神奈川県内の駅と誤解されることもある町田駅(写真:pretty world/PIXTA)

東京都町田市は多摩エリアの南部に位置し、横浜市や川崎市、相模原市といった神奈川県の3政令指定都市と接する。また、同じ東京都の大都市・八王子市と隣接もしている。鉄道なら横浜線、道路なら国道16号線で八王子にアクセスできるものの、丘陵によって隔てられている。


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都心部から市の玄関口となる町田駅にアクセスするには、新宿駅から小田急線を利用することになる。その場合も、一度は川崎市を通る。こうした地勢的な面から、長らく「町田は神奈川」と揶揄されてきた。

実際、かつて町田市域が「町」だったときに属していた南多摩郡は、北多摩郡・西多摩郡とともに1893年まで神奈川県に属していた。「町田は神奈川」は、あながち間違いではない。

町田が東京府に移管された理由

神奈川県だった町田が、東京府に移管された理由はいくつかある。複数ある理由のうち、決定的だったのが水源問題と自由民権運動への対応だった。

東京府が誕生する以前、江戸市中の飲用水は玉川上水から供給されていた。1653年に開削工事が始められた玉川上水は、明治になっても帝都・東京に欠かせない水源だった。人が生きるために欠かせない水を供給する玉川上水は、江戸幕府にとって死守しなければならない。まさに、生命線だった。

明治政府も、玉川上水を厳重に管理した。そうした事情から、玉川上水の水源・流域である多摩は、東京に所属するべきだとの意見が強まり、三多摩は神奈川県から東京府に移管された。南多摩郡に属していた町田も、このときに東京府に属することになる。

こうした領土問題は、センシティブな問題でもある。“領土”を譲り渡すことは、神奈川県の沽券にもかかわる。本来なら、県知事が三多摩を東京府に移管することなど容認するはずがない。

しかし、神奈川県知事は水源問題のほかにも、自由民権運動という厄介な問題に悩まされていた。明治期、町田を含む多摩地区は自由民権運動が盛んで、歴代の神奈川県知事は対応に手を焼いた。水源問題で神奈川県から東京府への移管が議論された際、神奈川県の内海忠勝知事があっさりと多摩を手放したのは自由民権運動への対応に苦慮していたからだとも言われている。

こうして町田は、神奈川県から東京府に移管された。東京府に移管された後も、多摩には八王子・立川という工業化の進展した都市があり、町田は依然として農山村から脱していなかった。町田は横浜から経済・生活・文化で大きな影響を受けていた。外見上こそ東京府に変わったものの、実質は「町田は神奈川」だった。

明治から大きく時代は下り、戦後の1958年に町田は忠生村・鶴川村・堺村の周辺3村と合併。町田市が誕生する。町村合併によって市へと飛躍した町田だったが、その過程において鉄道が果たした役割は見逃せない。明治初年、絹や生糸の名産地・集積地として名高かった八王子からは、多くの商人たちが開港地・横浜へ生糸や絹を運んだ。その往来に使用された町田街道は、後年に地元民や郷土史家から“絹の道”とも称されている。それほど、“絹の道”は町田発展に大きく寄与した。“絹の道”は単なる物流を担っただけではなく、横浜から文化や思想をも運んだ。町田を中心に、多摩で自由民権運動が活発だったのはそのためだ。

町田の出身で多摩の自由民権運動のリーダーだった青木正太郎は、県会議員や衆議院議員を務めた地元の名士だが、早くから鉄道の将来性を見抜き、政界からあっさりと引退。実業界へと転身した青木は、事業を手掛ける傍ら地域振興のために多摩の鉄道計画を主導していく。青木は後に京浜電鉄(現・京浜急行電鉄)の社長を務めたほか、各地の鉄道会社の経営に参画するなど鉄道史に大きな足跡を残した。

しかし、当初は挫折が続いた。設立を模索した鉄道会社は、何度か未完のままで潰えるという憂き目に遭う。青木の悲願は、1908年に開業した横浜鉄道(現・JR横浜線)でようやく結実する。

八王子―横浜を結ぶ横浜鉄道は、“絹の道”に取って代わった。鉄道の開業によって、生糸や絹は迅速かつ大量に横浜へと輸送できるようになった。横浜鉄道の開業と同時に原町田(現・町田)駅も設置されて、原町田駅周辺はにぎわいを見せるようになる。とはいえ、駅周辺はにぎわうようになったものの、依然として町田は多摩の寒村にすぎなかった。

再び神奈川県に戻される可能性が浮上

一方、明治が終わって元号が大正に変わる頃になると、市区改正が一段落した東京市は過密化に悩まされるようになっていた。それを解決する策として、東京市を廃して東京都に移行するという都制案が浮上する。

東京府と東京市が合併して誕生した現在の東京都は、戦時体制の強化を目的にして1943年に誕生した。大正期に浮上した都制案は、それとは目的が異なるものの、東京都制の萌芽は、20年以上前から存在したことになる。

大正期の議論では、東京市15区と隣接する5郡が東京都に移行することが有力だった。これは現在の23区とほぼ同じ枠組みで、三多摩は東京都構想から外される想定だった。三多摩だけで新たに多摩県になるか、もしくは神奈川県に再編入される案が有力視されていた。南多摩郡に属していた町田は、このときに再び神奈川県に戻される可能性もあった。このときの東京都案は、うやむやに終わった。

そして、町田を大きく変えることになるのが、1927年に開業する小田原急行(現・小田急電鉄)小田原線だった。横浜鉄道によって八王子から横浜へと続く絹の道の中継地点として栄えた町田は、小田急の開通で東京とのつながりを少しずつ強めていく。

