人はいつだって、恋できる。

だが振り返ったときにふと思うのだ。

あのときの身を焦がすような激しい感情を味わうことは、もうないのかもしれない。あれが「最後の恋」だったのかもしれない、と。

それは人生最高の恋だったかもしれないし、思い出したくもない最低な恋だったかもしれない。

あなたは「最後の恋」を、すでに経験しているだろうか…?

この連載では、東京に住む男女の「最後の恋」を、東京カレンダーで小説を描くライター陣が1話読み切りでお送りする―。

先週は、外銀男・悠の話を紹介した。

今回は、そんな悠を捨てた由梨子の、その後の物語。




「由梨子ちゃんのこと、あの頃本当は、好きだったんだよ」

“彼”からそう耳打ちされたとき、今まで知らなかった感覚が私の全身を駆け巡った。心臓がトクトクと脈打ち始め、全身に熱い血が一気に流れ出す。そんな不思議な感覚だったー。



それは、今から5年前。

当時37歳だった私は、結婚して2年目になる夫と、高輪のマンションに二人で暮らしていた。

5歳年上で、中小企業を経営する進次郎は、私にとってまさに理想の夫だ。温厚な性格で、豊かな暮らしを与えてくれる経済力を持ち、私のことを深く愛している。

だからこそ私は、それまでの青春の延長のような恋愛関係にピリオドを打ち、進次郎を結婚相手に選んだのだ。

彼に対して、熱く燃え上がるような感情もなければ、ときめきもない。ただ、彼の隣にいると、なんとも言えない安心感に包まれ、とにかく居心地が良い。

それにー。

どんなに身を焦がすような恋も、一時の感情に過ぎない。

時が経ってしまえば、愛を誓い合った二人の関係は形を変え、ともに人生を歩む同志のような存在になる。夫婦とは、そういうものだ。

そう信じていたから、私は進次郎との夫婦生活に、心から満足していたはずだった。

それなのにどうして私は、あの時、過ちを犯しかけたのか。

5年経った今、心の底から後悔している。

あの日、あの場所にさえ行かなければ、きっとこんな風に、取り返しのつかない結果を招くことはなかったのに。


夫以外の男に、次第に心を奪われていく…。


それは、大学時代に所属していた、映画研究会の同窓会での出来事だった。

2歳上の先輩・博己は、当時私が密かに思いを寄せていた相手だ。だけどあの時は、親友から彼を好きだと相談されて、私は身を引いたのだった。

長身で顔が整っている彼は、卒業して15年経った今も変わらずステキだが、当時よりもさらにその魅力は増していた。

年相応の目尻の小さなしわも、少しこけた頬も、大人の男特有の渋さとなって、学生の頃には決してなかった色気を放っている。

「由梨子ちゃんのこと、あの頃、好きだったんだよ。ずっと君に、会いたかったんだ」

色っぽい眼差しで私を見つめる彼は、今も独身のままだった。そのとき私は初めて、自分が結婚してしまったことを後悔したのだ。

本当の恋を知らずに結婚した女がそれを知ってしまったときこそ、厄介なのかもしれない。

-彼が私の、運命の相手だったのかも。

気付いたときにはもう、その思いを止めることは出来なかった。その夜から私の頭の中は、博己のことで一杯になっていったのだ。




「僕ははじめて由梨ちゃんに会ったとき、まるで稲妻に打たれたみたいに恋に落ちたんだ」

夫は、シモンズのキングサイズベッドの上でいつものように私を抱き寄せ、2年も前の出来事をまるで昨日のことみたいに語る。

「進次郎さん、その話、何度目?もう聞き飽きたよ。ずっと昔の話じゃない」

これまでだったら子守唄のように心地よく耳に響くエピソードも、今の私には鬱陶しいだけ。

それどころか、私を優しく包むふかふかした体も、ちょっと前まではくまのプーさんみたいで愛しいと思えたのに、今では、加齢に身を任せた男のだらしないものにしか見えなかった。

