現役引退から20年近くになる今もなお、その動きに注目が集まる前田日明。伝説的な名勝負も数多く、当時からの信者的ファンがいる一方で、偏執狂的アンチも少なくない。
 しかし、賛否両論が渦巻くのも、それこそスターの証明とも言えようか。
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 日本のプロレス界で“カリスマ的存在”といったときに、アントニオ猪木と並んでまず名前が挙がるのが前田日明だろう。

 熱心なファンは自ら「前田信者」と言ってはばからず、同時にアンチが多いのも猪木と同様だ。アンチ前田の言い分の一つに、「大言壮語を吐くくせに本人は真剣勝負をしたことがない」というものがある。これを裏付ける関係者の証言もいくつか見られる。

 1986年、初の異種格闘技戦で勝利を収めて新・格闘王の呼び名を得た前田だが、この対戦相手のドン・中矢・ニールセンは後年、この試合についてショーとして盛り上げることを依頼されたとしている。

 極真空手出身のジェラルド・ゴルドーも、’88年に第二次UWFで前田と対戦した際には「事前にリハーサルがあった」と述べている。

 エメリヤーエンコ・ヒョードルとの試合を前田に酷評された永田裕志も「あの人は格闘技もプロレスも中途半端」「俺のヒョードル戦とあの人のニールセン戦を一緒にされたくない」と、暗に前田がこれまでにプロレスの範疇の試合しかしてこなかったことを指摘している。

 では、こうした前田批判が的を射たものなのかといえば、必ずしもそうとは言い切れない。総合格闘技の概念が一般的になったのは90年代半ば以降のことだが、それ以前の前田はそもそも昨今に言われるような意味での真剣勝負を志向していたわけではない。
「第一次UWFで競技志向の佐山聡を批判し、皆が食っていくための興行優先を唱えたのが前田です。この当時の前田の目指したものはあくまでも“強いプロレスラー”であって、決して格闘家になりたかったわけではありません」(プロレスライター)

 前田自身も、若手時代にアントニオ猪木から聞いた「いつかスポーツとして恥ずかしくない戦いを実現させる」との言葉をそのまま受け止め、それに向けてやってきたとの発言をしている。

 つまり、プロレスラーが「すごい、強い」と世間から尊敬のまなざしで見られるような状況こそが前田にとっての理想であって、少なくとも第二次UWFの頃まではプロレスを捨てて格闘競技の道へ進む意図はなかった。セメントやシュートを志向していたというのは、あくまでも周囲がそう思っていたというだけにすぎないのだ。

 振り返ってみても前田が新日vsUWFでの中で不穏な空気を見せたのは、唯一、アンドレ・ザ・ジャイアント戦ぐらいしかない。

「そのアンドレ戦も、最初に不穏な態度を見せたのはアンドレの方です。新日を離れる直前だったアンドレが何かしらの意図によって“仕掛けて”きたのに対して、前田は自衛しただけですからね」(同)

★現代の基準とは異なる勝負哲学

 蹴りや関節技を前面に出し、ロープに飛ばないなどの形こそは目新しかったが、プロレス界の掟に反することはしていない。
「ニールセン戦については微妙なところで、あれは言うなれば昭和版の小川直也vs橋本真也です。藤波辰爾と長州力の名勝負数え唄を“マンネリでつまらない”と、札幌テロリスト事件を指示したのと同じように、前田のUWFで、スタイルに活を入れようとの意図からのものでした」(同)

 ニールセン本人も興行としての盛り上げを依頼されたとは語っているが、事前の試合展開の打ち合わせについては否定している。

 ニールセンが勝ちにこだわっていれば、前田がガードのできていなかった顔面へのパンチ狙いに徹することもできたはずで、その意味では現代基準の真剣勝負とは異なるかもしれない。しかし、筋書きの決まった試合でなかったことは確かであり、そこで前田は堂々とUWFスタイルで勝利してみせた。