しかし、町田が今のように東京のベッドタウンとして成長するのは、戦後の高度経済成長期まで待たなければならない。小田急の開業で起きた変化は、農村・町田を軍都の後背地に変貌させたことだった。日露戦争で勝利した大日本帝国は、世界の一等国になるべく軍備の増強を図ろうとした。その第一歩として、大きな練兵場の開設を模索した。陸軍が使用していた青山練兵場(現・明治神宮外苑)は手狭なうえ、東京の都市化も重なって演習場として不向きになっていた。

一気に軍都化していく小田急沿線

そこで陸軍は、1909年に新しく代々木練兵場(現・代々木公園)を整備。約89万平方メートルという、広大な敷地面積を誇る代々木練兵場には多くの軍人が出入りする。小田急は新宿駅―小田原駅間を一気に開通させたが、同時に代々木八幡駅を設置。代々木八幡駅は、代々木練兵場の最寄駅として多くの軍人に利用された。これを機に、小田急沿線は一気に軍都化していく。小田急線開通と同時に駅が開設された座間(現・相武台前)駅には、1937年に市ヶ谷から陸軍士官学校が移転。同じく小田急開通と同時に開設された東生田(現・生田)駅には、1941年に陸軍の登戸研究所が開設された。

小田急線で忘れてはいけない駅は、軍都として栄えた相模大野駅だろう。相模大野駅は政府が軍都計画を策定して整備に乗り出したほど、大日本帝国には重要な軍事都市だった。相模大野駅一帯は、いまだに軍都の面影を残しているが、それ以上に相模大野駅は、小田原線と江ノ島線とが分岐する小田急の中でも重要な駅として認識されている。

そんな重要な相模大野駅だが、小田急が開通した1927年には開設されていなかった。2年後、小田原線から分岐した江ノ島線が開業することになり、ようやく信号所として姿を現す。それでも、信号所という扱いであり、駅としての利用はなかった。

1938年、杉並にあった陸軍通信学校が同地に拡張移転することになり、それを機にようやく駅に昇格。通信学校駅と名付けられたが、この名称は敵からターゲットになるとの理由から、戦時改描の一環で相模大野駅に駅名が変わった。

小田急線沿線は急速に軍都化したが、町田は軍都として整備されなかった。町田に課されたのは軍都を支える住宅都市という役割だった。こうして、町田は住宅地として開発されていく。また、戦後は相模原に連合軍が駐留したこともあり、町田はアメリカ軍兵士が休日に過ごす街として繁華街が形成された。

昭和に入るまで、町田の中心は横浜線の原町田駅(現・町田駅)付近だったが、小田急開業以降はしだいに小田急側へと街のにぎわいがシフトしていった。これは、新宿の求心力が強く、新宿とつながっている小田急に利用者が流れたことが背景にある。

現在、小田急線とJR横浜線の町田駅は多少の距離があるものの、基本的には同じ駅と認識される。しかし、当時は両駅が約700メートルも離れており、駅名は同じでも完全に別の駅だった。

戦後の多摩はどんどんベッドタウン化し、横浜線から小田急線に、小田急線から横浜線に乗り換える需要も増えていった。毎朝の通勤ラッシュ時には、両駅間を疾走するサラリーマンや学生が多く、そのために両駅間を結ぶ通路は“マラソン通り”“駆け足通り”などと通称されるほどだった。

原町田駅の名物ともいえる風景は、1980年に国鉄(現・JR東日本)側が駅舎改築するのと同時に小田急側に寄せたことで消失した。小田急は国鉄よりも一足早く、1976年に新原町田駅から町田駅に改称している。国鉄も駅舎移転を完了させた1980年に駅名を町田駅へと改めた。小田急・国鉄の原町田駅を統合する動きは、国鉄が小田急に譲歩する形になった。

大都市圏では、JR(国鉄)と私鉄が競合している駅はいくつかある。それらの多くは企業規模の大きなJRが優位に立ち、私鉄がJRに合わせることがほぼ通例になっている。

小田急が国鉄に勝った要因

しかし、町田駅に関しては違った。国鉄が小田急に譲歩した形で統合が進められた。副都心・新宿と直結していることが決め手になったのだろう。

戦後の町田は、東京のベッドタウンとして発展してきた。新宿には小田急のほかJRの中央線・山手線、京王線・京王新線、都営地下鉄新宿線、東京メトロ丸ノ内線などが乗り入れている。それらを合計した1日の利用者は約350万人で、その数は世界一ともいわれる。つまり、新宿の集客力・拠点性が戦後の町田発展の源泉でもあり、小田急が国鉄に勝った要因でもある。

新宿の力を背景にして成長してきた町田だが、多摩の住宅地開発は昭和30年代から始まっており、町田の開発はそれらが一段落した40年代から開始された。八王子や立川などは戦前期から開発が始まっていたが、戦後においても開発は続き、町田は後れをとっていた。しかも、昭和30年代前半には政府が掲げた多摩ニュータウンや東急が開発を主導した多摩田園都市なる新しい都市計画が浮上し、そこでも町田は後塵を拝した。町田の都市開発は、なかなか着手されなかった。それでも後発都市であるがゆえに、隣接する街や都市の改善点やいい点を吸収して進化を遂げている。

現在、町田市はJR横浜線町田駅の南側地区の再開発計画に取り組んでいる。昨今、東海道新幹線新横浜駅の存在感が増しており、横浜線を使えば町田駅から新横浜駅まではかなり近い。

町田駅は成長パートナーを横浜・相模原・新宿と時代ごとに替えて、成長の糧としてきた。町田駅の次なる成長パートナーは、新横浜駅になるだろう。横浜・相模原・新宿。そして新横浜のエッセンスをミックスしながら、町田駅は独自の文化圏・経済圏を築こうとしている。