そして私は、夫とは対照的に若々しい身体つきを保っている博己に思いを馳せる。

あの日、博己から“また会いたい”と言われたとき、高鳴る気持ちを制して断ってしまったことを、何よりも後悔していた。

-彼に、会いたい。

夫と夕飯を食べていても、ソファに並んでテレビを見ていても、彼に抱かれているときでさえも。

私の頭の中にいるのは、夫ではないのだ。



「ねえ、由梨ちゃん。今の話、聞いてた?」

「えっ。ごめん、進次郎さん。なんの話だったっけ…」

翌日から1週間のジャカルタ出張に行くという夫と、広尾のメキシコ料理店『サルシータ』でディナーをしながら、私は完全に上の空だった。

なぜなら、私はついに“決行”を決めたのだ。

夫の出張中に、博己に会いに行く。

「由梨ちゃん、最近僕の話、全然聞いてくれないね…」

寂しそうにつぶやく夫を見ていたら、ちくりと罪悪感が胸をさした。そういえばここ最近、夫はいつも何かを話したそうにしていた。

「大げさだなあ。どうせ、いつものオチのない話でしょ?ほら、冷めないうちに食べよう。進次郎さんの大好きなエンチラーダだよ」

そう言って誤魔化すと、私はとびきりの作り笑いを夫に向けるのだった。


ついに秘めた思いを行動に移すことを決めた妻。しかし、事件が起こる




夫が出張に出かけて3日目の夜。

私と博己は、ホテルの高層階にあるバーで会った。

相変わらず彼は、私を熱い視線で見つめていた。

「どうしてあの時、君を諦めてしまったんだろうって、ずっと後悔してたんだ…」

頭がぼうっとして、胸がきゅっと痛くなる。この気持ちを、人は恋と呼ぶのだろうか。

「私、あなたのことが好き…」

ふと、そんな言葉を口走っていた。そして私たちは、ゆっくりと唇を重ねたのだった。

博己は朝まで一緒にいたいと言ったけれど、私は首を横にふった。

「深い仲になるのは、きちんとケジメをつけてからにしたい。もう少しだけ、私に時間をくれるよね…?」

博己は 「君を信じて、待ってる…」と囁くと、痛いほどに強く私を抱きしめる。

翌日私は区役所に走り、離婚届を手に入れた。進次郎が帰国したら、離婚したいと伝えるのだ。

そして私は、博己との未来を思い描き、その想像に酔いしれて、夫の帰国を待ちわびた。

しかし、夫は帰ってこなかった。



はじめは、仕事かフライトに何かトラブルがあったのだろうと、のんきに構えていた。

ところが、帰国予定日から1日が過ぎても、夫からは何の連絡もなかった。電話をかけてもつながらず、LINEをしても読んだ形跡がない。

怪訝に思って会社の秘書の女性に電話をしたが、彼女も連絡がつかず途方にくれており、宿泊しているはずのホテルに問い合わせると、チェックアウトしたと言われたらしい。

次第に私は、不安に襲われ始めた。

テレビのニュースが流れると、インドネシアで事件があったと報道されるのではないかビクビクする。勇気を出してネットニュースも検索したが、何の情報も得られなかった。

3日待って、進次郎の両親に連絡をしたところ、はじめは彼らも本気で取り合わなかった。ご両親曰く、進次郎は若い頃にもバックパッカーとして色んな国を巡っており、連絡がつかなくなることなんてしょっちゅうだった。もう少し気長に待ってみようと諭されたのだ。

しかし、5日経っても状況が変わらなかったので、ご両親もついに心配になったようだ。事故にあったのではないかとか、拉致されたのではないかとか、最悪の可能性を話し合い、翌朝になったら現地の大使館に届けることにしたのである。

ところがその日のうちに、進次郎から一通のメールが届いた。

そこにはたった一行、

「必ず帰るから、心配しないで」

と書かれていた。

彼が無事でいることにほっとして涙が溢れ、慌てて返信を打つ。

『どこにいるの?事件に巻き込まれているわけじゃないよね?電話できる?』

だけど返信はなく、翌日も翌々日も、何日経っても彼は帰ってこなかった。

やっぱり、大使館に連絡すべきなのかもしれない。そう思い立った矢先、彼の秘書から妙なことを聞いた。

不在中の業務に関して、彼から何通かのメールがあったというのだ。

おそらく進次郎は、自分の意志で滞在を延ばしているー。

それから数日間は、ただひたすら待つだけの日々が続いた。

だだっ広いベッドの左側で、ひとりきりで眠っていると、悪夢や金縛りに襲われる。その夢は大抵、進次郎が事故にあうものなど、ネガティブな内容ばかりだ。

私は目覚めるたびに夢だということに安堵し、ぽっかりと空いたベッドの右側を見つめながら涙を流す。

その頃には、あれほど夢中になっていた博己のことなんてすっかりどうでもよくなっていて、もう会いたいとさえ思わなかった。

それよりも、進次郎が無事に帰ってきてくれさえすれば、他には何もいらない。彼がいない人生なんて、考えられない。彼を、絶対に失いたくない…。

そのとき私ははたと気づいたのだ。

たとえ胸を焦がすような恋でなくても、一切のときめきがなくても、私は自分でも気づかないほど、彼を深く深く愛しているのだと。

そして、彼を探しに行くため、ジャカルタ行きの航空券を購入した。

彼がひょっこりと帰ってきたのは、私がジャカルタに旅立とうとした日の朝のこと。出発から、20日が経っていた。


進次郎が姿を消していた理由とは…?


