特集・波濤と噴煙に向って 番外編
【ライブドア・ニュース 2005年12月30日】− 今年2月に火山活動による全島避難の指示が4年半ぶりに解けた三宅島の年の瀬。強い西風とともに毎日早朝に到着する東京発の定期船からは、お土産を抱えて正月をふるさとで過ごす島出身者たちが次々と降り立っていた。島の子どもたちは、島の高校を卒業するとほとんどが家族から離れて、東京に行く。だが、避難指示が解除された2月以降、島に戻る20−30代の若者が増えているという。島唯一の金融機関に勤める津村茂久さん(24)もその一人。東京で暮らし始めて間もなく火山が噴火。品川区の公営住宅に避難してきた家族との距離は徐々に近くなり、再び同じ屋根の下で暮らし始めた。「若いうちは東京」とのこだわりも、いつしか「島に何らかの形で関(かか)わりたい」との思いに変わり、勤めていた物流会社から現在の職場への転職を決意した。
「自分たちの世代が盛り上げていかなくては」。津村さんは、同じく島に戻った同年代の仲間と、サッカーチーム「FC脱硫(だつりゅう)」を結成。火山ガスからの害を避けるために避難する「脱硫施設」を、村のだれもが生活に必要で身近な言葉だと考え、名づけた。中学生から大人まで参加する「オール三宅」のチームとして、東京都三宅支庁がつくるチームと毎週のように対抗戦を行っている。年明けには、復興作業で正月準備もままならない村民のために、杵(きね)とうすをトラックに積み込んでの「出張餅(もち)つき」を仲間たちと計画。来年2月の帰島1周年に向けては、バンドを結成して、島の復興を願うオリジナル曲の練習も始めている。「自然が日々変わりゆくのなら、僕らも日々変わりゆこう。みんなで歩き始めよう─」。いつもの仲間が集まる居酒屋でギターを手にした津村さんは「メディアは辛(つら)い印象ばかり伝えるけど、僕らはあくまでも前向き。後悔させないから、みんな一度でも遊びに来てほしい」と強調した。
帰島が開始された2月から8月まで、20−30代の会社員を中心に約1000人のボランティアが東京から訪れた。ふだんは企業の一線で働く若者が、屋根に積もった火山灰を降ろしたり、4年半で背丈以上に伸びた草の刈り取りなど肉体作業を行う。その活動拠点「風の家」の事務局を担う坂上浩一郎さん(35)は「4割いるお年寄りには、一人暮らしが多い。あまりにぎやかな暮らしではないので、ボランティアが行くと励ましにもなった」と話す。日常の仕事に戻った後も島のお年寄りと連絡を取り合う参加者も多く、島民の心の支えになっているという。坂上さん自身も25歳のときに、旅行で訪れた三宅島に魅了されて移住したが、島民歴10年の半分は都内での避難生活。噴火をきっかけに始めたボランティア活動から「人に対する優しさを学んだ」としながら、「お年寄りにとってさびしい避難生活の中でも、自ら命を落とした方はいなかった。この経験を誇りにしたい」と語った。
噴火直前の99年は、三宅の海を求める若者で島の観光は活気づいていた。当時の観光客の3割は、ダイビングや釣り目的で訪れた。かつて羽田との間を1時間弱で結ぶ定期便が発着した空港は、立ち入り規制区域にあるため休業中。「ガスマスクが必要」という危険なイメージと、6時間の船旅という不便さもあって、客足は遠のく。「飛行機がない島なんかいやだ、という若者は少なくないと思う。再開は、若者対策としては不可欠」と強調するのは平野祐康村長(56)。東京に住んでいた自らの次男(21)が、この年の瀬に島に戻る決意を固め、帰ってきたという。平野村長は「村長の子どもが1人も島に住んでないのに、若者対策なんて語れない」と冗談を交え、若者が住める島づくりの重要性を熱っぽく語った。【了】
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