『カメラを止めるな!』で主人公の映画監督役を務めた、濱津隆之さんの意外な半生とは(撮影:梅谷秀司)

「『カメラを止めるな!』見た?」

2018年の夏ごろから、人々の間であいさつのように交わされたこの言葉。わずか300万円の予算と、新人監督・無名俳優たちによって作られた『カメラを止めるな!』。映画館で見て熱狂した人も少なくないだろう。

全6回のレイトショーで終わるはずだった上映は、評判が評判を呼んでたちまち全国展開に。興行収入30億円超、観客動員数200万人(2018年12月時点)もの大ヒットとなった。


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その『カメ止め』で主人公の映画監督役を務めた、個性的な面立ちの俳優を覚えているだろうか? 彼の名は濱津隆之(37歳)。本作のヒットで脚光を浴び、テレビのバラエティ番組などへの出演が相次いでいる。

しかし、『カメ止め』へ出演するまでは、まるで鳴かず飛ばず。最近まで昼間と夜間、ラブホテルで清掃アルバイトをしていた。アラフォーにして開花した彼の、芸能に注いだ半生を紹介する。

埼玉のマンションで「ビデオごっこ」

1981年、濱津さんは埼玉県川口市で生まれた。運動も勉強も苦手、クラスでも目立つタイプではなかった。けれど人を笑わすことが好きで、仲間内ではお笑い担当だったと少年時代を振り返る。

「小学生のころ、同じマンションに住んでいる幼馴染が4人いて。ビデオカメラを持ってるやつの家に集まって、面白いビデオを撮る遊びをしていました。当時、『ウゴウゴルーガ』っていう子ども向け番組があって、そのまねでコントみたいなことをしていたのかな。あとは、ラジカセにおしゃべりを吹き込んで、ラジオごっこもしていました」

懐かしそうな、少し照れくさそうな表情で濱津さんは話す。その口調には、お笑いタレントのヒロシさんのような哀愁が漂う。今、最も勢いのある役者の1人とは思えないほど腰も低く、性善説の正しさを確信してしまうような“いい人オーラ”を放っている。濱津さんの両親は寛容で、成績のことをうるさく言われたり、塾通いを強制されたりすることはなかった。そのため、仲間たちとお笑い活動(?)に打ち込むことができた。

高校を出た後は、千葉県流山市にある大学へ進学。とくに学びたいことがあったわけではないが、

「兄も姉も大学を出ていたので、僕もとりあえずは、と。周りには畑しかなくって。なぜそこを選んだかというと、僕の頭ではほかに受かる大学がなかったからです」

と自虐的に笑う。しかしキャンパスライフのなかで、芸能の道に進む大きなきっかけと出会う。

「学園祭の運営局に入ったんです。僕が所属したのはその企画班。学園祭で何をするか、どんなタレントを呼ぶか、などを考える役割ですね」

学園祭の運営メンバーになったのが転機に

人を笑わせることが好きな性分が、思う存分発揮された。企画した催しのひとつに、「早食い」ならぬ「早食わせ競争」があった。2人1組がペアになり、手を使えない状態にした「食わされ役」の口に、「食わせ役」がキャベツやバナナなどの食材を押し込んでいくというもの。事故がないよう、実際に体を張って試すことも企画班の仕事だった。


濱津さんは大学生のころから「将来は“音楽”か“芸能”で食べていきたい」と夢をもっていた(撮影:梅谷秀司)

ゲストに呼んだタレントは、アンタッチャブルやテツandトモ、エスパー伊東など。そこでプロのパフォーマンスを目の当たりにした。学園祭当日はステージに立って司会進行もした。そういった経験が積み重なり、将来はお笑いの道に進むことを決意した。

大学卒業後、居酒屋で1年間アルバイトをしてお金をため、NSC(吉本総合芸能学院)に入学。同期の木場光勇(こばみつたけ)氏と「はまつとコバ」を結成する。コント中心の芸風で、濱津さんはボケを担当した。芸風はというと、

「変な人と出くわして困る人、みたいなネタをしていました(笑)。例えば、家で心霊現象が起こったので、解決してもらおうと霊媒師を呼んだら、変な人が来た……っていう。僕も相方もさまぁ〜ずさんが好きで、影響を受けていたと思います」

