買い物は、魔法だ。

流行の服と良質な宝飾品を買えば、美しい自分になれる。

贅沢なエステや極上のグルメにお金を費やせば、優雅な自分になれる。

女は買い物という魔法を使って、“なりたい自分”を手に入れるのだ。

ならば、どれだけ買っても満たされない女は一体何を求めているのだろう―?

32歳にして年収1,200万円を稼ぐ紗枝は、稼いだお金を存分に買い物に使う「カッコイイ女」のはずだった。

しかし、紗枝の向上心にも似た物欲は恋人・慎吾とのいさかいをキッカケに徐々に歪み始める

カードが停止するまで買い物をしてしまった紗枝は、ついに慎吾に禁断の借金の申し込みをしてしまうのだった。




「お金、貸してもらえないかな…?」

その言葉を発した途端、紗枝を抱きしめていた温かな腕の力がゆるんだ。あけすけな言い方で慎吾の機嫌を損ねたと感じた紗枝は、慌てて説明を重ねる。

「30万、ううん、20万円。今度の給料日まででいいの。再来週には絶対返すって約束する。取り置きしてる洋服が2つあるのにカードが止まっちゃって…。それから、週末にはエステの予約もしてて…」

しかし、話せば話すほど、2人の間に横たわっている暗い溝がより深まっていくのが紗枝にも分かった。

ため息とともに慎吾の手が力なく離れる。ゆっくりとした動作でその手を額に当てると、慎吾は絞り出すように言った。

「ごめん、ちょっと考えさせて」

先ほどまでの暖かな空気は、もはや一欠片も残っていない。無言のままリビングへと移動した慎吾が、ドサリと音を立てながらソファに腰を下ろす。

―どうしよう…せっかく仲直りできそうだったのに…。

後悔の波が押し寄せる。

取り返しのつかないお願いをしてしまった。そのことにやっと気づいた紗枝は、焦りながら慎吾の後を追った。

「ごめん、やっぱり今の話は忘れて!」

慎吾に建て替えてもらえなければ、父に借金をするしか残高不足を解消するあては無い。

就職してすぐに母が亡くなってから、1人慎ましく暮らしている父にお金を借りるのは心が痛む。しかし、慎吾からの信頼を失うことの方が紗枝には耐えられそうになかった。

沈黙を貫く慎吾の隣に、そっと腰を下ろす。

「本当に、自分でどうにかするから…」

そう紗枝が言いかけると、慎吾がやっと顔を上げた。そして、痛烈な一言を放つ。

「…ちょっと、異常じゃない?」


堅実な彼氏から浴びせられる辛辣な言葉


理解されない金銭感覚


「キツイ言い方してごめん。でも、この際はっきり言わせてもらうね。最近の紗枝ちゃんの買い物の仕方は度を超えてるよ」

何も言い返せない紗枝は、慎吾が言葉を続けるのを待った。

「お金は貸すよ。カードが使えないと困るでしょ。でもカードが再開しても、必要の無いものをどんどん買って浪費するのはちょっと控えてほしい」

「ありがとう…」

恥ずかしさと安堵の気持ちがないまぜになる。紗枝は慎吾に深く感謝したが、それと同時に、喉に引っかかった小骨のような釈然としなさを感じた。

言うべきではないことは分かっている。しかし、納得いくまで話し合いを求めてしまうのは、紗枝の性分だ。

紗枝は抑えきれず、つい口を開いてしまった。

「残高が少ないのを忘れて買いすぎちゃったこと、すごく反省してる。迷惑をかけてごめんなさい。でも…必要の無いものを買ってるわけじゃないのは分かって欲しい」

紗枝からの予期せぬ反論に、話を終わらせたつもりでいた慎吾が眉をひそめた。それでも、紗枝の口からこぼれ出る本音は止まらない。

「アクセサリーも洋服もエステも、私にとっては全部必要なの。買い物は私にとって、人生を豊かにするための魔法みたいなものなんだ。ほら、今座ってるソファだってすごく座り心地がいいし、買って良かったでしょ?節約するだけが正しいことではないと思うの」

最悪のタイミングであることを理解しながらそれでも気持ちを伝えたのは、「慎吾に自分を理解してほしい」という純粋な気持ちからだった。

紗枝は自分のポリシーを訴えながら、慎吾と出会った頃のことを思い出していた。「星の王子様」への感想を話しあうことで、お互いを理解していった時のことを。

しかし淡い期待は、慎吾の目を見た瞬間にうち砕かれた。その瞳に滲んだのは、呆れを超えた、哀れみの色。

―あぁ。私が、異常なんだ…。

瞬時に慎吾の気持ちを理解した紗枝は、もうそれ以上、自分の思いを伝える気にはなれなかった。




お金は借りる。すぐに返す。そして、“浪費”はやめる。

それが、深夜の話し合いで到達した2人の結論となった。

ひと晩明けた今日、紗枝の口座には慎吾が振り込んでくれた30万円が追加されている。残高はこれで足りる。カード会社に再引き落としの連絡をすれば、明日にはカードが再開するはずだ。

