純丘曜彰 教授博士 / 大阪芸術大学

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いまから百年前、ソシュールが行った言語学の講義が、言語学はもちろん、その後の世界の思潮全体を大きく揺るがした。この講義は、「一般」言語学。つまり、日本語とか、ドイツ語とか、特定の言語についての話ではない。すべての言語に共通する一般言語学などというものがある、ということこそ、彼の大発見だった。

同じ黄色を表す言葉でも、英語で「yellow」、ドイツ語で「gerb」、フランス語では「jaune」と、音としてもぜんぜん似ていない。だから、当然、別の言葉と思われていた。ところが、ソシュールは、黄色を何と呼ぶかは、たんなる〈記号(シーニュ)〉で、国によって任意だが、その根底には〈言語(ラング)〉という、もっと抽象的な、人類共通の「一般言語」の構造がある、と言い出した。それは、[赤/黄/青]のような区別の体系で、同じように区別さえできれば、記号は何でもかまわない、と言う。

記号が違っても、構造は同じ。この発想は、言語学以外のさまざまな分野に新たなひらめきを与えた。たとえば、いくら見た目は現代的になっても、ブランド信仰だの、パワースポットだの、先進国の人々もまた、「未開国」の人々と同じような迷信的文化構造を大きくひきずっていることが明らかにされた。

とくに衝撃を受けたのが哲学で、それまで物事をしっかり観察し精査すれば、その本質を見極められる、としてきたのだが、この《構造主義》の考え方によって、それが何であるかは、それ自体ではなく、我々が文化的にどう位置づけるか次第だ、となると、いくら観察して精査してもわかるわけがない。つまり、それがそれであるのは、それがそれであるからではなく、それがそれであるとしているからにすぎない。たとえば、王子が王子なのは、他の国民より優秀だからではなく、ただ王の子だからだけで、バカでもハダカでも王子は王子。

存在が本質を持たない、外から任意に付与されているだけ、ということは、じつは、さらに百年前のフランス革命の時代から、ヘーゲルが言い出していた。彼によれば、真に実在するのは世界理性であって、それが自分の思いつきを試すために、適当な者をその依り代にしているだけ。たとえば、たとえあのナポレオンがいなくても、革命の精神は、別の者をナポレオンに仕立てて、同じことをさせただろう、と彼は言う。

しかし、だからこそ、ヘーゲルに抗して、19世紀のキルケゴールやニーチェなどは、そういう世界理性の押しつけに負けるな、自分が何であるかは、この自分の存在、なにものでもなく、なにものにもなれる実存こそが決めるべきだ、と、《実存主義》を提唱してきた。ところが、ソシュールと同じころ、フッサールは、デカルトやカントに加え、実存主義をも取り込んで、そう、まさに我々こそが、何が何であるか、かってに決めているのだ、対象の側に本質は無い、という《現象学》を打ち立て、構造主義に合流してしまう。

この構造主義は、論理学と結びついて、いまのAIの先駆、《論理実証主義》となる。すなわち、我々の知識の本質は、どの国の言葉でもない一般言語的な命題の体系であり、その周縁部の命題([○○である/でない]というデータ)だけが現実に接していて、それらの真偽だけを経験で確かめれば、後は論理計算ですべての知識の真偽が決まる、という発想。

この急先鋒だったのが、ヴィットゲンシュタイン。ところが、戦後、彼は、この論理実証主義、というより、構造主義そのものに疑念を呈する。すべての知識、すべての言語などというものが、いったいどこにあるのか。我々が実際にやっていることは、もっと違うのではないか。言葉など、かけ声の一種で、相手になにか行いを促すだけ。うまくいけば、それでいい。この実際の〈言語ゲーム〉に、意味だの、構造だの、出る幕は無い。規則ですら、判断が分かれて揉めたときだけに、必要な条項を引っ張り出すのみで、ふだんの我々の活動の「中」に隠れていたりしない。

デリダをはじめとするポスト構造主義は、さらに根本的な構造主義の欠陥に気づいた。構造主義は区別の体系で、同じ枠組で捉えられることで〈同じ〉とされる。ところが、同じものは、言語ゲームの累積展開の中で、絶対に同じ枠組にならないのだ。たとえば、ヒットラーと同じ演説をチャップリンがやっても、チャップリンは絶対にヒットラーにはならない。それどころか、意味が茶番に変わってしまう。というのも、あえてわざわざ同じことをやる、ということが、まさに、最初のこととは違うからだ。このように、同じはずものが、同じせいで、かえってズレて別様になってしまうのを、「差延」と言う。

ここでまた、キルケゴールやニーチェの実存主義が着目した〈歴史的一回性〉の問題が、ふたたび文化人類学などをも捲き込んで、ぶり返す。同じことをやっても、もはや同じではありえない。それは、同じにしようとするがゆえに、同じではなくなってしまうのだ。オマージュ(継承創造)やエピゴーネン(劣化複製)、パロディ(皮肉模倣)やキャンプ(過剰による劣化)、コラージュ(つぎはぎ)やマッシュアップ(潰し素材)、シミュラークル(オリジナルのない複製)など、〈同じ〉であるはずが、作り替え(再開発、デコンストラクション)になってしまう。

戦うのための城が観光施設として再建され、古民家がスタイリッシュなカフェに改築される。古い着物が切り刻まれて奇妙なドレスに生まれ変わったり、優雅な和歌がただのカードゲームとして乱暴に叩き飛ばされたり、もうむちゃくちゃ。しかし、歴史とは、そういうものだ。ほとんどすべてのものが、大衆受けするわけのわからない方へ劣化し続け、増え続ける。

仕事や事業も同じ。同じことをやっていることからして、もう同じではない。それは、ただの惰性であり、劣化であり、茶番だ。人も会社も、実際は、去年のまま、昨日のままではありえない。にもかかわらず、変わり映えがしないのなら、落ちぶれていっている。同じ枠組に留まっていると思っていても、そんな枠組など、とっくに改編されてしまっている。

しかし、たいていのことはやり尽くした。なにをやっても、もはや新しい余地など無い、と嘆くなかれ。あえて新しいものを求めるのは、むしろ古いものに心を支配されていることにほかならない。大切なのは、言語ゲーム、相手との、顧客とのコミュニケーションだ。時代に応じて、うまくいけばいい。そのために使えるものなら、古いものでも、再生したものでも、なんでもかまわない。たしかに、我々は歴史の呪縛から逃れられない。だが、それは、我々は歴史の恩恵を利用できる、ということでもある。それこそが、歴史を作り、文化を継いでいくこと。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka. 大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門は哲学、メディア文化論。最近の活動に 純丘先生の1分哲学、『百朝一考:第一巻・第二巻』などがある。)