世界で1、2位を争う集客力を誇る「木下サーカス」とは、どのような組織なのだろうか?(撮影:尾形文繁)

この年末年始は、大阪うめきた公演が大盛況となっている「木下大サーカス」。集客数は年間120万人と世界のサーカス団の中でもトップ級を誇る。
1902(明治35)年、中国・大連での創業以来、木下家四代にわたって、他に類を見ないファミリー企業(同族企業)として波乱と進化の歴史を歩んできた根源に何があるのか。
『木下サーカス四代記 年間120万人を魅了する百年企業の光芒』を上梓したノンフィクション作家・山岡淳一郎氏が、驚異の観客動員力につながる独自のビジネスモデルについて解説する。

エンターテインメント業界はサバイバル競争が激しい。「感動」を奪い合う戦場のようだ。インターネット全盛の現代、種々のゲームにユーチューブ、地上波、衛星放送、映画・演劇・コンサートのビデオと再現性の高い娯楽があふれている。消費者は、手軽に動画を再生し、泣いたり、笑ったり。再生回数が感動のバロメーターであるかのようだ。

年間120万人を魅了する「木下大サーカス」

そうしたなか、ライブの一回性に体を張って勝負するキラーコンテンツがある。「木下大サーカス」である。木下サーカス株式会社は、2カ月前後の公演を年に4〜5回行い、年間120万人の観客を魅了する。130万人を超えた年もあり、世界のサーカス界で1、2を競う。他に類を見ないオンリーワンのファミリー企業(同族会社)だ。


ちなみに阪急電鉄が直営する宝塚歌劇団の本拠、宝塚大劇場(兵庫県宝塚市)は年間入場者数が119万人。ほぼ同等といえようか。札幌がホームの北海道日本ハムファイターズは年間観客動員数が約200万人。ダルビッシュ有や大谷翔平らスター選手を次々と輩出して、この数字だ。プロサッカーのJリーグで最も人気の高い浦和レッズは約60万人。木下サーカスの奮闘ぶりが推し測れる。しかも興行形態が独特なのだ。

人気歌劇団やプロスポーツチームが常設の「器」を持つのに対し、木下サーカスは本社こそ発祥の地、岡山市に置いているが、公演はつねに移動先の都市の「広場」で行う。その広さが半端ではない。仮設劇場のテントと、団員が暮らすコンテナハウス、動物の飼育スペース、事務所、売店、バックヤードなどで約1万平米、さらに観客の待機場所や駐車場を含むと3万平米(100×300m)、約1万坪を要する。

年に4〜5回の公演地ごとに広大な土地を手当てするのは容易ではない。営業部隊は、公演のほぼ1年前に候補地を決める。遅くとも半年前には現地に先乗り部隊の事務所を開き、地元の新聞社やテレビ局と連携してきめ細かな販促活動を行う。パフォーマーたちが命懸けのアクロバットや空中ブランコ、猛獣ショーを演じて喝采を浴びる裏で、日々、あひるの水かきのような営業活動を展開している。

サーカス経営近代化からV字回復へ

この稀有なビジネスモデルは、一朝一夕にできあがったものではない。創業者の初代、木下唯助氏がロシアの租借地だった「ダルニー(のち大連)」で軽業一座を旗揚げしてから百有余年、さまざまな試練を乗り越え、旅興行は「実業」に練り上げられてきた。


2019年3月11日(月)まで、大阪駅前うめきた公演を開催中。詳しくは、こちら(写真:木下サーカス)

唯助氏の女婿で2代目の光三氏は、第二次大戦中、中国で宣撫官(軍の目的や方針を知らせて人心を安定させることを任務とする軍属)を務め、銃撃戦で瀕死の重傷を負った。興行とは縁遠い環境で育った光三氏は、戦後、サーカス経営の近代化を図る。それまでの「丸太掛け小屋」の仮設劇場を廃し、欧米式の「丸テント」に変革した。

素人目には丸太小屋が大テントに変わっても、「へぇ、そう」で見過ごされそうだが、これが興行形態を根底から覆す改革だった。江戸期から続く、勧進元の影響力を断ち切るぐらいのインパクトがあった。

そして、歩方(ぶかた)と呼ばれる香具師の勧進元の代わりに大手新聞や各地方紙、地方テレビ局との関係を密にし、全国に提携のネットワークを築く。新聞社にとってサーカスの優待チケットは販売拡張の強力なツールだ。もらった人の「着券率」は、抜群にいい。ある新聞社の事業部員はこう語る。