―これでまたカードが使えるようになる。取り置きした服も買えるし、エステも行けるようになるけど…

紗枝は脳裏に浮かんだ考えを、頭をブルブルと振ってふるい落とした。

―ダメダメ、“浪費”はやめるって約束したじゃない。慎吾があれだけドン引きするってことは、やっぱり私が間違ってるんだから…。

思いなおした紗枝は、仕事のアポから帰る足でオフィス下のセレクトショップへと向かう。

「お待ちしてました!お取り置きのトップス2点、ご用意してありますよ」

紗枝の姿を認めた馴染みの店員がすぐに駆け寄ってくる。ニコニコしながらレジへと促す店員に、紗枝はおずおずと申し開いた。

「あの…、すみません。実はあの後、似てる服をいくつも持ってることに気がついて…」

紗枝がそう言った途端、店員の笑顔が硬くなったように思えるのは気のせいだろうか。

「…あら、そうですか。では、2点ともキャンセルということですか?」

「本当にごめんなさい」

謝る紗枝を、店員は「いえ、大丈夫ですよ!」と快く送り出してくれたものの、紗枝の心は穏やかではなかった。

―私、どんな風に思われたんだろう?お金がないから買えなかったって、影でバカにされてるかも…。

あらぬ妄想と知りつつも、顔が熱くなるような恥ずかしさで居ても立っても居られない。店から遠ざかる歩みが、思わず速度を増す。


買えない恥ずかしさが、コンプレックスを呼び起こす


分不相応な買い物、それが“浪費”


これまで好きなように買い物を楽しんできた紗枝にとって、取り置きした商品を戻すのは初めての経験だった。

ザ・ペニンシュラ東京のエステも、すでにネットからキャンセルを済ませている。慎吾と「もう浪費しない」と約束した手前、今後も定期的に通うのは難しくなるだろう。

―あぁ、残高不足なんて起こさなければずっと買い物を楽しめたのに…。年収1,200万円なんて、全然足りない…。

金銭感覚を改めようという決意は、決して嘘ではない。だが、ふと気をぬくとそんな考えが頭をもたげるのだ。

現在の勤務先である外銀は、紗枝にとっては第3志望だった。30代前半で1,200万円という年収は、第1志望だったトップティアの同業他社と比べると格段に劣る。

学生時代必死で勉強したにも関わらずセカンドティアにしか入れなかった自分は、格好悪い女なのではないだろうか。

もっとお金があれば、もっと欲しいものが買える。もっと欲しいものが買えれば、もっと素敵な自分になれるのに。

それは、紗枝が就職した時から感じている根深いコンプレックスだった。




セレクトショップからオフィス行きエレベーターへ向かう途中には、様々なブランドショップがひしめいている。

魅惑的な商品を閉じ込めたショーウィンドウに映る、惨めな自分の姿。

ふと、昨日聞いてしまったエミちゃんの悪口が脳裏によぎる。オフィスに戻ったら、また若い後輩たちにバカにされるのだろうか。

ギリギリまで戻りたくない。そう思った紗枝の足は半ば無意識のうちに、目の前にあった有名なフランスのハイブランドに向いていた。

―見るだけなら、いいよね…。

こんな時でさえ、ウィンドウショッピングしかストレス発散法が思いつかない自分が情けない。

しかし、ブランドを代表するスクエアの文字盤をした腕時計を見つめていると、そこに散りばめられたダイヤのきらめきが、紗枝を憧れという名の夢の中に誘ってくれるのだった。

―やっぱり素敵…。これを着けてたらかっこいいだろうな。買いたい。でも、今の私には買えない…。

腕時計コーナーの前にしばらく張り付いていた紗枝だったが、いつまでもこうしているわけにはいかない。そろそろ本当に仕事に戻ろうと顔をあげると不意に、そんな自分に視線を注ぐ人物の存在に気がついた。

「それ、買わないんですか?」

いつのまにか隣に立っていた40代前半くらいの男性が、紗枝に問いかける。いかにも上質そうなセーターとチノパンに身を包んだ、洒落た印象のスマートな男性だった。

紗枝は、突然話しかけられたことにドギマギしながら返事をする。

「あっ、ハイ。いいなーと思って見てただけなので…」

「じゃあ、僕が買います」

呆気にとられる紗枝の横で、男性は素早く店員を呼んだ。

アメックスのチタン製センチュリオンカードをチノパンのポケットから取り出すと、八百屋で大根でも買うかのようにやすやすと腕時計の購入手続きを進めていく。

―すごい、本当のお金持ちだ。奥さんへのプレゼントかな…。

そんなことを思ったが、自分には関係のないことだ。紗枝は男性の邪魔をしないようひっそりと店を出ると、トボトボと歩き始めた。

―高価な買い物は、ああいう人にだけ許された特権なんだ。私の浪費はおしまい。これからは堅実にならなきゃ。

200万円超えの時計をまったく躊躇せず買っていく真の資産家を目の当たりにしたことで、紗枝の心は諦めのような無力感に包まれていた。

しかし、もうすぐエレベーターホールへ到着するという時。紗枝の背後から「ちょっと、おねえさん」と呼び止める声がした。振り返るとそこに立っていたのは、腕時計の前で言葉を交わした男性だ。

「よかった、追いついて。はいこれ」

男性は、落し物を拾ってくれたような雰囲気で紗枝に何かを渡してくる。

それは、さきほどのハイブランドを象徴する、目に焼きつくように鮮やかな赤色のショッパーだった。

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真の裕福層から語られる“浪費の意味”に、紗枝の価値観が揺らぐ