TKO 木下隆行さん

写真拡大

◆「カネ返せ」「ウジ虫」「殺すぞ」扉には借金取りの張り紙が

「ウチは、おとんが会社をつぶしてしまって借金が1億円もあったんですよ。4歳ぐらいからですか、福岡や大阪を転々として、中学までに11回、転校を繰り返したほどで。要は夜逃げですよ。だから普通なら貧乏ネタの一つや二つあってもいいんですけど……僕は『貧乏だけど、お坊ちゃま』だったんです」

 莫大な借金、育ち盛りの4人の子供。一時は一家心中寸前まで追い詰められていた。それなのにTKO木下隆行さんは深刻な貧乏状態に気づかなかったという。

「もうね、家族が僕に必死に隠していたからですよ。僕は4人兄姉の末っ子でしょ。見えっ張りなおとんが『タカ坊には気づかせるな』と。だって夏休みには、毎年、家族全員で旅行するんですよ。誕生日やクリスマスもちゃんとやっていた。誕生日に超合金のロボットをねだって、普通に買ってもらえるんです。お年玉だって中学のときかな、3万6000円も集まった。超合金持ってて、お年玉で買い食いする貧乏な子はいないでしょ」

 そんな「貧乏隠し」の生活を維持するために父親は借金を重ねていたという。木下さんは「夜のドライブ」と「謎の10分」のエピソードを語る。

「時折、夜になると『みんなでドライブ行くぞ』と2時間ぐらい車で出かけるんです。アパートに戻ると、両親は『車で待ってて』と子供を残してアパートに向かう。それを僕は『謎の10分』と呼んでたんですが、上の兄貴2人と姉は、何をしているのか、知っていたんでしょうね。親についていこうとする僕をがっちり押さえていましたから」

 部屋の扉には借金取りの張り紙。「カネ返せ」「ウジ虫」「殺すぞ」──それを両親はタカ坊に気づかせないために10分かけて剥がしていたのだ。

「で、夜のドライブがあったあと、なぜか引っ越し。しかも夜のうちに(笑)」

◆僕らを車に乗せて「崖から落ちようか」

 貧乏なお坊ちゃま生活を維持するため、ある種、開き直って借金生活を続けていた木下家。しかし、木下さんが18歳のとき、父親がガンを発症し、転機が訪れる。

「借金生活でボロボロのおとんにとって、心の支えは、貧乏と知らずに育った甘ったれなお坊ちゃん体質の僕の無邪気さと、もう一つ、『いつか焼き肉店をやりたい』でした。それで就職していた兄貴たちがカネをかき集めて、家族全員で焼き肉店を出すことになった。おとんもね、1週間ぐらいかな、厨房に立って……。夢が叶ったのを見届けるように、直後に亡くなりました」

 そのとき、初めて木下さんは、父親に1億円の借金があることを家族から知らされた。

「でも兄貴が、『この店、盛り上げて返すから、お前は自由にしろ』と。それで翌年(’90年)、松竹に入って芸人を目指したんです。20歳のときですわ」

 焼き肉店では、末っ子の芸人デビューに合わせて新メニューを登場させた。のちに年商20億円となる「きのしたグループ」の看板メニュー「鉄板鍋」だった。

「僕が4歳の頃、ホンマにしんどかったんでしょうね。おかんが僕ら子供を車に乗せて『このまま、崖から落ちようか』と言いだしたんです。僕以外、みんな号泣ですよ。ただ、よくわかっていなかった僕は、『おとんと、浦島太郎ごっご、もうできへんの?』と聞くと、おかんが『そうやね、まだ、浦島ごっこ、したいよね』と、思いとどまったらしんです。その夜にね、家族で食べたのが、『鶏ムネ肉と白菜の鍋』だったんです。

 その頃、福岡で暮らしていて、おかんは畑の手伝いをしていたのか、白菜を山ほどもらっていた。それと福岡は鶏肉が安くて、一番安かったムネ肉を醤油で炊くだけの、いま思えば貧乏鍋ですわ。あの日も家族は泣きながら『うまい、うまい』と食べました。子供の頃からの僕の大好物なんです」

 一家心中を考えた夜、泣きながら家族でつついた貧乏鍋。芸人を目指す甘ったれな末っ子への強烈なエールとなった。

「あの貧乏な鍋はどんどん進化してチェーン店の看板メニューになって、成功した。それに負けないよう、僕も芸風を広げる努力をしてきた。いまの僕があるのは、あの鍋のおかげなんですよ」

★木下さんの貧困川柳『貧乏を 知らせず育てた 父の愛』

【TKO 木下隆行さん】
お笑いコンビ・TKOのボケ担当。中学時代に相方の木本武宏に出会う。’90年から松竹芸能所属。貧乏な幼少期をともに過ごした家族は、現在、関西や関東を中心に15店舗を持つ「元祖鉄板鍋きのした」グループの経営者に

― [泣ける貧困飯]を再現 ―