・作家。1966年、東京都生まれ。東京大学教養学部卒業。戯曲『ブロークン・ジャパニーズ』(1989年)で文化庁舞台芸術創作奨励特別賞を受賞。『ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義』(文藝春秋、1992年)以来、作劇術の観点から時代や社会を分析する独自の評論活動を展開。主な著書に『僕たちは戦後史を知らない』(祥伝社)、『右の売国、左の亡国』(アスペクト)など。最新刊は『平和主義は貧困への道』(KKベストセラーズ)(写真:佐藤 健志)
佐藤:知識を活用して正しい判断を下すためには、個々の知識を相対化することが欠かせません。明確な正解がなくなるため、ハードルがかなり上がります。
中野:ただ小学校でそういうことをまったくやっていないかというと、そうでもない。「貧しい子が病気のお母さんを助けたくて、薬を盗みました。それはいいことですか、悪いことですか」といった問いを、先生が結論を出さずにみんなに考えさせるとか、そういうことは今でもやっているわけです。
施:面白い試みをしている先生もいます。私の知人の小学校教員の方ですが、「プロ野球選手になりたかったけど、なれなかった」という話を子どもたちに読ませて、「夢がだんだん壊れていくのを、どうやって受け入れていくか」と議論させていました。
そこまでできれば「考え、議論する道徳」という文科省のフレーズどおりですね。
柴山:僕は自分が子どものときにどんな授業を受けたのか、ほとんど忘れてしまいましたが、何かを議論したことだけは覚えていますね。
僕は足立区梅島出身で、ビートたけしが地元のヒーローだったんですよ。で、小学5年ぐらいのときに『フライデー』編集部殴り込み事件というのがあった。
みんなが大ファンだったたけしが事件を起こしたということで、道徳の時間だったかホームルームだったか、「あれは正しいか、間違っているか」という議論になった。
女の子には「暴力はいけないと思います」と言う子がいて、だけど男の子は「いや、正しいことをしたんだ」と、正当化できる暴力もあるという話をする。結論がどうなったかは忘れてしまったけど、理性的、抽象的にものを考える機会にはなったと思います。
中野:ここは重要ですよね。以前、人を殺した若い犯人が、「なんで殺しちゃいけないんだ」みたいなことを言っていたことがありました。その犯人が影響を受けたのが、哲学者が子ども向けに書いた本だったそうです。それを中途半端に理解して、「別に殺しちゃいけないなんて根拠はないんだ」と思ったらしい。いくら理屈を教えても、それだけだとませガキは、すぐ「根拠なんかなくていいんだ」といった調子のポストモダンになってしまう。
佐藤:その点こそ、近代思想の大きな弱点ではないでしょうか。従来、自明に正しいと信じられてきたことを理性によって問い直し、「非合理的な迷信だ」「特定の枠組みのもとでのみ成立する虚構にすぎない」などと言い出す。「なんでもあり」に陥る危険は、つねにあるわけです。
柴山:ただ議論や判断の部分は点数にはなじまないし、成績をつけるというのは難しいんじゃないでしょうか。
モラル(倫理)とディシプリン(規律)
中野:道徳の教科化をめぐる議論の混乱は、1つにはディシプリン(規律)とモラル(道徳)をごっちゃにしていることにあるのではないかと思うんです。
柴山 桂太(しばやま けいた)/京都大学大学院人間・環境学研究科准教授。専門は経済思想。1974年、東京都生まれ。主な著書にグローバル化の終焉を予見した『静かなる大恐慌』(集英社新書)、エマニュエル・トッドらとの共著『グローバリズムが世界を滅ぼす』(文春新書)など多数(撮影:佐藤 雄治)
学校で教えるべきことは実は、正か邪かといったモラルというよりは「朝礼ではきちんと整列しろ」とか「8時半までに登校しろ」といったディシプリンなのではないか。もちろん、人間にとって本当に必要なのはモラルなんだろうけれども、でも近似値としてディシプリンを教えれば、モラルも身に付くという面もある。
柴山:確かにディシプリンは子どものときに身に付けるべきものでしょうね。一方、モラルのほうは、小学校でやるべきことなのかなという気もするんです。思想的な話は、ある程度人生経験を積まないと理解するのが難しいですから。
