木村武雄師匠に弟子入りしてすぐのころ(写真:Candy5さん)

世界中のアーティストにとって、ニューヨークはあこがれの街。日本からも毎年多くのアーティストがニューヨークに渡っている。彼らにとっての“サクセス”は、「とりあえず一度ニューヨークに行ければいい」から、「ニューヨークで活動を続ける」「有名になる」「稼ぐ」と、さまざまだろう。
そんな日本人ニューヨーカーのリアルに迫る連載の第3回。

天国の父からのメッセージを受ける

江戸時代に中国から日本に渡ってきた飴細工の技術。その300年の歴史を引き継いで活動する飴細工職人が、アメリカには3人いるという。その1人がCandy5(キャンディ・ファイブ)さんだ。


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Candy5さんは、新聞記者の父親、専業主婦の母親のもとに生まれ、父の転勤に伴い、日本各地を転々としながら成長した。大学進学を目指し、富山県の進学校に通っていたCandy5さんを悲劇が襲ったのは、高校3年生のとき。最愛の父がガン宣告を受け、半年後に49歳の若さで他界してしまったのだ。

Candy5さんは、専業主婦の母親を支えるために、進学を諦めOLに。だが、会社勤めが性に合わず、バンド活動、ラジオパーソナリティー、小物販売、調理師など、10回以上転職を繰り返した。とはいえ、本人は転職を「敗退」ではなく「獲得」と位置づける。父親の突然の死を経験したことで、「明日死んでもいいように、やりたいことはやる」と決意。気になる職業を見つけると、履歴書に長文の手紙を添えて仕事を獲得し、納得すると「卒業」してきた。22歳から東京に出て24歳で結婚、翌年長女を出産するが、28歳で離婚し富山の母親のもとに戻った。

この頃、Candy5さんは、「自分にしかできない社会での役割を見つけたい」と思い始めていた。どこか満たされない気持ちになったとき、空を見上げて「私の使命を教えて」と語りかけていた相談相手。それは、天国の父だった。

29歳の時、新聞に挟まれていた冊子をめくっていたCandy5さんは、ある記事を見て、「これが答えだ!」と確信したという。そこに掲載されていたのは、飴細工職人のインタビュー記事。「父からのメッセージに違いない」と、すぐに編集部に電話をして、大阪の飴細工職人に会いに行った。

その後、めぐりめぐって、当時80代だった東京の飴細工職人・木村武雄氏の弟子となる。1週間、師匠のもとに通い、朝から晩まで練習を重ね、基本の十二支の飴をマスター。十二支以外は、飴の袋詰めをしながら、師匠の技を盗んで覚えた。

90度に煮えたぎる飴を素手で扱うため、いつも手には水ぶくれ。毎日7時間以上も何百本、何千本と飴を作り続け、突然「感覚がつかめた」と感じたのが、2年目。それからは、面白いほど自由自在に飴を操れるようになった。Candy5さんはその感覚を「宇宙とつながった」と表現する。

フロリダのディズニーで活躍

史上初の女飴細工職人として、東京を拠点に全国を飛び回る日々。彼女をつねに苦しめていたのは、富山の母親に預けていた長女のことだった。「寂しい思いをさせている」という罪悪感。周りからも「離婚して、娘に寂しい思いをさせて、自分は好きなことをするなんて、親として身勝手すぎる」と非難されたが、飴細工職人をやめるつもりはなかった。ただ、「娘と一緒に暮らしながら、飴細工職人として、娘を大学に行かせられる収入を得たい」と、天に向かって祈り続けた。

そして、1996年12月、Candy5さんはフロリダに向かう飛行機に乗っていた。「フロリダのウォルト・ディズニー・ワールド・リゾートが、日本人の飴細工職人を探している」ということで、トントン拍子で話が決まったのだ。ディズニーのエプコット・日本館でパフォーマンスを始めたCandy5さんは、たちまち来場者の人気者となった。


エプコット・日本館にて(写真:Candy5さん)

しかし、順調だったキャリアは、2001年9月11日にアメリカで発生した同時多発テロの1カ月後、米国経済の落ち込みによる解雇という形で、突然終わりを告げた。ビザを保持できなくなり帰国を迫られるが、当時中学生だった娘は「フロリダに残りたい」。愛娘の主張を尊重したCandy5さんは、学生ビザを再申請してフロリダに残った。職を失ったものの、「とにかくキャンディーを作り続けよう」と決意。難病の子どもとその家族のための施設「ギブ・キッズ・ザ・ワールド」(フロリダ)で、ボランティアとしてキャンディー・パフォーマンスを続けた。

解雇から半年後、再び奇跡が起きる。突然、元の職場であるディズニーから電話がかかり、「戻ってこないか」と打診されたのだ。Candy5さんの解雇に対して、ファンから苦情が届いていたという。

さらに、以前パフォーマンスを行った小学校の保護者の発案で、解雇取りやめを訴える署名も寄せられていたのだ。エプコットに戻ったCandy5さんは、その後12年間キャンディーを作り続けた。

その間には、アメリカ航空宇宙局(NASA)のパーティーにも招かれ、宇宙飛行士の野口聡一さんや山崎直子さんとも出会う。2010年4月に野口さんが国際宇宙ステーション(ISS)で誕生日を迎えた際には、事前に山崎さんから依頼を受け、特製のバースデーケーキ飴を製作。宇宙で野口さんにキャンディーが贈られたことは、ニュースにもなった。

