松竹伸幸(ジャーナリスト、編集者)

 百田尚樹氏の新著『日本国紀』を、私は発売当初から読みたいと思ってきた。ただ話題になっているからではない。編集者の一人として、また歴史に関する著作のあるジャーナリストとして、一個人の手になる日本通史の描き方に大いに関心を持っていたからである。

 私が青春を過ごした1970年代は、マルクス主義と史的唯物論の影響を受けた「戦後歴史学」が影響力を持っていた時代である。日本通史についても、井上清の『日本の歴史』(上中下巻・岩波新書)などが幅を利かしていた。それは誤解を恐れずに言えば、国家権力に対する民衆の闘いが歴史を変革してきたという立場のものであり、現在の資本主義社会も永遠ではないことを教えようとするものであった。

 そのような「歴史観」が全面に出る歴史学のあり方には、内外から批判と反省もあり、歴史の描き方を巡る模索があった。しかし、ソ連の崩壊により、資本主義が社会主義に変わるという史的唯物論の根幹が挑戦を受けたことをきっかけとして、戦後歴史学は衰退していく。

 それでも、90年代半ばまでは、網野善彦『日本社会の歴史』(上中下巻・岩波新書)に見られるように、一人が日本通史を描く試みは続いていたのである。この本は「奴隷制社会、封建社会、資本主義社会などの(中略)社会構成の概念だけで、人類社会のきわめて多様なあり方をとらえうるかが、事実そのものの力によって問われている」(下巻「あとがき」)として、史的唯物論をそのまま日本社会に適用する態度に対して、批判する立場を明確にしている。それでも、史的唯物論に代わって、「事実そのものの力」を持って通史を描こうという問題意識が貫かれていた。

 しかし、その後の歴史学は、網野の問いかけを受け止め、発展させるようなことがなかったように思う。歴史観や歴史の全体像にも関心を持っていた歴史学者も少なくないであろう。だが、発表された著作を見れば分かるように、自分の専門分野を深く掘り下げる仕事に集中していった。

 こうして、歴史は「暗記物」となって、若者の関心も薄れていくことになる。「歴史観」が表れていたのは、明治以降の日本の戦争をどう捉えるかの分野に限られ、侵略と植民地支配の責任に関する歴史観も一定の方向性に保たれていた。

 そこに現れたのが、99年に刊行された西尾幹二氏の『国民の歴史』に代表される、戦後初めて登場した右派による通史であった。もともと、ドイツの文学・思想の研究者である西尾氏の著作であったから、日本史学の到達を踏まえたものではなく、学問的には大きな批判を浴びたが、国民の間では一定の支持を集める。

 歴史学の全体が日本の戦争責任の解明に集まる中で、「日本の歴史は誇っていいものだ」という呼びかけには、それなりに国民の心に響くところがあったのであろう。その後も、学問の世界においては引き続き真面目な成果が出ているが、国民の間ではいわゆる「歴史修正主義」が跋扈(ばっこ)する状況が続いてきた。

 そのころから、私は編集者として、ある歴史観を持って日本の通史を描く著作を刊行したいと考え、多数の歴史学者に接近していった。それを通じていくつかの著作が生まれたが、どれも複数の著者によるものだ。

 特定の強烈な歴史観で日本通史を描くとなると、やはり一人で挑戦することが不可欠だと考えて働きかけてもいるが、まだ実ってはいない。いっそのこと、学者ではない人に依頼するしかないかとも悩んでいる。

 百田氏の『日本国紀』は、そういう私の模索の過程で登場したものだ。もちろん、西尾氏から続く右派の通史であり、立場が異なることは承知している。

 しかし、歴史の「素人」であっても通史を書こうとするわけだから、歴史学の成果をわが物にしようと努力したであろう。そして、それがどんな影響を百田氏に与えたかについては、同じく学者ではない人による通史の刊行も考えている私には関心がある。また、通史を書こうとするなら不可欠な問題意識というか、国民に何を問いかけようとするのかは、左右の立場の違いを超えて学ぶものがあるのではないかとも感じた。

 『日本国紀』を真剣に読んだのは、これらの理由からである。だから、正直に告白しておくと、読み進めてしばらくの間、『日本国紀』にある程度の期待を抱いていた。その結果はどうだっただろうか。