あの日、すっかり痩せ細った姿で、進次郎は言った。

「向こうにいたら、何もかもが嫌になって、全てを捨てて一人になりたくなったんだ。ジャカルタを出て、小さな島にいた。だけど、由梨ちゃんの顔を思い浮かべたら、やっぱり帰らなきゃって思って…」

そして彼は、私の前で初めて涙を見せた。「由梨ちゃん、ごめんね」と何度も言いながら、子供みたいに私にすがりつき、むせび泣いたのだった。



その後、進次郎は心療内科で軽度の鬱病だと診断された。

出張の一ヶ月前、進次郎が誰よりも信頼していた部下に横領され、逃げられたショックが引き金になったらしい。

そのとき私は、全ては妻である私の責任だと、自分を強く責めた。

これは、夫の悩みにも気づかないで、彼を支えず他の男にうつつを抜かした妻への報いなのだ。

それから私は心を入れ替えた。夫に全てを捧げることを決意し、それまで勤めていたwebデザインの会社を辞め、専業主婦として彼を支えることにした。

そうして5年間、私は進次郎のためだけに生きてきた。

進次郎の精神状態もすっかり安定し、私たちの夫婦仲はとてもよい。

彼が涙を見せたのは、あの帰国の日が最初で最後だ。

あの悪夢のような20日間が過ぎたあと、大きな変化はないが、少しだけ変わったことがある。進次郎が、ときおり何かをぼんやり考え込むことが多くなったのと、彼が私に対して以前よりもさらに優しくなったことだ。

よく巷では、男が優しくなるときは浮気をしているときだと言われる。思わず彼の浮気を疑ったけれど、その様子は一切見られず、むしろ前よりも家にいる時間が増えた。

だけどひとつだけ、気がかりなことがある。

彼の書斎を掃除しているときに、鍵のかかった引き出しを見つけたのだ。私とのツーショット写真がずらりと飾られたデスクの、一番右上の引き出し。そこだけなぜか、鍵がかかったまま開かない。




今日は、進次郎が出張から帰ってくる日だ。

相変わらず年に数回は海外出張に行くけれど、1週間という長い出張は久しぶりだった。

彼が出張から戻る日には必ず、私は腕によりをかけて、豪勢な料理を作る。今日は、彼の大好物のローストチキンだ。

家に帰宅する時間を見越して、オーブンのタイマーをセットする。

『そろそろ空港に着いた?おかえりなさい!』

フライトの到着時間を30分過ぎているが、LINEは既読にならなかった。飛行機が遅れているのだろうか。

夕飯の下ごしらえを済ませた私は、手持ち無沙汰になって進次郎の書斎を掃除することにした。そうすると彼は、いつも喜んでくれるのだ。

デスクの埃をはたいて、ふと目が止まった。いつも鍵のかかっているはずの引き出しが、数センチだけ開いている。

そっと引き出しを開けると、中には1通の封筒が入っていた。

差出人の欄には「Miho」とボールペンで書かれている。私はおそるおそる、封筒から一枚の便箋を取り出した。

「進次郎

私のワガママを聞いて、帰国を延ばしてくれてありがとう。

2週間前、私たちが出会った瞬間を覚えてる?

ジャカルタのホテルのバーで、あなたと目が合ったとき。まるでずっと昔から探していた人にようやく出会えたような、おかしな気分になった。私たちが出会うのは、これが初めてだったというのに。

ジャカルタを出て、小さな島で、あなたと深く愛し合ったこの2週間、私は本当に幸せだったの。

私の腕の中であなたは、何もかも、さらけ出してくれたね。奥様にも受け止めてもらえなかったという苦しみを、すべて吐き出してくれるあなたのことが、愛しくてたまらなかった。

そして、最後にあなたが私に言ってくれた言葉を、私は生涯忘れることはないでしょう。

“君が僕にとって、最後の恋の相手だ”と言ってくれた、あなたの言葉を胸に、私はこれからも生きて行く。

だけどね、もしその気持ちが変わっていないのなら、5年後の今日、同じ場所で、あなたを待ってる。

私たち、今度こそお互いに全てを捨てて、二人だけで生きていこう。

2014.1.14 ミホ」

手紙を読み終えた私は、震える手でスマホを掴み、画面を見る。

2019年、1月14日。

時刻は、夫の帰宅予定時刻をとうに過ぎている。LINEは、未読のままだ。

ふらつく足で書斎から出ると、焼き上がったローストチキンの香ばしい香りが、家中に立ち込めていた。

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進次郎の恋の相手・ミホ。ミホにとって、最後の恋とは?