インカレの思い出/六川亨の日本サッカーの歩み

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例年、この時期は天皇杯の準決勝というのがすっかり身体に染みこんでいるため、今年のような長いシーズンオフにはちょっと戸惑ってしまう。Jリーグは12月1日に終わり、天皇杯決勝も来年1月のアジアカップとクラブW杯に鹿島が出場するため、12月9日に終わってしまった。

Jリーグは現在ストーブリーグの真っ最中で、来シーズンへ向けた補強が水面下で進行中だ。ただ、あるJクラブの関係者に聞いたところ、「資金力のあるビッグ3、神戸、川崎F、浦和の補強が終わらないと、誰が残っているのか分からないので、Jリーガーの獲得が本格化するのは年明けになる」そうだ。

さて先週は久々に全日本大学選手権、通称インカレを取材した。母校が昨年に続きベスト4に進出したので準決勝の味の素フィールド西が丘に足を運んだ。試合は延長戦の末に法政が2-1で順天堂を振り切ったが、観衆は976人という寂しさ。大会そのもののPR不足もあるのだろうが、これだけガラガラのスタンドを見るのはJリーグ発足以来、初めてかもしれない。

さすがに浦和駒場で行われた決勝戦は、埼玉在住であれば無料で入場できるのと、バックスタンドには高校生が動員されていたため、6012人の観衆が集まったのはテレビ放送を考慮して大会関係者が努力したのかもしれない。駒澤との決勝戦は、J3リーグの北九州入りが内定しているディサロ燦シルヴァーノの決勝点で法政が勝ち、42年ぶり3度目の優勝を果たした。

42年も優勝から遠ざかっていたのかと思うと、隔世の感がする。当時の主力メンバーは、日本代表でも活躍したMF前田秀樹さん(京都商業高校出身で、古河を引退後は水戸の監督などを務め、東京国際大学の監督として関東リーグ1部に導く。カラオケではフランク・シナトラのマイウェイは絶品もの)、浦和市立高校3年の時に高校選手権で優勝し、横浜Mの初代監督を務め、その後も福岡、京都、仙台の監督を歴任した清水秀彦さんらがいた。

その後も当時の法政には天才ドリブラーと言われた中村一義さん(藤枝東高校出身で、高校生として初めて日本選抜に選出された)、楚輪博さん(広島県工出身でヤンマーや日本代表で活躍し、C大阪や鳥栖、富山の監督を歴任したゲームメーカー)、川勝良一さん(京都商業高校出身で、前田さんに誘われ法政大学に進学。読売クラブでゲームメーカーとして活躍後は同チームの監督や福岡、神戸の監督を歴任)ら、錚々たるメンバーがいた。

そんな黄金時代の法政に、キレのあるドリブルで19歳119日という日本代表最年少得点記録を持つ金田喜稔(現サッカー解説者)さんは、広島県工の先輩である楚輪さんから進学を勧められ、市ヶ谷にあるキャンパスを見学に訪れた。ところが地元広島に戻ると、サッカー部の松田監督から、「お前は法政に行ってもレギュラーにはなれない」と言われ、中央大学への進学を勧められ、素直に従ったという話を聞いた。

高校時代の金田さんの1歳後輩である木村和司さんは明治大学に進学した。もしかしたら松田監督は、教え子をバランスよく進路を選択していたのかもしれない。もしも金田さんが法政に進んでいれば、間違いなく最強チームができていただろう。

そんな大昔のことを思い出しながら観戦した今年のインカレだった。【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。