熊本での木下サーカス大公演(撮影:尾形文繁、2017年)

この年始は大阪うめきた公演が大盛況となっている「木下大サーカス」。集客数は年間120万人と世界のサーカス団の中でもトップ級を誇る。
木下家四代、117年にわたって、他に類を見ないファミリー企業(同族企業)として波乱と進化の歴史を歩んできた根源に何があるのか。年間120万人の集客につながる、地道な営業の「根」をどう張り巡らせているのか。
木下サーカス四代記 年間120万人を魅了する百年企業の光芒』を上梓したノンフィクション作家・山岡淳一郎氏が驚異の観客動員力につながる独自のビジネスモデルについて解説する。

「一場所、二根、三ネタ」を磨く

木下サーカスは、世界のサーカス界で1、2の観客動員力を誇る。


そのビジネスモデルの特徴は「移動」を定式化しているところにある。ほぼ3カ月おきに全国の都市から都市を巡り、約2000人収容できる巨大テントを建てて公演を行う。同じ都市での公演は、少なくとも5〜6年の間隔を開け、その間にショーの中身を変えて鮮度を保っている。

「一場所(公演地選定や現場運営)、二根(営業の根気)、三ネタ(演目)」の3要素を磨き、移動興行を事業化した。

まさに継続は力なりだ。

117年の実績と人脈、信用力で1年前に公演地を決め、遅くとも半年前には先乗りの営業部隊が現地に入る。そして、きめ細かな販売促進活動を、地元の新聞社やテレビ局と組んで根気よく、行う。

華やかなショーの舞台裏で展開される営業活動は鴨の水かきのようだ。

たとえば、2018年秋の千葉県柏市での公演では、春先に先乗り隊が柏駅から徒歩7、8分のビルの一室に事務所を開いていた。事務所には大きな神棚が祀られ、壁一面に地図が張られた。地図には公演会場のセブンパークアリオを中心に半径5キロごとに同心円が描かれ、それぞれの圏内の対象人口と営業のターゲットが綿密に記されていた。

この事務所を拠点に、木下サーカスの営業スタッフ10人と、主催者である読売新聞の事業部員2人が営業に飛び回る。新聞販売店の関係者も頻繁に事務所に顔を出す。公演会場から15キロ圏内の対象人口は200万人、20キロ圏は400万人。30キロ圏まで広げると東京都の東半分がすっぽり入り、1000万人を超える。十数名の営業部隊で1000万人を相手にローラー作戦は展開できまい。地元の千葉、埼玉、茨城、東京のどこまで攻めるか、細かくエリアを区切ってプロモーションを仕掛ける。

商品価値は口コミで伝わる「臨場感」

営業活動は、売り込み先に企画パンフレットを送ることから始まる。送付先は、幼稚園、保育園、小・中・高校、大学、子ども会、スポーツ少年団から老人会、飲食業組合、クリーニング組合、商工組合、病院、宗教団体といった団体から一般企業まで幅広い。主催者やスポンサーの関係で、自動車、住宅、メーカー、小売りなどの大手企業の支社や支店にも資料を送る。


2019年3月11日(月)まで、大阪駅前うめきた公演を開催中。詳しくは、こちら(写真:木下サーカス

ターゲットは、いち早くアプローチする「A」、その次の「B」、「C」の3ランクに分けてあり、営業部員は担当する相手先に電話でアポイントを取って、商談に赴く。団体割引を設定したチケットや、サーカス会場の広告看板などのスペースを売るわけだ。

四代目社長の木下唯志氏は、営業の心がけをこう語る。

「先手、先手を打つのが大事です。柏市での公演は13年ぶりでしたが、前回、お世話になった方々へのご挨拶はもちろん、進化したショーを堪能していただくために営業部隊は一斉にお客さまに向かって動きだします。うちの商品価値は、あのテント空間で命懸けの演技を目の当たりにする『臨場感』です。ビデオで再現できるものではありません。ご覧いただいた方々の心にどれだけインパクトを与えられるか。口コミの力は大きいですね」

唯志氏の長男で、営業部隊を率いる常務の龍太郎氏は、「観客動員の勝負は幕開けからの1週間にかかっている」と言う。

「オープンして、どっとお客さまがいらっしゃれば、口コミで徐々に息の長い集客につながります。ポイントは、第1週の平日のにぎわいです。そこに向かって、新聞社やテレビ局と相談しながら、さまざまな団体、学校、鉄道会社、バス会社、メーカー、コンビニ、店舗……ありとあらゆる方面にサーカスを周知します。地域全体が告知のメディアともいえます。実際に営業をしていて木下家の長い蓄積を感じることはありますね」

