今の子どもや若者が幼稚化していて手がかかるといって嘆く必要はない(撮影:尾形文繁)

ある企業の幹部が、「最近の新入社員は幼稚化している。未熟で手がかかる。子どもっぽくて自立していない」と嘆いているのを聞きました。

また、以前、私の知人がこう言っているのを聞いたこともあります。「自分たちが大学受験をした頃、試験会場に親が付き添うなどということはなかった。大学の入学式に親が出席するなどということもなかった。ところが、今はそれが普通に行われている。それどころか、親が入社式に出る会社も結構あるようだ。嘆かわしい」。


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こうした話をあちこちで耳にします。子どもの世界でも同様です。ある幼稚園の先生は「以前と比べて手がかかる子が増えた。今の年長の子たちの中には以前の年少の子と同じレベルの子も多い」と話していました。

小学校や中学校の先生たちも、「子どもたちが年々幼くなっている。手のかかる子が増えた」と言います。高校や大学の先生たちも同じようなことを言います。こういった話が世間全体の共通認識になっている感があります。

進化するほど手がかかるのは自然の摂理だ

私もこういった現実は確かにあると思います。でも、それは本当に嘆かわしいことなのでしょうか? 私は、一概にそうとは言えないと考えています。というのも、生物が進化して高等になればなるほど、成熟するまでの時間が長くなり手もかかるようになるからです。これは自然の摂理であり生物のグランドデザインなのです。

たとえば、昆虫の子どもはまったく手がかかりません。親は卵を産むだけで、温めもしませんし、ふ化してからもほったらかしです。ところが、魚類になると昆虫に比べて手がかかります。たとえば、卵を産みつける場所にしても、海底や川底に産卵巣というくぼみを作って、そこに卵を産みつけたりします。親がひれを動かして、酸素を含んだ新鮮な水が卵に当たるように努力したりもします。

アマミホシゾラフグという魚は、卵のためにミステリーサークルと呼ばれるほど複雑な産卵巣をつくることで有名です。卵を産むためにこれほどの準備を整える昆虫などいません。また、魚類の中にはふ化した稚魚を親が自分の口の中に入れて、しばらく守り育てる魚もあります。これも昆虫ではありえないことです。

鳥類になるとさらに手がかかります。卵を温めてふ化させ、ヒナにエサを運びます。飛び方やエサの取り方を教えるものもあります。魚類では、子どもに泳ぎ方を教えたりエサの取り方を教えたりすることはありませんが、鳥類ではそれが必要になるのです。

哺乳類になるとはるかに多くの時間と手間がかかります。乳を飲ませたりエサを食べさせたりするだけでなく、毛づくろいしたり抱っこしたりするものもあります。さらには、狩りの仕方を教えたり、仲間集団における共同作業の仕方や守るべきルールを教えたりするものもあります。

このように、生物が進化して高等になればなるほど、子育てに時間と手間がかかるようになるのです。ということは、今の子どもや若者が手がかかるようになったということは、人類がよりいっそう進化して高等生物になりつつあるということなのかもしれません。

「人間五十年」が約1.6〜1.7倍に

さらに、人間について詳しく見ていくと、時代が進むにつれて寿命が延びているという事実もあります。織田信長が桶狭間の戦いの前に舞ったといわれる「敦盛」という舞の中には、「人間五十年……」という一節があります。当時の実際の寿命については諸説ありますが、一般的には50年と考えられていたのです。それに対して、現在の日本人の平均寿命は、男性が81.09歳、女性が87.26歳です。これは当時の約1.6〜1.7倍です。ということは、成熟までの時間も1.6〜1.7倍になるのが自然というものです。

これは、50センチのゴムひもを80センチに伸ばすのと同じです。ゴムひもは、右側も真ん中も左側も同じように伸びます。真ん中だけたくさん伸ばそうと思ってもそうはいきません。人生も同じです。人生の最盛期である真ん中だけ伸ばすことはできないわけで、成長期も老年期も伸びるのです。こういった大きな変化の中で、自然の成り行きとして、今の子どもや若者たちも手がかかるようになってきているのです。

ところで、寿命が伸びることについて、次のように言う人は多いと思います。「寿命が延びれば、病気やケガによる治療費がかかる。貯蓄も減り年金も減るばかりで、どうやって生きていくのか? 老人が増えれば社会保障費も増える。そのほかにも……」。もちろんそのとおりで、問題はいくらでもあります。でも、その反面よいこともたくさんあるのです。

そもそも、せっかく生まれてきたのですから、長く生きられるのは生物として喜ばしいことです。特に、真ん中の最盛期が伸びるのはすばらしいことです。好きな趣味に取り組むとか読みたい本を読むなど、自分がやりたいと思う楽しいことがいっぱいできます。また、たとえば、科学者たちが最先端で研究できる期間が10年延びれば、人類の科学が大きく進歩します。芸術家や職人も、自分の道をより深く極められるようになり、人類の宝物といえるような傑作をたくさん生み出してくれるでしょう。

あるいは、最近は「美魔女」という言葉もあります。人生50年の時代だったら老婆と呼ばれていたであろう年代の人たちも、皆さんとても美しいです。美魔女コンテストというものもあって、60代の人がファイナリストになったそうです。私の身の回りにいるごく普通の女性たちも、みんな若くて元気で美しいです。

男性も同じです。次の歌詞は、1941年(昭和16年)に発表された「船頭さん」という童謡です。

村の渡しの船頭さんは
今年六十のお爺さん
年は取つてもお船を漕ぐときは
元気いつぱい艪がしなる
それ ぎつちら ぎつちら ぎつちらこ

「今年六十のお爺さん」ですから、当時は60歳といえばお爺さんだったのです。私も今60歳ですが、自分のことをお爺さんとは思っていません。これからもプライベートや仕事でますます楽しくやっていきたいと思っています。同世代でそう思っている人はたくさんいるはずです。そして、それはよいことなのです。

一概に昔の人はしっかりしていたとはいえない

次のように言う人もいます。「昔は15才で元服して大人だった。昔の人はしっかりしていた。それに比べて今の若者は……」。でも、私はこれにも賛成できません。確かに中世の武家では15歳で元服でした。でも、その頃は今より単純な社会で、武士の子は武士になり、百姓の子は百姓になり、商人の子は商人になるのが当たり前でした。「拙者は父上のような立派な武士になります」と言っていればいいわけで、何の迷いもありません。誰でも仕事に就けて大人になれたのです。

ところが、現代では自分が何になるべきか大いに迷います。複雑な社会の中で非常に多くの選択肢があるからです。さらには、競争も厳しく思うようにはいきません。社会のあり方が違いすぎるのですから、一概に昔の人はしっかりしていたとはいえないのです。

NHKスペシャル「寿命はどこまで延びるのか」(2015年1月4日放送)によると、これから30年後の2045年ごろには、平均寿命が100才になるそうです。そのときは、2018年ごろを振り返りながら、「30年前の若者はもっとしっかりしていた」と言っていることでしょう。

このようなわけで、今の子どもや若者が幼稚化していて手がかかるといって嘆く必要はありません。それは、過去の記事(「フルゆとり世代」の言葉に感じる嫌な傾向)でも書いたように、結局若者を批判することにつながるだけです。

一部だけ見て嘆くのではなく、ことの全体を見れば喜ばしいことも多いのです。ですから、嘆いて批判ばかりするのではなく、子どもや若者に温かい言葉をかけ、手をかけ愛情を注いであげましょう。それぞれの資質や発達段階に個別対応して、一人ひとりを本当に大切に育てていきましょう。人類の進化、文明の発達とはそういったことができるようになることだと思います。