NSC在学中は、将来を期待される選抜クラスに在籍。卒業後も、先輩芸人のライブに出演したり、新人ではなかなか出られない劇場へ出演を抜擢されたりと、順調な滑り出しを切った。ちなみにNSCの同期には、シソンヌやチョコレートプラネット、向井慧(パンサー)、エド・はるみら売れっ子が名を連ね、早々に頭角を表わしていた。負けずに飛躍を目指していたが、1年足らずで濱津さんは活動休止を決意する。

「昔から音楽が好きだったんです。将来は“音楽”か“芸能”のどちらかで食べていけたらと思っていて、お笑いへ進んだものの、音楽への興味も捨てきれず。一度、本気でやってみようと考えたんです。相方はお笑いを続けていく気だったので、迷惑をかける形になってしまいましたが、中途半端な気持ちでお笑いは続けられないというのが正直な気持ちでした」

濱津さんは中学のころから、60〜70年代のソウル、ファンク、R&Bなどを聴いて育った。また大学の学園祭運営局時代、ステージでブレイクダンスを披露するダンサーの後ろで、音楽をあやつるDJを見ていたこともあり、チャレンジしたいと思うようになっていたのだ。

コンビを解散した後はDJへ転身。DJを募集しているクラブへ片っ端から連絡し、DJ HAMAONE(ハマワン)として出演させてもらうようになった。実はそれまで、クラブにすら行ったことがなかったが、「僕はDJです、って言えばなれるかなと思って」と、ノリと勢いでデビューしたことを振り返る。

5年ほど活動を続けたが、DJだけで暮らしていける手ごたえは得られなかった。年齢も30歳になろうとしていた。お笑いと音楽にチャレンジし、どちらもうまくいかなかった。一般的には、就職などを考える転機になることが多いが、濱津さんは違った。役者に挑戦することにしたのだった。

「後悔したくなかったんです。僕が興味を引かれたのは、芸能と音楽だけだったので、そのどちらかで絶対に食っていきたい、って思っていました。ありがたいことに、親からも『人様に迷惑かけないようにしなさい』としか言われなかったので、自由にさせてもらいました」

がっつりアルバイトをしながらだったので、金銭面で困ることはなかった。恋人もいなかったので、結婚のことなどを考える必要もない。自分は何をしたいか? という純然たる思いに従っていったのだった。

当時を振り返るとき、それまで穏やかだった濱津さんの口調が、不意に熱を帯びた。彼にとって大きな決断であったことがうかがえる。

俳優を目指し養成所へ、役者デビューは31歳

役者の道を選んだのは、芸人時代に、コントでキャラクターを演じていたことを思い出したから。自分は役を演じることが好きなのかもしれない、と考え養成所に。レッスンを受け、エキストラなどに出演していく。やがて先輩の紹介で、舞台で役者デビューすることになった。31歳の頃だった。

「家族もののコメディで、僕は兄弟の1人を演じました。このときに改めて、自分はコメディが好きなんだなと感じましたね。それからは自分でも、役者を募集している劇団を探すようになって。年1〜2回のペースで、小劇場を中心とした舞台に出演していきました」

こうして役者としての活動を開始する。そして2017年、活動の幅を広げようと、あるオーディションに参加したことが濱津さんの運命を変えた。俳優や映画監督を養成するENBUゼミナールが主催の「CINEMA PROJECT」だ。

このプロジェクトは、若手監督がオーディションを開催し、合格した人々は作品に出演できるというもの。参加した濱津さんは、後に『カメ止め』を制作する上田慎一郎監督からのお題で、ほかの参加者とペアになり、“怒りながら相手をほめる”という不思議な演技などを行う。手ごたえはなかったというが、見事合格し、『カメ止め』の主演に抜擢されたのだった。

しかし当時を振り返る濱津さんは、どこまでも謙虚だ。

「自分が主役と言っていただいていますけど、12人のキャストでつくった映画なので。僕が主役を勝ち取った、という感覚はありません」

続けて、このオーディションに参加し、『カメ止め』への出演につながったことは、奇跡の連続なのだと振り返る。

「本当は、前の年に実施されたCINEMA PROJECTのオーディションを受けようとしていたんです。監督が知り合いで、好きな方だったので。でも都合が合わず、じゃあ次の年に受けてみようとなったんです。前の年に受けていたら、翌年の参加はなかったかもしれないし、何が起こるか本当にわからないですね」