 最初に目に付いたのが、本の帯だった。「私たちは何者なのか─。」と大きく書かれていて、『日本国紀』全体を貫くテーマなのだと分かるが、その問題意識は悪くない。「2000年以上にわたる国民の歴史と激動にみちた国家の変遷を『一本の線』でつないだ、壮大なる叙事詩」(帯文)とあって、立場は違っても、日本人というものを「一本の線」で描くという百田氏の意欲が伝わってくる。

 そして早速、弥生時代の記述の個所で、「私たちは何者なのか─。」の萌芽(ほうが)が出ている。『魏志』の記述を引用する形で、「私たちの祖先が、他人のものを盗んだり、他人と争ったりしない民族であったということを、心から嬉しく思うのである」と書かれているのだ。

 常日頃、百田氏がインターネット上で、立場の違う人に対する激しい批判を見ているだけに、この記述について言葉は悪いが「お前が言うか」と思わざるを得ない。しかし、もしかしたら、百田氏はこの本の執筆を機に「他人と争ったりしない」方向に転換を試みているのかもしれない。また、「他人と争った」日本の近現代史に新たな見方が提示されている可能性もあるので、この時点で突っ込むことはせずに読み進めた。

 また、古代の話を読んでいると、歴史学の成果と無縁に書かれているというのでもないことが分かる。ただ、最初に違和感を覚えたのは「万世一系」の問題である。日本の皇室は神武天皇以来、同じ系統で面々と続いてきたという問題だ。

 たとえ後に「神武東征」に喩(たと)えられるような事実があったとしても、神武天皇が現実の存在ではなかったことも、現在の天皇家が神武天皇の系列ではないことも、歴史学の世界では常識に属することである。

 百田氏も、『日本国紀』を執筆するにあたって、歴史学の成果をそれなりに渉猟したのであろうから、そこには気づくことになる。継体天皇のことを記述する際、「歴史を見る際にはそうしたイデオロギーや情緒に囚(とら)われることは避けなければならない」として、次のように述べるのである。

 「だが、継体天皇の代で王朝が入れ替わったとするなら、むしろ納得がいく。(中略)現在、多くの学者が継体天皇の時に、皇位簒奪(本来、地位の継承資格がない者が、その地位を簒奪すること)が行われたのではないかと考えている。私も十中八九そうであろうと思う。つまり現皇室は継体天皇から始まった王朝ではないかと想像できるのだ」

 これは誰が見ても、日本の皇室は「万世一系」ではないということを意味している。百田氏の言葉を引用すると、現在の天皇家というのは「本来、地位の継承資格がない者が、その地位を簒奪」して誕生したということになる。ところが、百田氏はこの本の最後の最後まで、「日本は神話とともに誕生した国であり、万世一系の天皇を中心に成長した国であった」(「終章 平成」の冒頭部分)と、「万世一系」に固執しているのである。

 百田氏も、ただ無邪気に「万世一系」を唱えているわけではない。継体天皇が神武天皇の系列にないことを前提とした「万世一系」論を構築しているのである。

 継体天皇が新しい王朝を打ち立てたと宣言しなかったのは、その当時から「『天皇は万世一系でなければならない』という不文律があったから」だというのだ。つまり、神武天皇に値するような人がいたとして、別の実力者がその系列の王朝を打倒したとしても、「自分はその跡継ぎだ」と宣言するような思想があったから、「万世一系」であることに変わりはないというのが、百田氏の考え方なのである。

 そういう思想が当時に存在していたかは、素人の私には分からない。しかし、歴史の現実は「万世一系」ではないことを認めておきながら、なおかつ「万世一系」と言い張るのでは、少なくとも「歴史書の名に値するか」という問題が生じてくることは避けられない。百田氏は、神武天皇の系統は継体天皇で途絶えたこと、現在の天皇家は資格のなかったものが実力で地位を簒奪(さんだつ)したものであることを、堂々と明言すべきではなかろうか。

 『日本国紀』では、その後も日本人の素晴らしさについての記述が多い。しかも、百田氏の日本史の捉え方は、世界との対比で日本を際立たせようとするものだ。「世界的にも珍しい」「ヨーロッパや中国では」「世界に類を見ない」「世界を見渡しても」とあるように、「世界は劣っているが、日本は優れている」という論法なのである。

