手賀沼の水質改善は我孫子市にとっても重要な行政課題になっている(筆者撮影)

千葉県浦安市の東京ディズニーランドは、昨年開園35周年を迎えた。その長い歴史の中で、2001年には東京ディズニーシーを新たに開園。さらに、2020年に向けて新エリアの開園も予定されている。規模拡大を続ける東京ディズニーリゾートは、国内テーマパークナンバーワンの名をほしいままにしている。

同年、東京ディズニーリゾートの外周を走る舞浜リゾートラインを開業させている。

舞浜リゾートラインの車掌はガイドキャスト、駅員はステーションキャストと呼ばれる。

【2019年1月10日14時20分追記】初出時、舞浜リゾートラインのキャストにかかわる記述に誤りがありましたので上記のように修正しました。

東京ディズニーリゾートは、京成の沿線にあるとは言いがたい。それなのに京成と関わりが深いのは、京成電鉄社長だった川崎千春が東京ディズニーランドの誘致に尽力したことが理由のひとつにある。

当初の候補地は手賀沼だった

1958年に渡米した川崎は、そこでディズニーランドを目にした。帰国後、すぐに誘致の交渉を始めた川崎だったが、交渉は難航した。

このときに川崎が誘致に動いた場所は、浦安ではなかった。東京ディズニーリゾートのある舞浜地区は、1975年に埋め立てを完了した。つまり、川崎が交渉をしていたとき、まだ当地は姿形さえなかった。

川崎が誘致を想定していたのは、千葉県の手賀沼一帯だった。具体的な市町村名で記すと、我孫子町(1970年から我孫子市)・柏市・沼南町(2005年に柏市と合併)の3市町にまたがる広大なエリアだ。

手賀沼ディズニーランド計画と銘打たれた一大プロジェクトは、1959年にドイツ・ミュンヘンIOC総会で東京五輪開催が決定したことで熱を帯びていく。

手賀沼ディズニーランドを開園させるために、官民一体となった全日本観光開発が設立された。同社は京成のみならず千葉県、東武鉄道、後楽園スタヂアムなどが出資し、会長には前・東京都知事だった安井誠一郎が、社長には東京都競馬会長だった米本卯吉が就任した。

手賀沼ディズニーランド計画を最も歓迎したのは、我孫子だった。その歓迎ぶりはすさまじく、「広報あびこ」の1961年1月号では見開き2ページを割いて手賀沼ディズニーランド計画を紹介している。


「広報あびこ」に掲載された手賀沼ディズニーランドの計画図。現在、同地は手賀沼公園や住宅地が整備されたほか、県立我孫子高校が開校している(画像:「広報あびこ」1961年1月号より)

同紙が発行されたときは、まだ誘致の段階。正式決定前にもかかわらず、行政当局が広報紙を使って大々的に構想を住民に告知したのだ。その様子からも、我孫子がいかに手賀沼ディズニーランドを熱望していたかがうかがえるだろう。

我孫子が手賀沼ディズニー計画に熱を入れていたのは、なぜか。それは日本鉄道土浦線(現・JR常磐線)が1896年に駅を設置して以来、我孫子は手賀沼とともに観光都市、もっと詳しく言えば高級別荘地として発展してきたことと関係がある。

手賀沼周辺は別荘地に

江戸期、我孫子は水戸街道の宿場町としてにぎわった。明治に入って土浦線の建設が始まると、我孫子は積極的に駅用地を提供する。駅開設に尽力した飯泉喜雄は、その功績を称えられる人物だが、我孫子駅が開設された当時は地主の1人にすぎなかった。後年、そのリーダーシップが花開き、飯泉は町長を務めた。

土浦線開業後の1901年には、成田鉄道(現・JR成田線)が開業。我孫子駅は日本鉄道と成田鉄道の分岐点となり、大いににぎわうことになる。農村地帯だった千葉県・茨城県は東京と直結。土浦線には、朝採れた野菜を東京で売り歩く行商人が目立つようになった。特に、関東大震災で東京が壊滅状態になると、被害が軽微だった千葉・茨城から多くの行商人が野菜を売るために列車に乗った。

また、昭和に入ると、立て続けに恐慌が発生。日本経済は大混乱に陥った。国際都市として経済発展を続けていた東京は物価が高騰。満足に食糧が手に入らなくなった。こうした東京の食糧危機を救ったのが、千葉・茨城の行商人だった。数多くの行商人が東京に東京と茨城を行き来し、常磐線や京成線では専用列車が運行されるほどの盛況ぶりを見せた。