木下サーカスの公演準備で、もう1つ目を引くのが地元の「福祉施設」へのアプローチだ。毎回、地域の福祉施設を利用している障がい者1万人を招待している。自治体にとって手薄な福祉事業への支援は大きな魅力でもある。1万枚のチケット代金は、前売り自由席に換算して2000万〜3000万円に上る。それだけの負担をしても障がい者を招く。障害者の無料招待は、販促活動を超えた、木下家が守り続ける生命線になっている。

木下家の慈善活動は、1923年に起きた関東大震災後に初代の唯助氏が罹災者を天幕に収容し、公演に無料招待したあたりにまでさかのぼる。福祉に積極的に取り組んだのは唯志氏の父で二代目の光三氏だった。第2次大戦中、光三氏は、中国山西省の戦地で瀕死の重傷を負い、九死に一生を得た。戦後、「サーカスに国境はない。友好を深めたい」と、ハワイ公演を手始めに東南アジア各国を巡業した。

当時、戦争の傷跡は深く、東南アジアには「反日感情」が渦巻いていた。唯志氏の姉で副社長の嘉子氏は、1957年、中学2年で初めて同行したフィリピンのマニラ公演を、次のように回想する。

「日本人は憎まれている。治安も悪いから、絶対に1人で出歩いてはいけない、と父から言われていました。マニラに入り、外出するときはボディガードがつきました。エレベーターに乗ると、じろじろ見られ、日本人とわかれば危害を加えられそうで怖かった。街のレストランで食事をしていても、『ジャパニーズ』という声が聞こえると、父は『さぁ出よう』と途中で切り上げ、席を立ったほどです」

サーカスを通じた国際親善

実際に公演準備をしていた団員が何者かに拉致されかけた。はたして無事に興行ができるのかと危ぶまれた。嘉子氏が語る。

「マニラ公演は、マグサイサイ大統領夫人の子ども病院建設を支援し、寄付するために父が企画したものでした。そのことが周知されると、私たちを取り巻く雰囲気が変わったんです。意図を伝える大切さを痛感しました。会場周辺の警備も強化され、治安が好転。スペイン統治時代のなごりをとどめるアリーナで幕が上がると、連日、大盛況でした」

光三氏は、フィリピンのほかにタイ、マレーシア、シンガポール、香港、そしてアメリカ統治下の沖縄と、戦場となった場所で立て続けに公演を催した。日本文化の流入を禁じていた韓国でも公演を企画している。ソウル公演は九分九厘決まりかけていたが、政治的理由で実現しなかった。光三氏は、海外公演と福祉支援について、こう語り残している。

「戦火で廃虚となった東南アジアにあらゆる国が物資援助をしているのにくらべると、張本人の日本は、戦火で汚しただけ。援助らしい援助はほとんどしていませんね。大きな顔の政治家がぞろぞろ視察に行っても、誰も喜びませんよ。それより、サーカスを通じ、チャリティショーを開いたほうが、よっぽど気がきいていますよ。現地の外交官も民間の“親善使節”の重責を果たしてくれたと喜んでくれています」〔岡山日日新聞(のち廃刊)1969年〕

こうした長い積み重ねのうえに営業の「根」が張られているのである。

命がけのショー、想像を絶する肉体訓練

アーティストと呼ばれる演技者たちは、「一場所、二根」の安定感を背景に「三ネタ」の向上に取り組む。サーカスの肉体訓練は、想像を絶する。一例を挙げると、直径7mの鉄球籠を、バイク3台で水平、垂直、斜めに激走する演技は、とてつもない遠心力がかかり、人間の平衡感覚を狂わせる。トレーニングは三半規管を徹底的にいじめ抜くところからスタートする。空中ブランコやアクロバットもこなす花形座員、高原謙慈氏は述懐する。

「最初は、婦人用自転車に乗って鉄球籠のなかを真横になって、水平にぐるぐる走り続けます。ずーっと左カーブで、漕いで、漕いで、漕ぎまくる。これがシンドイ。20周も回ったら、目まいで、酔って、嘔吐します。疲労困憊で気持ちが悪い。それを1カ月ぐらい毎日やって、吐いて、吐いて、吐きまくる(笑)」

そのうちに独特の感覚がじわじわと芽吹いてくる。

「酔ってふらふらになっているうちに、だんだん鉄球籠の扉とか、網目とかが、ふっと見えるようになってくる。疾走中に籠のなかにつけた番号が読み取れて、安全に止まれるようになったら、バイクに乗りかえて、タテ回りを入れます。最近は、本番中にバイクで走りながら、鉄球籠の網のわずかな破れ目が見えるようになりました。破れ目が内側に折れたら事故の元なので演技後に修復しています」

高原氏は、妻と2人の息子とコンテナハウスで暮らし、テントとともに移動している。ずっと家族一緒でいたいが、3年後、長男が中学に上がれば妻子は神奈川県内の家に移る。父は単身赴任でサーカスを続ける予定だ。命がけのショーのまばゆい光と、舞台裏の営業の奮闘が木下サーカスという大家族的共同体を支えている。