 それらの指摘の中には、事実が含まれるのかもしれない。しかし、世界190カ国の歴史を調べたことのない私には分からないし、百田氏が比較の基とした資料などが提示されるわけでもない。歴史をただ光に満ちたものとして描くことは、逆に現実から遊離することにならないだろうか。そういう制約があっては、歴史学の成果を踏まえた論考というより、政治的なテーゼ(命題)が提示されているだけと言われても仕方がない。

 テーゼは大事だが、それに縛られると真実が見えなくなってしまう。明治以降の日本の歴史の描き方についても、同様の感想を抱く。日本の優れた点がいろいろと書かれているが、「光だけでなく陰も合わせて見ようよ」と感じてしまう。この時代の戦争体験は、現在の日本と日本人、日本と周辺国の関係を直接にも規定するものだけに、リアルさが求められるのである。

 論点はたくさんあるが、一つに限る。百田氏の言う「大東亜戦争」のことである。百田氏は「日本が戦争への道を進まずに済む方法はなかったのか─。私たちが歴史を学ぶ理由は実はここにある」と述べているから、どんなことを学んだのかと思って読んだのだが、残念ながら、どこにもそれらしい記述は見当たらなかった。

 満州事変について言えば、「満州は古来、漢民族が実効支配したことは一度もない」と強調され、国際連盟が日本の撤退を求めたことを批判する。それに続く中国との全面戦争は「確固たる目的がないままに行われた戦争」とされている。「気がつけば全面的な戦いになっていた」というのである。

 他方、太平洋戦争のきっかけとなった「ハル・ノート」を論じる個所では、満州は当然のごとく中国の一部だと日本政府も考えており(満州事変の時は中国の一部でなかったはずなのに)、だから「日本が(中略)中国から全面撤退する」という要求が飲めなかったと指摘している。戦争に踏み切ったのは「ハル・ノート」を受け入れると、「欧米の植民地にされてしまうという恐怖」が生み出したもの、ということらしい。

東京・荻窪にあった近衛文麿の別邸「荻外荘」。現在は一部が公園として整備されている(松本健吾撮影)

 これでは「日本が戦争への道を進まずに済む方法」への示唆がどこにもない。唯一、それらしい個所があるとすると、それ以前の日清戦争を論じた次の記述であろう。

 「清から多額の賠償を得たことで、国民の間に『戦争は金になる』という間違った認識が広がった。その誤解と驕りが『日露戦争』以後の日本を誤った方向へと進ませた」

 「国民の間違った認識」が日本を誤らせたという論理である。そう言われると、太平洋戦争を論じた個所でも「日本はそれでもアメリカとの戦争を何とか回避しようと画策した」と、その「努力」のあれこれを列挙した上で、ここでも「国民の誤り」に言及する。

 「日本の新聞各紙は政府の弱腰を激しく非難した。満州事変以来、新聞では戦争を煽る記事や社説、あるいは兵士の勇ましい戦いぶりを報じる記事が紙面を賑わせていた。(中略)『日独伊三国同盟』を積極的に推したのも新聞社だった」

 国民や新聞社の戦争責任がないとは言わない。しかし、政府は戦争を回避しようとしたが、国民が煽ったから戦争になったというのでは「日本が戦争への道を進まずに済む方法」は見えてこないのではなかろうか。ただ、今の日本が戦争に突き進むことのないよう、百田氏も含む一部の保守論客や国民への自戒と捉えれば、意味のある指摘かもしれない。

 以上、『日本国紀』の問題点をあれこれ指摘してきた。それでも、ここまでは「当代一のストーリーテラー」(帯文)の面目躍如という要素もあったから、それなりに楽しく読み進むことができた。

 政治的立場やイデオロギーは違うことは分かっていたし、それでも百田氏がいろいろと努力して学んだ成果もうかがえ、もっと肯定的な論評にするはずだった。しかし、先の大戦後の叙述を読んだ後は「これは歴史書ではない。日本通史はこのように描かれてはならない」と結論づけるに至った。なぜか。

 『日本国紀』のそれまでの叙述では、日本人の素晴らしさが強調されてきた。これまで述べてきたように、そこには光だけを取り上げる行き過ぎもあり、他国を貶(おとし)める問題もあるのだが、立場の違いとして見過ごせる要素もあった。

