日本初の恵方巻のビラ(写真提供・すしミュージアム)

 豆をまいて厄を払い、歳の数だけ豆を食べる……日本の年中行事である節分の風習だ。加えて、その年の「恵方」を向いて太巻きを丸かぶりする「恵方巻」も、全国チェーンのコンビニが1月から予約の募集をかけて一斉に宣伝するようになり、全国的に広まった。

 恵方巻は、どこから広まったのだろうか。「コンビニ各社が宣伝するようになる前から、恵方巻を広めようと取り組んでいた」というのは、1854年に創業した東京の老舗海苔問屋・井上海苔店の店主である井上勝久氏だ。

「わたしが所属する『海苔で健康推進委員会』では、海苔の消費宣伝活動の一環として、恵方巻の宣伝に着手しました。30年ほど前くらいでしょうか、最初は寿司組合に『協業しませんか』と交渉しましたが、まるで相手にしてもらえなかった。どちらにもメリットがある話だったんですけどね(笑)。

 それで20年ほど前から、恵方巻を一般消費者に広めるイベントをおこなうようになりました。イベントには笑福亭笑瓶さんや、お笑いコンビのオセロさんなど、有名人をお招きしてね。

 銀座のソニービルや池袋のサンシャインシティ、横浜のクイーンズスクエアなどで、恵方巻の啓蒙イベントを開催し、ポスターの掲示やバッジの配布などを行ったんです。

 そのほかにも、広報誌『海苔プレス』で、恵方巻を宣伝したりですとか。でも、2000年ごろから、コンビニさんが恵方巻の販売と宣伝を始めるようになって、われわれは恵方巻の宣伝はしなくなりました。

 じつは恵方巻という文化は、もともと関西のものなんですよ。われわれが活動を行う10年ほど前から、大阪の方ではすでに、恵方巻を『節分の恒例行事』として浸透させようという動きがあって。

 私たちは、東京で恵方巻の宣伝活動を始める前、大阪の組合さんのところに行って勉強させてもらったんですよ。『昭和会』さんっていう、大阪の海苔問屋組合の青年部のようなところです」

 井上氏たちがかつて学びにいった「昭和会」とは、大阪の海苔問屋組合を中心として、全国から海苔協同組合の組合員が集まり、勉強会をおこなう団体だ。

「40年以上も前から恵方巻を文化として広める活動をおこなっていた」と語るのは、昭和会の現会長・牧野収平氏だ。

「当時の昭和会は、1974年のオイルショックをきっかけに、海苔の販促活動として、大阪の道頓堀の商店街で海苔のチャリティーセールを始めました。

 そこから、さらなる販促を、と考えてはじめたのが、1977年の『節分巻きずし丸かぶり』という、現在の恵方巻の原型となる風習です。具体的には、近畿地区の女子大生を道頓堀に招いて、『丸かぶり早食い競争』というイベントを開催しました。これは日本初の恵方巻イベントだと言えます。今年で43回めになります」

 道頓堀だけでなく、2003年からは大阪天満宮でもおこなわれているこのイベント。参加者が一斉に巻きずしを丸かぶりするもので、当初は500人規模だったが、現在では倍の1000人規模でおこなわれている。

 では、この「丸かぶり早食い競争」が恵方巻が広まった起源なのだろうか。牧野氏と同じ昭和会で、理事長を務める村瀬忠久氏がこう語った。

「節分に恵方巻を食べる風習を始めたのは、われわれ海苔問屋組合ではなく、寿司屋です。昭和7年(1932年)、心斎橋に店を構えていた『福寿司』という老舗の寿司屋が、『節分の日に丸かぶり』という広告を店舗に掲示しています。これが日本初の恵方巻の広告で、この広告から恵方巻を広める活動が始まったそうです」

 残念ながら現在は閉店している同店(閉店時の屋号は「本福寿司」)。3年前まで営業していた最後の店主・大和良幸さんが「節分に恵方巻」のルーツを語った。

「むかし花柳界で、芸者に巻きずしを丸かぶりさせる遊びがあったんですよ。昭和初期の寿司職人なんて、みんな遊び好きですから(笑)。

 うちの当時の大将が会長を務めていた寿司組合のメンバーが、会合したときにたまたまその遊びを見て、節分のプロモーションにしようと思いついたんでしょうね。

 それで、うちの大将が中心になって、組合で『恵方巻広告』を作り、組合員の店にそれぞれ屋号のハンコをついて飾った。これが『節分に恵方巻』を広めるようになった経緯なんですよ」

 大和氏が本福寿司を閉店した後、その広告の現物は、静岡県清水市にある寿司の博物館「すしミュージアム」に貯蔵されている。冒頭の画像がその広告である。

 いまや日本全国に広まった「節分に恵方巻」の風習。その起源は、「花柳界のお遊び」と、関西の寿司職人の「遊び心」にあった。歴史とともに、巻きずしを噛みしめたい。