古川:フランスの社会学者エミール・デュルケムも『道徳教育論』の中で、「学校が教えるべき一番大事なものは規律の精神だ」と述べています。欧米でも日本でも学校は社会のディシプリンを反映し、また学校が社会のディシプリンを創出するという面があります。
中野:古川さんが指摘された、近代国家を担うための教育という面から考えても、より直接的に効くのはモラルよりディシプリンだという気がするんです。実は近代国家が学校で教えたかったのはそっちのほうではないか。例えばよい兵隊を作るというときに大事なのも、ディシプリンでしょう。
佐藤:兵士に求められるのは、モラルからの脱却です。初めて戦場に行った兵士は、敵に向けて銃を撃つとき、どうしても上に撃ってしまう。同じ人間を殺すのが本能的に怖いからです。その本能を理性でコントロールし、「祖国のために敵を殺す」というディシプリンを優先させて、ようやく優秀な兵士になれる。
すなわち国家は「敵を落ち着いて殺せる兵士は、そうでない兵士より理性的であり、人間として優れている」と主張する必要があります。でないと安全保障が成立しない。ところがこれは、「人を殺すのはいけない」というモラルの否定にひとしい。
中野:ディシプリンはモラルに基づくものと思いがちだけど、実はモラルと対立するディシプリンもあり、しかも国家がそれを必要とする場合もある。
佐藤:モラルを否定することこそが道徳教育、という逆説は成立するのです。
古川:左翼はディシプリンをすごく嫌うんです。とくに教育学の分野では、左の人ほど個人の内面のモラルをすごく重視する一方、「型」とか「規律」とかといった概念は、ほとんどタブーに等しい。
中野:しかし教育という以上、本当であれば「規律をたたき込むことはやめましょう」とは言えないはずですよ。ディシプリンをなくすというのは教育放棄に等しい。そもそも争い事を禁止して、「みんな話し合いで仲良くしましょう」と強制することもまたディシプリンでしょう。まさに憲法9条は強烈なディシプリンです。
「自立した市民による民主主義」は社会に不可欠か
古川:おっしゃるとおりです。私は基本的に道徳教育は「よき市民」を育てるためにあるものだと考えていますが、市民とはまさにルソーがいうように自ら主体的に国家を担う存在であるわけですから、必然的に国防の義務を負います。だから、ルソーの共和国の理念を最も忠実に体現するのは、スイスのような民兵制、つまりすべての市民が同時に軍人でもあるという制度です。
施 光恒(せ てるひさ)/政治学者、九州大学大学院比較社会文化研究院准教授。1971年福岡県生まれ。英国シェフィールド大学大学院政治学研究科哲学修士(M.Phil)課程修了。慶應義塾大学大学院法学研究科後期博士課程修了。博士(法学)。著書に『リベラリズムの再生』(慶應義塾大学出版会)、『英語化は愚民化 日本の国力が地に落ちる』 (集英社新書)、『本当に日本人は流されやすいのか』(角川新書)など(写真:施 光恒)
そういう意味で、実は学校で子どもたちに軍隊的規律をたたき込むということは、実は極めて民主主義的な考え方なんです。もしそれが問題なのだとすれば、それはむしろ民主主義的すぎるがゆえの問題なのではないでしょうか。
佐藤:古川さんの議論の根底にあるのは、自立した市民による民主主義が近代社会の基盤だという発想ですよね。「市民」より「公民」のほうが近いかもしれない。現に公民教育は、フランス革命の際に始まったはずです。
しかし「自立した市民による民主主義」は、本当に近代社会にとって不可欠なのか。例えば中国は、政治的自由に制約がある状態のままで、21世紀の覇権大国になりつつある。逆に「自立した市民による民主主義」を目指せば、社会が安定するという保証もない。フランス革命など、最終的にはナポレオンの独裁になってしまいました。
学校教科としての道徳は、社会の存立と発展に寄与しなければなりません。それが「学校で教える」ということの意味です。市民の自立を否定し、権威主義や独裁を肯定するような道徳観であったとしても、社会の安定と発展に寄与するとしたら、学校で教えることを否定する根拠はないでしょう。
自民党の新自由主義的道徳観も、この発想のバリエーション。経世済民を達成するうえで、成果を万能と見なす姿勢が不可欠だとするなら、それを是とする道徳観を教えなければという話ですね。