ルバックブルス車両基地に続々搬入されるMRTJ車両(筆者撮影)

今年8月から9月にかけて、2020年東京オリンピックの前哨戦ともいえる第18回アジア競技大会(アジア大会)がジャカルタにて開催された。普段あまりスポーツになじみのないインドネシア国民にとっては、当初はそもそもアジア大会とは何ぞや?という声も聞かれるほどだったが、後半のほうではチケットが売り切れる競技も目立ち、大いに盛り上がった。

大きな混乱もなく約1カ月の会期を終えた大会であったが、大会そのもの以外にも大きな見どころがあった。それは、公共交通を中心とした街づくりという認識の芽生えである。開業が近づくインドネシア初の地下鉄、ジャカルタ地下鉄公社(MRTJ)南北線にもプラスとなりそうな動きだ。

LRTは間に合わなかったが…

今回のアジア大会は、首都ジャカルタとスマトラ島第2の都市パレンバンとの共同開催となり、両都市で高架式の軽量軌道交通(LRT)の建設が進められた。ただし結果から先に言うと、ジャカルタのLRTの開業は間に合わなかった。車両の搬入までは漕ぎつけ、とりあえず走ることはできる状態になったため、開会式直前の8月15日に関係者を乗せた試運転を行い、9月中旬までの間は招待客のみ乗せる(途中一切下車はできず乗車駅に戻る)形での試運転を行った。


試運転中のLRT車内。アジア大会までの開業を見越していたのか「大会をサポートしています」との文言があった(筆者撮影)

その後、公式情報は音沙汰なしだが、関係者によると、進捗が遅れていた途中駅の完成を待って2019年1月ごろの開業を目指すという。また、試運転時には使用されていなかった信号・保安装置も、同月の開業時には供用を開始するという。

パレンバンでは大会になんとか間に合わせる形で開業した。駅舎の工事および車両整備の遅れから、開業時は一部主要駅のみの停車で、最大100分近く運転間隔が開くこともあり、LRTと呼ぶにはほど遠いものであったが、大会関係者を優先的に乗車させるなどして、なんとか会期を乗り切った。

こう書くと、いかにも公共交通による大会輸送はさんざんな結果に終わったのでは、と思われるかもしれないが、実はそうではない。

まず1つは、バス高速輸送システム「トランスジャカルタ」の改善だ。主に専用レーンを走行する13路線と、接続するフィーダー路線を営業しているが、大会開催に向け2017〜2018年中旬までに車両を約1000台増備した。故障が頻発した中国・韓国製の導入を取りやめて欧州製への切り替え、置き換えを進め、インドネシアで初となる低床バスも登場。小型車は日系メーカー製も幅を利かしている。

さらに大会会期中は、市内に流入するマイカーを抑制するため、ナンバープレート(奇数・偶数)による走行規制区域を拡大した。この結果、期間中は普段に比べて渋滞が明らかに少ないという声が聞こえ、既存の通勤鉄道(KCI)とトランスジャカルタを組み合わせた移動も実にスムーズだった。待ち時間が長すぎると言われたトランスジャカルタの汚名が返上できたのは大きい。


バスレーンの停留所に設置された、バスの接近案内。近年、路線を直通する便が設定されるなど複雑な運行形態になっているが、ディスプレーの設置でわかりやすくなった(筆者撮影)

近年、トランスジャカルタは各車両にGPSを搭載し、停留所で接近情報が見られるようになったほか、ジャカルタスマートシティ政策の一環で公共交通アプリ「トラフィー」にジャカルタが加わり、位置情報や目的地までのルートが一目でわかるようになるなど、ソフト面での改善も図られている。マイカー抑制策も相まって、2017年末で約45万人だった1日の利用者数は、現在60万人を突破している。

歩道劣悪「歩かない街」に変化


歩道が整備されたスディルマン通りを巡回する無料低床バス。バス停もシンガポールのような雰囲気だ(筆者撮影)

また、メインストリートに限られるが、これまで「人が歩かないから歩道がないのか」「歩道がないから人が歩かないのか」と揶揄されるほど劣悪だった歩道環境が一変。ジャカルタ中心部の幹線道路であるスディルマン通りのうち、大会メイン会場となったブンカルノ競技場とKCI環状線スディルマン駅の間5.5kmに、最大幅5m近くもある立派な歩道が整備された。ここはMRTJ南北線も地下を通る場所だ。

この区間には低床車両を使用した無料バスが運行(現在は土・休日運休)され、2017年12月に開業した空港鉄道のスディルマンバル駅からブンカルノ競技場までのアクセスもしっかり確保された。この部分だけを見ると、もはやジャカルタではないと言いたくなる雰囲気だ。

そして、もう1つ忘れてはならないのがオンライン配車アプリの浸透である。これを公共交通と呼ぶかどうかについては議論があるだろうが、インドネシアでは公共交通インフラが整備されるまでの暫定措置として、運輸省が配車アプリを公共交通とみなし、営業許可を与えている。


オンライン配車によるバイクタクシーは、最も時間に正確に、そして安く移動できる手段としてもはや欠かせない存在だ(筆者撮影)