 ところが、戦後の話になると、叙述の視点そのものが変わってくる。百田氏は「これほど書くのが辛い章はない」と述べるが、「読むのも辛い」ものとなっていく。

 どう変わるかと言えば、突然日本人が批判の対象とされるのだ。それまで日本の素晴らしさが強調されたのは、現在の日本人のあり方を糾弾するためにあったのだと、ここに来てようやく気づくことになる。百田氏の言葉を引用すると、戦後の日本と日本人というのは、次のようなものであった。

 「『敗戦』と、『GHQの政策』と、『WGIP洗脳者』と、『戦後利得者』たちによって、『日本人の精神』は、70年にわたって踏みつぶされ、歪められ、刈り取られ、ほとんど絶滅状態に追い込まれた」

 WGIPは「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」の略語ことであり、戦争についての罪悪感を日本人の心に植え付けるため、連合国軍総司令部(GHQ)による洗脳計画とされるものだ。要するに、米国の占領政策によって、戦前の日本の伝統が根こそぎ崩壊したという主張である。その象徴が日本国憲法であり、「日本らしさを感じさせる条文はほぼない」と百田氏は指摘する。そして、失われた伝統、日本の素晴らしさを取り戻すのが現在の課題であるというのが本書の結論であった。

 この結論を導くためには、日本人全体がWGIPに犯されていると主張する必要がある。そのため、百田氏は「共産主義的な思想は日本社会のいたるところに深く根を下ろしている」と指摘した。日本人が先の大戦を侵略戦争だとみなし、周辺国に謝罪したのも、その影響からなのだそうだ。

 百田氏が、先の大戦を侵略戦争と考えていないのは理解しているつもりだし、そう考える人を糾弾するのも自由である。迷わずにやればいい。けれども、そういう思想を「共産主義」だと位置づけ、それが日本全体を覆っているかのような見方は、事実として成り立たないだろう。

 戦後の日本では、共産主義と対峙(たいじ)した自民党政権が長らく続いており、他方で共産党は少数のままであり続けた。その自民党政権が、先の大戦を侵略とみなすことを拒否し続けてきた一事をもってしても、それは明らかである。証明すら不要なことだろう。

 つまり、百田氏がそういう結論を導こうとして戦後史を眺めたために、本書ではいろいろな場面で矛盾に直面する。いくつか例を挙げよう。

 独立後すぐに戦犯を赦免するための署名運動が起こり、4千万人が署名したのだが、これはWGIPによる洗脳説では説明できない。すると、百田氏は「洗脳の効果が現れるのは、実はこの後なのだった」と、論理の破綻を糊塗(こと)しようとする。

 60年安保闘争を批判し、それに参加した人が少数であったことを強調するため、直後の総選挙で自民党が圧勝したことを指摘するのだが、それは選挙時の有権者が全て素晴らしい伝統を持っていた戦前生まれだったからだというのだ。では、素晴らしい日本の伝統を受け継がない戦後生まれ(共産主義に洗脳もされている)が多数になっても、自民党が選挙で勝ち続けている事実を一体どのように説明するのか。

 要するに、『日本国紀』というのは、歴史を叙述した著書ではないということだ。歴史に名を借りて、百田氏の政治的な主張を散りばめた作品なのである。

 冒頭から書いているように、歴史を描くのに政治的・イデオロギー的な中立性は必ずしも必要ではない、というのが私の考えである。しかし、そうであっても、自分の政治的・イデオロギー的な立場が矛盾する事実に直面したとき、それを隠さないで、あるいは歪めないで、どう対応するかが学問に求められる最小限の節度ではないだろうか。

 ある場合は、さらなる探求の結果、元の立場に矛盾しない説明方法が見つかるかもしれない。別の場合、自分の立場を修正する必要性が生まれてくるかもしれない。それが学問というものである。『日本国紀』はその節度から外れているというだけでなく、最後の結論部分に至っては、政治的主張のために学問を歪めるものである。

 もし私であれば、誰かに日本通史の執筆を依頼する時は、この節度を何よりも求めるだろう。『日本国紀』は、その重要性を私に自覚させてくれた点で、それなりの存在意義を持っていると付記しておく。(一部敬称略)

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