その土浦線の開業が我孫子に大きな変化を起こした。東京から約1時間という好アクセスに加え手賀沼という水辺空間があることから、富裕層が次々と別荘地を構えたことだった。

我孫子駅から南側に約800mといった至近距離に、広大な手賀沼がある。この手賀沼の水辺空間と緑豊かな自然環境が、リゾート地・我孫子の人気を押し上げた。

手賀沼周辺には、当時としては珍しいゴルフ場も整備された。手賀沼で釣りやゴルフもプレーできる我孫子には、休日になると常磐線に乗って東京から多くの行楽客が押し寄せるようになった。

古都・鎌倉と肩を並べるほどの都市に成長した我孫子だったが、その人気は戦後から雲行きが怪しくなっていく。手賀沼の水質が急速に悪化し、とてもリゾート地にふさわしいとは言えない環境になっていたからだ。


東洋経済オンライン「鉄道最前線」は、鉄道にまつわるホットなニュースをタイムリーに配信! 記事一覧はこちら。

そこで、役場は起死回生策として手賀沼にモーターボートレース場の建設を発案する。

当時、公営競技は右肩上がりに売り上げを伸ばしており、その収益は地方自治体財政に大きく貢献していた。競艇場の建設は、観光振興と財政への貢献という2つの利点から推進された。

しかし、競艇場を開設すれば、治安悪化は避けられない。出入りする人たちによるゴミ問題も深刻になる。手賀沼のさらなる水質悪化を招く懸念もあった。住民の間には反対意見も根強く、手賀沼の競艇場建設は我孫子を二分する争いに発展した。

この争いは、町長選に反対派が勝利したことで終息する。当然ながら、競艇場建設も撤回された。

起工式も実施されたが…

競艇場建設が撤回されたとはいえ、我孫子の衰退を食い止める策を講じなければならない。町役場は、新たな我孫子振興策として東京五輪のボート競技会場として手賀沼を使用してもらおうと働きかけた。しかし、これはあっけなく戸田に敗れる。

こうして、我孫子振興と手賀沼の活用策は暗礁に乗り上げた。そんな折、冒頭の手賀沼ディズニーランド計画が浮上した。

我孫子にとって、手賀沼ディズニーランド計画は渡りに船だった。開発を担当する全日本観光開発会長に前・東京都知事の安井誠一郎を据えた背景には、政治力を取り込むことだった。これまで不可侵とされてきた手賀沼の埋め立て工事は、政治力をもって可能にした。

また、遊園地経営のノウハウを得るために、全国各地で遊園地を経営していた後楽園スタヂアム社長の真鍋八千代も取締役に加えた。計画に前のめりになっていた町役場は、早々と「広報あびこ」で手賀沼ディズニーランド計画を詳報。それから1年半後には、手賀沼の畔にある公園で起工式が実施された。もはや、手賀沼一帯にディズニーランドが開園することを疑う関係者は皆無だった。

順風満帆だった手賀沼ディズニーランド計画は、起工式からわずか半年後の1963年初頭から一転。瓦解を始める。

全日本観光開発の経営は行き詰まっており、手賀沼を大規模開発できる運転資金はなくなっていた。工事は進まず、当初オープン予定にしていた1964年には間に合わない。

遅々として進まない工事から、地元自治体の我孫子町と沼南町は全日本観光開発の経営悪化を察知した。そして、開発を進めない全日本観光開発に不信感を芽生えさせていく。

地元自治体からの疑念を払拭するべく、全日本観光開発は社長を交代させた。新社長は、朝日土地興業の丹沢善利だった。朝日土地興業は、総合レジャー施設の船橋ヘルスセンターを経営する都市開発会社で、朝日土地興業社長を新社長に就任させたことで手賀沼ディズニーランドの開発意欲があること我孫子・沼南に示そうとした。

しかし、丹沢は武州鉄道事件・虎ノ門公園跡地払い下げ事件・吹原産業事件といった政財界の汚職に次々と巻き込まれて、身動きが取れない状態だった。

こうしたトラブルに加え、手賀沼の水質悪化がトドメを刺す。手賀沼ディズニーランド問題は千葉県議会でも議論された。手賀沼の水質悪化により、遊園地としてふさわしい土地ではないとの結論を出し、千葉県は建設予定地を宅地転換することを早々に決定。こうして、手賀沼ディズニーランド計画は終焉を迎える。

手賀沼に代わる候補地は?

