恋の歌 穂村 弘

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ラブレターにまつわる話を5回にわたってお届けする本特集。

今回は歌人・穂村弘さんによる「恋」を主題とする現代短歌についてのエッセイです。三十年経っても変わらぬ夫婦愛から、ほとんど殺意に近いような未熟な恋心まで、歌の数だけ多様な“恋のかたち”が見えてきました。

文/穂村弘
イラスト/西村ツチカ
デザイン/桜庭侑紀
珊瑚樹のとびきり紅き秋なりきほんたうによいかと問はれてゐたり
今野寿美
「ほんたうによいか」という問いは、どんな時に発せられるものだろう。この短歌のどこにもそうは書いてないけど、これはプロポーズの瞬間の歌ではないだろうか。求婚の言葉に対して、作中の〈私〉は「はい」と答えたのだ。けれど、相手はすぐに喜びはしなかった。どこか驚いたように、そして怖れるように、「本当にいいんですか」と云ったのだ。二人の間に流れたほんの数秒が、スローモーションのように鮮やかに感じられる。人間の一生のうちの特別な時と、それを包み込む「秋」という季節が、くっきりと可視化された歌だ。
ちなみに、この時から三十年後に、夫になった相手は妻に対して返歌を送っている。
珊瑚樹がとびきり赤き秋ありきこの世に二人が知る赤さなり
三枝昂之
この世で二人だけが知っている特別な「秋」の記憶、珊瑚樹がとびきり赤かったこと……。だが、すべての恋がこんな風に幸福な結末を迎えるとは限らない。いや、ほとんどの恋とは壊れるものなんじゃないか。けれども、心は止まらない。誰かを好きだと感じた瞬間から、運命の歯車が回り出して、自分でも制御不能なさまざまな心の叫びが生まれる。
そんな短歌を幾つかを挙げてみよう。
プリントを後ろに回すときにだけ吾に伸べられる指先白し
寺井龍哉
〈私〉は学生なのだろう。目の前の席に好きな子が座っている。プリントを後ろに回す時にだけ、振り向いて渡してくれるのだ。その瞬間、指先の白さにすべての意識が集中してしまう。けれど、本当の意味でその手が、指が、自分に向けられる日はたぶん永遠に来ない。〈私〉はそのことを知っている。
俺なんかどこが良いのと聞く君はあたしのどこが駄目なんだろう
泡凪伊良佳
「俺なんかどこが良いの」とは、やんわりとした断りの言葉。告白した相手をなるべく傷つけないために選ばれた表現なのだ。けれど、「あたし」はそのことに気づき、すぐに現実を直視している。そういう「君」は「あたしのどこが駄目なんだろう」と。
自転車の後ろに乗ってこの街の右側だけを知っていた夏
鈴木晴香
どこにもそうは書いてないけど恋の歌。〈私〉はスカートで恋人の「自転車の後ろ」に右向きで横座りしてたのだ。その夏、二人は走り回って街中の景色を見た。けれど今、〈私〉は思う。自分が知っていたのは「この街の右側だけ」だった、と。その思い込みの美しさが「知っていた夏」という過去形と響き合う。ひと夏の恋は終わったのだ。
一度だけ「好き」と思った一度だけ「死ね」と思った 非常階段
東 直子
何年も一緒に過ごした相手をほとんど忘れてしまうことがある。その一方で、一度だけ「好き」と思った、ただ、それだけの恋とは呼べないような恋が、いつまでも胸に残ることも。そういえば、一度だけ「死ね」と思ったこともあったっけ。
イルカがとぶイルカがおちる何も言ってないのにきみが「ん?」と振り向く
初谷むい
こちらは幸福の絶頂にある歌。二人は水族館のイルカショーを見に来ている。イルカが飛ぶ。イルカが落ちる。水飛沫が上がる。イルカが飛ぶ。イルカが落ちる。水飛沫が上がる。その時、不意に君が「ん?」と振り向いた。私は何も云ってないのに。何かを云ったから振り向くのは当たり前。でも、何も云ってないのに振り向く時、その無意味さこそが、二人が今ここにいることの奇蹟を照らし出す。暗黒の宇宙に浮かぶこの星の、同じ時代に、たまたま生まれた二人が巡り会って、今のこの瞬間を分け合っていることの奇蹟を。
ペガサスは私にはきっと優しくてあなたのことは殺してくれる
冬野きりん
愛の前に人は限りなく無力。夢見ることしかできない〈私〉がここにいる。夜空から降りてきたペガサスは、何も云わなくても〈私〉の心がわかるのだろう。優しく顔をひと嘗めして、再び窓から飛び去った。あなたのもとへ。殺すために。〈私〉は眼を閉じて思う。こんなにもあなたを愛している、と。
「ラブレターの話」特集一覧
【次回予告】
次回はなんと大竹昭子さんによる短編小説、電気でもガスでもなく「ラブレターだけが燃料になる」という、不思議なストーブをめぐる密室劇です。2/15(金)21:00公開予定。