ディズニーに別れを告げ、ニューヨークへ

フロリダを舞台に成功を収めていたCandy5さんだが、2013年に自らディズニーを退職。この決意について、「誰もが憧れる最高のキャリアを捨てるのはもったいない」と反対した知人も。しかし、Candy5さんは「ディズニーでの私の役目は終わり。私が去ることで、若くて才能がある日本人にチャンスを渡せると思ったのです。確かに、給料も待遇も最高でしたけれど」と笑う。そしてこう続ける。「第2の人生を考えるなら、体力的にも精神的にも、50代のうちがチャンスかなと」。何より最愛の娘が、「チャレンジするお母さんを応援する」と背中を押してくれた。


野口宇宙飛行士が宇宙で受け取ったバースデーケーキ飴(写真:Candy5さん)

退職後の約4年間は、富山の母親の介護で帰国したり、娘と密な時間を過ごしたり。そして2017年10月、Candy5さんは、大学を卒業してディズニーのダンサーになっていた娘をフロリダに残して、ニューヨークに飛び立った。第2の人生のステージ候補として、事前にニューヨーク、サンフランシスコ、ハワイなどを見て回ったところ、「いちばん、空気が合ったのがニューヨーク。呼ばれていると思った」と言う。

ニューヨークに移った当初、友達は3人しかいなかった。もちろん、仕事の基盤もない。実は、不安でいっぱいだったそうだ。最初の数カ月は、フロリダ時代からつながりのあるイベント会社の紹介に頼るほかなかった。それでも、ニューヨークに来て数カ月経ったころから、ジャパンソサエティーでのイベントや日本総領事館のレセプションにも呼ばれるようになった。

「元ディズニーで働いていたユニークなパフォーマーがいる」との評判はジワジワと広がり、富裕層のプライベートパーティーに呼ばれることも増えてきた。アメリカでは、子どもの誕生日にパフォーマーを呼ぶことも珍しくない。特にユダヤ系アメリカ人の13歳成人式は盛大だ。キャンディー・パフォーマンスは、バルーンアートやジャグリングなどに飽きたニューヨーカーたちの心をつかんだ。パーティーの参加者から、「うちのパーティーにも来てほしい」と声をかけられることも珍しくないという。


ロックフェラーセンター・ローズバーにて(写真:Candy5さん)

また、2018年6月から9月にかけて、ロックフェラーセンターのレインボー・ルームの一角を利用したポップアップバー「ローズバー」でも活躍。レインボー・ルームといえば、フランク・シナトラ、モハメッド・アリ、エリザベス・テーラーなどもライブをしたニューヨークの象徴的な場所だ。

さらに、タイムズスクエアでもパフォーマンス。その姿がニューヨークのイベント会社の目に止まり、2018年にフロリダのTampa Museum of Artで開催された草間彌生さんの展示「LOVE IS CALLING」のオープニング・パーティーにも呼ばれ、草間さんを模した指輪飴を作って大好評となった。


草間彌生「LOVE IS CALLING」オープニング・パーティー(写真:Candy5さん)

2018年12月には、ニューヨークに本社を置く大企業の年末ファミリーパーティーに呼ばれた。子どもだけで400人が参加。前日までに250本の飴を用意し、当日は150本を作成した。ニューヨークでの舞台は、確実に広がっているのだ。

今後の夢を尋ねると、「ニューヨークで開催されるファッションウィークやアニメコンベンションでパフォーマンスができたら楽しそう」と目を輝かせる。一方で、「ニューヨークで地道に暮らす一般人のストーリーを飴に再現することで、その人の人生にもスポットライトを当てたい」「飴細工の写真を使った子ども向けの本も出版したいし、教育にも携わりたい」と夢があふれる。

日本人であることを誇りに、飴を作り続ける

ニューヨークの魅力について、「美意識が高く、自立している人が多い。何より、明日生きられるかわからない状態で、必死に頑張っている人が多く励まされます」というCandy5さん。彼女は、ニューヨークで一旗揚げたいのだろうか。

「名声には興味がありません。2分間のパフォーマンスで、目の前の人を幸せにできる私は、すでに世界でいちばんラッキー。応援してくれる娘の存在があれば十分です。それに、邪念を持つとよい飴は作れません。浮世に流されることなく、ただ忠実に、目の前の人のために飴を作っていきたいですね」

最後に、こんな質問をしてみた。「Candy5さんは、日本の伝統を背負う飴細工職人なのか、それとも、世界で活躍する人種を超えたキャンディー・レディーなのか」と。意外な答えが返ってきた。「日本の職人文化の閉鎖性には疑問がありますが、伝統をつないでいるつもり。日本人が世界で果たせる役割は、日本特有のスピリチュアルな精神や、調和の心を広めることではないでしょうか。私は、日本人であることを誇りに、パフォーマンスを通して日本のマインドを伝えているつもりです」

「憧れは松尾芭蕉ですから」と笑うCandy5さん。旅をしながら、行く先々で感じたことを句に読んだ松尾芭蕉。ニューヨーク、そして世界を歩きながら一生、飴を作り続けていく。