『カメ止め』の大ヒットで、濱津さんの生活は一変した。バラエティを中心にテレビ出演のオファーが殺到。俳優としての依頼も少しずつ増えているという。街を歩くと声を掛けられるようになり、アルバイト生活も卒業した。これまでフリーで活動していたが、芸能事務所からオファーも届いている。

しかし濱津さんは、天狗になったり、舞い上がったりすることはない。『カメ止め』のブームが落ち着いた後も、役者として活躍できていることが目標だと、謙虚な笑顔を浮かべた。

なかなか結果が出なくても、泥臭く好きなことを追い続け、ようやく花開いた濱津さん。しかし1度だけ、諦めようと思ったことがあったという。役者になって3〜4年が経ったころ。参加した演劇のワークショップで、出されたお題がどうしてもできなかったのだ。それまでにも、思うような演技ができなかったり、ダメ出しを受けたりした経験はあった。それが積み重なり、臨界点を超え、これまでにない挫折感となったのだった。

それでも濱津さんは、なぜ続けてこられたのだろう?

"あきらめること"は、自分らしさを大事にすること

「結局、後悔したくないってことですね。その思いが自分のなかに残ってくれていたので、もう1回チャレンジしてみよう、という気持ちになれたんです。腐りかけもしましたが、結局自分はこの道でしか生きていけないんだなと。だから持ち直せたし、続けてこられたのかなと思います」

もうひとつ、今の自分がある要因として、濱津さんは「あきらめること」を大事にしてきてからだと語る。芸能や音楽で生活をしていきたい、という目標は捨てたくない。であれば、そこへたどり着くために、手段や方法を思い切って変えることも必要だという。

「ゴールへ行くための道は、1本だけではないはずなんです。僕も芸能や音楽の世界を目指してきたからこそ、芸人やDJをあきらめてきました。変に執着していたら、止めるタイミングを見失って現在も続けていたかもしれない。そうしたら今の自分はなかったはずです」

その考えは、役者になってからも変わらない。例えば二枚目俳優のような立ち居振る舞いをしても、誰もがさまになるわけではない。そもそも人は、顔も身長も体型も骨格も違う。無理に演じても滑稽になってしまうだけ。であれば、できないことはあきらめ、自分らしさを大事にすべきだと濱津さんは続ける。

「最初、二枚目を目指すべきかと勘違いしてしまったのですが、僕が役所広司さんのようになろうとしても無理なんですよね(笑)。だから、ぶざまでもいいから、自分のまんまでいたいです。あきらめるって、きっとそういうことでもあって。自分を楽にしてくれるし、好きなことをしていくために必要だと思うんです」


「できないことはあきらめ、自分らしさを大事にすべきだ」と語ってくれた濱津さん(撮影:梅谷秀司)

その個性的な風貌から、インターネットで「濡れた犬」「情けない感じ」など書かれることもある濱津さん。それを無理に殺さず、守り続けてきたことも、今回のブレイクにつながったのかもしれない。

余談だが濱津さんは、大ブレイクを果たした2018年のクリスマスも、家でひとりビールを飲んでいたのだという。「大学を出てから彼女はいない」「どうすればモテるんですかね?」とつぶやくその姿は、『カメ止め』で見せた“冴えない”“愛くるしい”役柄そのもの。現在も事務所には所属していないため、この取材の交渉もご本人に直接。編集担当者が送った依頼メールには、すぐさま丁寧な返信が届いたという。スクリーンの外の姿や振る舞いでも、映画を見たとき同様、取材班は濱津さんにすっかり魅了されてしまったのだった。

これから舞台や映画やドラマなど、役者としてさまざまなステージで活動していきたいという濱津さん。役柄が何であれ、活躍の場所がどこであれ、彼は彼のまま、その魅力的なぶざまさで、存在感を発揮していくに違いない。作中で、トラブルに見舞われてもカメラが止まらなかったように、濱津さんの役者人生も止まることはないのだろう。