手賀沼ディズニーランド計画の破綻後、夢を諦めきれなかった京成・三井不動産・朝日土地興業の3者は、改めて東京ディズニーランドの候補地探しに奔走した。

3者による新プロジェクトは、手賀沼ディズニーランドとは別のプロジェクトになった。そうした経緯もあり、新プロジェクトでの顔ぶれは手賀沼ディズニーランドとは異なる。


東京ディズニーランド開園時、まだ京葉線は開業していなかった(写真:tarousite / PIXTA)

新たなプロジェクトでは、富士山付近をはじめ複数の候補地が挙がったが、我孫子のように公的機関が発行する広報紙で大々的に事前告知されることはなかった。最終的に、ディズニーランドの建設は千葉県浦安の埋立地に決まった。そして、手賀沼ディズニーランド計画の破綻から約20年の歳月を経て、1983年にめでたく東京ディズニーランドが開園する。

現在、東京ディズニーリゾートの最寄り駅は、舞浜駅となっている。東京ディズニーランドの開園時には、まだ京葉線は建設すらされていない。オリエンタルランドの株主でもある京成はアクセス路線を計画したが、実現しなかった。

他方、手賀沼ディズニーランド計画が消滅した後も、手賀沼の水質は悪化の一途だった。その最大の理由は、高度経済成長期に常磐線沿線および周囲の自治体が宅地化したことだった。

我孫子にも大規模団地が次々と建設されて、人口は増加。それに伴い、1970(昭和45)年には我孫子が市に昇格している。

人口増加は常磐線にも大きな影響を及ぼした。市制施行の翌年、我孫子駅の約2.7km東側に天王台駅が新設された。これは、人口増加に伴って多くの市民が東京方面へと通勤するようになっていたからだ。

1971年には千代田線が綾瀬駅まで延伸し、常磐線との相互乗り入れが開始。我孫子駅から霞ヶ関駅まで直通できるようになった。鉄道網が整備されたことで、我孫子はベッドタウンとしての趣をいっそう濃くした。

我孫子が都市化するだけでも手賀沼へのダメージは避けられなかったが、それ以上に手賀沼の水質悪化の原因とされたのが周辺市町村の人口増だった。

別荘地として整備されてきた大正期は雨水と汚水を別々の導管で処理する分流式という下水システムが導入されたが、高度成長期に建設が進んだ新興住宅エリアでは合流式で建設された。合流式は、雨水も汚水もひとつの導管で処理する。工費も安価で工期も短いが、ひとたび雨が降ると、すぐに処理能力を超えてしまう。限界に達した汚水は、未処理のまま河川に放出せざるを得ない。汚水が河川に垂れ流されれば、当然ながら手賀沼の水質は悪化する。

我孫子駅の重要性は高まったが…

合流式で整備された下水道から排出された汚水は、手賀沼を容赦なく汚染した。1974年、手賀沼は日本で最も水質汚染された湖沼という不名誉な称号を与えられた。

それから40年以上が経過し、2015年に上野東京ラインが開業。ダイヤ改正で常磐線は品川駅まで乗り入れるようになった。同じく、上野東京ラインの開業によるダイヤ改正によって、土日の臨時列車という扱いながら我孫子駅を始発駅とする特急「踊り子」の運行も開始された。常磐線の品川駅延伸によって我孫子駅の重要性は高まった。


市民の意識改革を促すため手賀沼の水質情報が駅に掲出されているが、気に留める人は少ない(筆者撮影)

朝夕の我孫子駅は多くの利用者でごった返す。こうした我孫子の発展は、手賀沼あってこそだが、その水質は一向に改善する気配を見せない。我孫子市には手賀沼課という専門部署まであり、水質改善への並々ならぬ意気込みを感じさせる。

我孫子にとって手賀沼は発展の礎でもあり、かけがえのない財産でもあり、市民のアイデンティティーでもある。ゆえに、市を挙げて手賀沼の水質改善に取り組んでいるが、思うような成果は出せていない。市は手賀沼の水質状況を知らせる張り紙を我孫子駅に掲出し、手賀沼の様子を市民に報告を続けている。残念ながら、それを気に留める人は少ない。(文中敬称略)