スキンヘッド&あごひげの異様な面相でアイアン・フィンガー・フロム・ヘルを繰り出す。そんな悪役スタイルで会場を沸かせてきた飯塚高史が、1・4東京ドーム大会直後の1月7日に引退を発表した。2月21日の後楽園ホール大会がその引退記念興行となる。

 2008年4月に突如として悪役に転向し、現在の容貌となったが、もともと飯塚はクールなイケメンで、むしろ技巧派として売り出された。

 「’85年の入門だから闘魂三銃士の1年下。同年にジャパンプロレスへ入団した馳浩がいて、ロス五輪出場の実績からグルジアでのサンボ修行に派遣された際は、飯塚もそれに同行しており、技術の高さを早い時期から見込まれていました」(プロレスライター)

 帰国後には長州力のパートナーに抜擢されて、IWGPタッグ王座を戴冠した。その長州が’98年に“引退試合”として行った5人掛けでは、ただ1人、飯塚だけがアキレス腱固めで1本を奪っている。

 「5人掛けにおける他のメンバーは、新人の藤田和之と吉江豊に、ジュニアヘビーの高岩竜二と獣神サンダー・ライガー。ヘビー級でそれなりに実績のある飯塚が勝っても不思議ではないが、それでもやっぱり長州が1本を譲るというのは、期待の表れだったことに違いありません」(同)

 飯塚にとっての不運は直上の三銃士それぞれが、個性あふれるスター候補生であったことだろう。そのため、どうしても後塵を拝すことになり、また、会社からは先輩たちにないキャラクターを押し付けられることとなった。

 その最たるものが、野上彰と組んで’93年に結成されたJ・J・JACKSだ。正式には“ジャパニーズ・ジョリー・ジャックス”で、意味は「日本の陽気な男たち」というもの。その名にちなんでフリフリの付いたコスチュームをまとったりしたが、北海道出身で地味な性格の飯塚にとって、こうした演出は絶望的なまでに似合わず、結局、タイトル獲得に至らぬまま2年半ほどで解散となった。

 だが、’99年の小川直也vs橋本真也戦において、試合後の乱闘でセコンドの村上和成を病院送りにしたことにより、潮目が変わってくる。飯塚は村上との因縁マッチで名を上げ、対格闘技用の秘密兵器と目されるようになったのだ。

 ’00年にはIWGP王者・佐々木健介への挑戦、さらにはG1タッグリーグ戦に優勝(パートナーは永田裕志)と、ようやく主役の座が巡ってきたかに見えた。

 また、同年の大みそかに『イノキ・ボンバイエ』(大阪ドーム)で組まれた飯塚&永田vsマーク・コールマン&マーク・ケアー戦は、ファンから“格闘プロレスの最高峰”と称されもした。

 しかし、ようやくブレイクした飯塚を悲劇が見舞う。’01年6月、長井満也との対戦で大けがを負い、長期欠場を余儀なくされたのだ。

 「コーナーに詰められた際、長井に蹴りを連発された飯塚はガチ失神。このときの首の故障は深刻で、それまで得意技としてきたサンボ由来のブリザード・スープレックスや裏投げなども、首への負担が大きいことから思うように使えなくなってしまいました」(同)

★狂乱ファイトを見守る温かい目
 だが、災い転じて福となすというべきか。長い雌伏のときを経て、’08年にそれまでと180度異なる悪役に振り切れたのは、華麗な投げ技を封じられたことが一因としてあったのだろう。故障欠場のため、流行していたPRIDEなどの格闘技戦に駆り出されなかったことも、ある意味で幸運だったかもしれない。

 ヒール転向後の飯塚人気は、まさにうなぎのぼり。なぜか「ウガー」としか言わないキャラクター設定も、アイアン・フィンガー・フロム・ヘルなる鉄製グローブによる地獄突きも、実況の野上慎平アナとの抗争劇も、やることなすことファンに支持された。