インドネシアでは従来から、地元のおやじたちが既得権益的に営業していたオジェックと呼ばれるバイクタクシーが「世界一歩かない」と言われる人々の生活を支えていたが、地場系アプリの「ゴジェック」やマレーシア系アプリの「グラブ」の参入により、近年急速にオンライン化が進んだ。いつでも、だれでも、どこでも、適正価格でバイクや車が呼べるようになったのは革命的であり、配車アプリのない生活には、もはや戻れないというのが現実だ。

逆に、かつて市内を縦横無尽に走っていた伝統的なミニバスやライトバンの類いはもはや青息吐息、数年以内に多数の路線が廃止になるのではないかという見方もある。交差点だろうが踏切前だろうがお構いなしに客を集めるミニバスが姿を消すインパクトは大きい。

KCIは会期中、大会会場最寄り駅の掲載された地図を主要駅で配布していたが、郊外の会場などトランスジャカルタとの乗り継ぎでアクセスできない場所については、駅からの二次交通として旧態依然としたミニバスは見限ったのか「配車アプリなどをご利用ください」と案内していた。

交通の整備はMRTに追い風


南部の高架区間を行くMRTJ試運転列車。MRTJ開業で沿線開発も活発化、日系不動産会社が参画する例も増えている(筆者撮影)

さて、筆者はこれらの事象が、わが国の円借款事業として整備されるMRTJ南北線にとって追い風になるものと考える。同線の工事は進捗率が9割を超え、いよいよ佳境に差し掛かりつつある。アジア大会開会式直前の8月15日に試運転列車がルバック・ブルスからブロックMまで地上区間全線を走破し、その後は地下区間を含め、連日メーカーの手による車両の走り込み試験が続いている。

開業後の焦点となるのは利用客数、特にマイカーからの転移がどれだけ進むかだ。こればかりは実際に開業しなければわからない話で、特に駅からの二次アクセスの欠如が指摘されている。

ジャカルタ州政府の手によって、MRTJ南北線の地下区間にしっかりと歩道が整備されたことは朗報で、駅を出ても歩く道がないというジョークも飛び出すほど切実であった歩道の問題は杞憂に終わった。しかし、都心側地下区間で、地上のスディルマン通りと並行して走るトランスジャカルタ1号線のバス停間隔は基本的に500m以上とMRTJ並みで、乗り継ぎの面で両者の相性が決していいとは言えない。

だが、無料低床バスと配車アプリの浸透がこれを解決するだろう。


整備されたスディルマン通り。車線中央がバスレーン、歩道寄りに走るオレンジ色のバスが低床バス(筆者撮影)

専用レーンを走らない低床バスは数百mごとにこまめに停車するため、駅出口近くにバス停を設置すれば、スディルマン通り沿いのおおよそのオフィスビルには簡単にアクセスできるようになる。また、南部の高架区間は基本的に住宅地が広がっており、この区間の二次アクセスは配車アプリが担うことになろう。実際に、MRTJ社は「グラブ」とMRTの運賃が一括支払いできるアプリを構築中だ。

残念なのは、日本の地下鉄のように駅とショッピングモールを地下通路で結ぶような気運にはなっていないことだ。いまだに当地ではMRTの利便性、特に高級モールの客になりえる人たちを運ぶという認識がないからだ。

しかしながら、MRTJの沿線であるジャカルタ南部は特に閑静な高所得者向けの住宅が広がるエリアで、日本人在住者も多い。だからこそ、開業当初からしっかり乗客を獲得し、将来的には自宅から目的地まで、雨にも濡れず、暑さ知らずでアクセスできるインフラに進化してもらいたいものだ。そうすれば、インドネシア人の心をつかむのは間違いない。

交通中心の街づくりは根付くか


アジア大会後、工事が始まった駅入り口部分。以前は中央分離帯部分にアジア大会のマスコットが設置され、車線は直線に整えられていた(筆者撮影)

一方、公共交通周辺の整備が進む契機ともなったアジア大会は、MRTJ関係者にとっては目の上のたんこぶでもあったという。景観保護や渋滞緩和のため、さらに一部区間がマラソンコースとなったこともあり、特に地下区間では各駅部の工事が1カ月強進められなかったからだ。アジア大会のジャカルタ開催が決定したのはMRTJ南北線の着工後であり、作業工程に大会のことは加味されていなかったのである。

これは2019年3月開業という目標にとって大きなプレッシャーだ。職員の習熟訓練などを考えると、相当切羽詰まったスケジュールであるものと推測される。実際の作業に従事する日系企業は、あくまでもMRTJ社からの受注業者である。良かれと思って立案したものも、インドネシア人幹部に修正されるのが現実だ。そして、日本政府との板挟み状態でもある。10月24日にはMRTJ南北線第二期区間の約8kmも日本タイドでの円借款供与が発表されたが、受注する日系企業にのしかかる責務も大きい。

それでも、きっと来年3月には、日本式の都市鉄道がジャカルタの街を走り出すのを見ることができるだろう。1日当たり17万人という開業時の需要目標は、TDM(交通需要マネジメント)を踏まえての数値である。現状を見るなり、クリアするのは容易だろう。その次のステップにあるのはTOD(公共交通指向型開発)である。ジャカルタに鉄道を中心とした街づくりが実践されることを願っている。