伊調馨

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 絶体絶命の残り10秒から2ポイントを奪い、34歳の伊調馨(ALSOK/五輪4連覇)が川井梨紗子(24=ジャパンビレッジ/リオ五輪金)に3―2で逆転勝利。3年ぶりの全日本優勝で、あらゆる競技でも前人未踏の「オリンピック5連覇」へコマを進めた。

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 12月23日、東京の駒沢体育館は異様な熱気に包まれた。平成最後のレスリングの天皇杯全日本選手権最終日。女子57キロ級の決勝では、終了間際に伊調が川井を前へのめらせてバランスを失わせ、すかさず右足を取りバックに回った。最後は「参ったか」といわんばかりに相手を押さえつける腕をぐぐっと震わせ、大逆転勝利の瞬間は雄叫(おた)けびをあげ、普段はまず見せないガッツポーズを披露した。

伊調馨

 前日の予選リーグでは、伊調は消極性から川井に僅差で敗れていた。そこからリーグ戦の残り試合と準決勝を勝ち上がっていた。一方の川井は順当に勝ち上がり決勝で再び相まみえたのだ。伊調の土壇場での逆転は、まさにリオ五輪決勝を思わせた。リオ五輪以来の公式戦となった10月の復帰戦(全日本女子オープン)優勝では、注目の東京五輪について「目指すとはまだ言えない」と話していた伊調。今回は「全く見えていなかったものがぼやって(ぼやけて)見えてきた」などと語り、田南部力コーチ(43)は「全盛時までにはまだ7割」と話した。

 川井は茫然自失ながらも「馨さんはやはり馨さん。2年もブランクがあっても強い。簡単ではないことはわかっていた。でも私もオリンピック目指してるし……」と前を見据えた。実は川井は妹の友香子選手(21)との姉妹での五輪出場を目指して階級を一階級軽く変更していた。リオ五輪の前の全日本では同階級で姉妹決戦となってしまっていたからだ。

栄和人前監督

 間近で試合を取材して感じたことがある。前半、川井が伊調の目を偶然、指で突いてしまう場面があった。怒ったわけではないが目を抑える伊調に川井は手を出して謝っていた。何しろ10歳上の至学館大学の大先輩だ。このあたりからどこか、闘志をぶつけにくくなる微妙な心理変化があったかもしれない。

 素人目にも川井には大きなチャンスがあった。立ち姿勢で川井に足を取られた伊調が、「けんけん」で必死に後退して場外へのがれた。片足の伊調に簡単に引っ張られて最低失点の1ポイントにとどめさせてしまった川井だが、絶対に足を離さずに中へ引きずり込めば、さらに大きな好機が生まれたのではないか。「少しずつでもポイントになればいい」と川井がマット中央での力勝負をどこか避けていたようにも感じた。基本的に川井は守りの姿勢だったが、後がない伊調は乾坤一擲の勝負を賭けた。その差が出た。

 レスリング史に残る名勝負について「土壇場でひっくり返す伊調選手の勝負勘はさすがだけど、梨紗子はもっともっと追い込めた。もったいない場面はいっぱいあった。あと3ポイントは取れていたはず。まだまだ甘いよ」と語るのは、伊調へのパワハラ騒動で全日本チームの強化本部長と至学館大学女子レスリング部の監督を降りた栄和人(58)だ。あるレスリング協会関係者は「やはり栄さんがマットにいないことで、川井選手は心理的に安心感が持てず、強気にもなれないのかもしれない」と語った。

指導を続けていれば……

「現場に行くとメディアに追い回されるから」と愛知県の自宅で見守った栄氏は「伊調選手の勝利で、また俺の名前が出されて嫌になっちゃうよ」と苦笑する。

 さて、東京五輪までの次の関門は来年6月の全日本選抜選手権(明治杯)。ここで伊調が優勝すれば9月の世界選手権の出場権を得る。メダルを取れば五輪はほぼ手中にする。川井が勝てばプレーオフになる。今回の結果で伊調が一歩リード、川井が崖っぷちになった。
 栄氏は「6月から指導できなくなっちゃったけど、指導を続けていられたら川井には絶対勝たせてやれたと思うんだけどな」と、やはりもどかしそうだ。

 今大会、伊調馨の相手はすべて栄氏が育てた至学館大学の後輩だった。伊調馨、吉田沙保里(36)らを育てた栄氏だが、「国民的ヒロイン」にいつまでも“おんぶに抱っこ”する男ではない。必ず彼女らを倒すべく若手を育て、それをぶつける厳しい「下克上」を作ってきた。それが至学館大の強さであり、全日本女子のレベルを引き上げてきた。

 今後メディアは「伊調のオリンピック五連覇」で舞い上がるが、それは別として、レスリング界のためには一刻も早く、彼をマットに戻すべきである。

取材・文=粟野仁雄(ジャーナリスト)

週刊新潮WEB取材班

2018年12月26日 掲載