「サーカスほど強烈なコンテンツはありません。数字は言えないが、展覧会やスポーツ観戦、映画よりも着券率はずば抜けていい。座席の決まったコンサートのチケットは招待券に向かない。しかも家族で来場してくれる。木下サーカスが巡業にきてくれるなら、どの新聞社も大歓迎です。大きなサーカスは木下だけになった。100年を超えた信用力でしょうかね」

光三氏がビジネスモデルの原型をつくり、長男の光宣氏が3代目を継ぐ。光宣氏は、演劇とサーカスを融合した新機軸を打ち出し、地方博での公演で空前の成功を収めた。しかし、一転して不調に陥り、40代半ばで急逝。弟の唯志氏が4代目を継ぎ、現在に至っている。

実は、唯志氏が受け継いだとき、木下サーカスは負債が膨らみ、内情を知る顧問税理士は「廃業」を強く推した。だが、唯志氏は「立て直せる」と助言を退け、10年で債務を完済。見事に立ち直らせた。

V字回復の要因を問われると、唯志氏は「一場所、二根、三ネタ」と答える。「場所」は公演地の選定であり、公演現場の運営を指す。「根」は営業、販促に必要な根気を、「ネタ」は文字どおり演目を表す。この家訓のように受け継がれた3つの要素を地道に磨きつつ時代に合わせた変化を取り入れ、驚異的な観客動員力を維持している。

準備期間20年の大阪うめきた公演

では、唯志氏が真っ先にあげる「場所」はどう選び、いかにして決めるのか。

そこで、信用がものを言う。たとえば、現在、公演中のJR大阪駅北口、旧梅田貨物跡地「うめきた」が決まるまで、オーバーに聞こえるかもしれないが、20年の準備期間があった。前回、木下サーカスが梅田で公演したのは1999年。ヨドバシカメラの梅田ビル着工前の空地で公演を催し、約36万人を集客している。

当時、大阪駅周辺の都市再開発は旧国鉄清算事業団(現・鉄道建設・運輸施設整備支援機構)が差配していた。ヨドバシ梅田ビルの土地には旧大阪鉄道管理局庁舎があった。唯志氏ら木下の経営陣は、公演が終わった後も、ヨドバシカメラはもとより、事業団へのあいさつは欠かさなかった。組織が変わり、担当が変わっても必ず顔をつなぐ。

都市再開発では、古い建物がクリアランスされると、一時的に更地が生まれる。新たな建物の着工前に現れた更地は、恰好の「場所」なのだ。いつ、どのように再開発が動きだすかで「場所」が浮かんだり、消えたりする。「うめきた」は鉄道・運輸機構とUR都市機構が手を携えて再開発を始めた。唯志氏は言う。

「お世話になった方々にごあいさつを欠かさず、ご縁を大切にするのは、木下家が代々、大切にしてきたこと。とくに計算してやっているわけじゃありません。人脈や信用は、自然に培われるものでしょう。『うめきた』も、まさかあそこでできるとは思っていなかった」

URは2013年4月、「うめきた」の1期再開発で「グランフロント大阪」を完成させた。ちょうどそのころ、木下サーカスは横浜・JR桜木町駅前で公演をしていた。すぐ横のアイランドタワーにはURの本社がある。UR職員たちは、観客が長蛇の列をつくるサーカスの盛況ぶりに瞠目した。何もなかった空地でビジネスが展開されている。

URは全国に開発途上の空地を抱えている。風とともに来て巨大なテントを建てて何十万人もの人を集め、風とともに去っていく木下サーカスは、空地の暫定利用にうってつけだ。賃料も入るし、終われば跡形もなく消えて更地に戻る、これはいい、と多くのUR職員の頭にインプットされる。実績イコール信用だ。それが「うめきた」公演に結実したのである。

「場所」は時代とともに移り変わる。かつて、神社仏閣の「高市(たかまち)」と呼ばれた縁日がサーカスの庭だった。戦後の高度成長とともに地方から都市への人口集中が進み、地域の共同体が崩れると高市も廃れた。都市の空地は減り、再開発の用地や地方博の会場などが「場所」に浮上。最近は、大型ショッピングモールの隣接地との相性がいい。

観客は、サーカスを楽しむ前後にショッピングや食事をモールで楽しめる。入場までの待ち時間もモールで潰せる。

新たな「場所」を求めて、木下サーカスの先発隊は地を這うように動いている。