人のものを奪ってはいけない。誰かを傷つけてはいけない。

そんなことは、もちろんわかっている。

しかし惹かれ合ってしまったら、愛してしまったら、もう後戻りなんてできない-。

渋谷のWEBメディアで働く三好明日香(24歳)には、学生時代から続く彼氏・昭人がいた。しかし小さな心の隙に、ある男の存在が入り込む。

ヘッドハンティングでやってきた新しい上司、大谷亮(おおたに・りょう)。

次第に距離を縮めていくふたりは、二泊三日の大阪出張に出かけることになった。




男の勘


「…あ、昭人。私、明日から大阪出張だからね」

そろそろ電話を切ろうかというタイミングで、私はさりげなく念押しをした。

「今度、大阪出張がある」ということについては、すでに昭人にも話してある。ただ何かの話のついでにさらりと告げただけで、その詳細はまだ何も知らせていなかった。

「大阪…?」

案の定、昭人は私の話を聞き流していたらしい。

初めて聞いたような反応をするものだから、私は大げさに呆れた声を出し、前に一度話してあることを強調した。

「ほら、この前話したじゃない。大阪で、新卒採用の会社説明会を開催するの」

昭人が「ああ」と小さく呟くのを聞いて、私はホッと胸をなでおろす。

しかし次の瞬間、私は思わずヒヤリとしてしまった。

「それって、誰と行くんだっけ」
「え?」

意外にも、昭人が詳細を聞きたがったのだ。彼は普段、仕事の話なんて一切深掘りしてこないのに…。

「誰って、同じチームの長瀬くんと…、マネージャーの大谷さん」

事実を告げているだけなのに、「大谷さん」と言った時だけなぜか鼓動が早まった。

微かに、早口にもなった。

とはいえ昭人は、そんな些細な変化に気づくほど勘のいい男じゃない。少なくとも私は、彼のことをそう思っていた。

だからそのあと昭人が続けた言葉も、何の気なしに聞き流してしまったのだ。

「あんまりお酒飲むなよ。夜に、必ず電話して」


昭人は何かに気づいている…?いよいよ、大谷と二泊三日の大阪出張へ




そうして迎えた大阪出張、当日。

てっきり皆で一緒に行くものと思っていたが、大谷は東京で社長同行の案件を終わらせてから出発し、夜に現地合流するという。

私と徹だけが先に大阪へ向かい、翌日の会場設営準備をしておくことになった。

がっかりした、なんて言ったら不謹慎であることは百も承知だ。

しかしたとえ仕事だとわかっていても、やはり大谷が隣にいるのといないのとでは気分の高揚が違う。

決して表に出さないよう気をつけているはずだったが、普段から近くにいる徹には、そんな私の小細工などまるで通用していなかったようだ。

「悪かったね、隣が俺で」

当然のように缶ビールを開ける徹の隣で、私がそっとため息をついた時。すべてお見通しとでもいうように、意地悪く顔を覗かれた。

「…な、なにが?」

目を瞬かせながら誤魔化してみるが、徹はビールを流し込みつつ「何がって」と呆れたように笑っている。

「…好きなんだろ、大谷さんのこと。言っとくけどバレバレだぞ、お前」

「違う」と答えるつもりが、みるみる頬が赤くなるのが自分でもわかった。

そういえば10代の頃から、恋をするとあからさまに表情や態度に出てしまって、すぐに周囲に気づかれていたことを思い出す。

少しは大人になったつもりだったのに、まるで変わっていなかったなんて恥ずかしい。

もしかして、大谷も私の気持ちに気づいているのだろうか…?

私はますます頬を熱くし、一人俯くのだった。

「けどさぁ、ホントに独身なのかな」

その時、徹が小さく呟く声が聞こえて、私は思わず彼に問いかける。

「どう思う?長瀬くん、何か知ってる?」

大谷の私生活については、未だ謎のままだ。

会社にやってきたばかりの頃は、噂好きの女性社員たちがこぞって探っていたみたいだけれど、誰も大した情報を入手できぬままもう飽きてしまったようだった。

しかし信頼できる男同士の会話なら、ガードの固い大谷も何か話しているかもしれない。期待して聞いてみたが、徹は首を横に振るだけ。

「そういう話したことない。でもあの人もほぼ毎晩深夜帰宅で仕事漬けだろ。もし仮に家族がいたとしても、家庭円満とは思えないけどな」

-もし仮に、家族がいたとしても。

徹の言葉で、私は初めてそのことを想像してみた。

しかしそれはあまりにぼやけたイメージで、まるで現実感がない。

大谷に寄り添う女性を空想してみたが、綺麗系なのか可愛い系なのか。髪は長いのか短いのか。それすらも思い描けなかった。

それもそのはずだ。そもそも、相手は生身の人間として存在しているのかどうかもわからないのだから。

…きっといないだろう、と私は思った。

そして、もし…もし大谷に奥さんがいたとしても、徹の言うとおり、夫婦関係はうまくいっていないに違いないと思った。

うまくいっていなければいい、と願った。


止めようもなく、大谷への気持ちは膨らんでいく。そしてついにバランスを崩す出来事が起こる


その夜、会場設営を終えた私と徹は福島の『炭火焼鳥コクレ』で大谷と合流した。

宿泊先ホテルの近くで大谷が探してくれた店だったが、佇まいは赤提灯の居酒屋風なのに、店内は思いがけず女性客で賑わっている。

聞けば宝箱に入った燻製たまごが登場するなど、 “インスタ映え”するメニューで人気の店らしい。




「明日、最初は三好に話してもらおうかな。関西の学生たちをぐっと掴む小話、頼むよ」

出張先という開放感からだろうか。乾杯をするなり、珍しくテンションの高い大谷がそんな無茶振りをしてきた。

私は慌てて「えっそんなの無理です、無理!」と叫ぶ。そんな私を見て、彼が楽しそうに笑う。

第三者から見ればとても些細な、なんてことのないやり取りなのだろう。しかし私にとっては、重なる視線、交わす微笑み、その一つ一つがキラキラと輝いて見えた。

-好きなんだろ?大谷さんのこと。

行きの新幹線で、徹があんなことを言うからだ。

気持ちというのは不思議なもので、声に出すまではあやふやでいられるのに、言葉にしてしまった途端にくっきりと象られ、消せないものとなってしまう。

-大谷さんのことが、好き-

こんなにも瑞々しい感情を男の人に抱くなんて、一体いつぶりだろう。

私は未だ自分の中にこんなにも純粋な気持ちが残っていたことに驚きながら、胸に広がる甘さと苦さが入り混じったような切ない余韻を、心地よく感じていた。

“夜に、必ず電話して”

昭人に言われていた言葉をハッと思い出したのは、間もなく日付が変わろうという時だった。

慌ててスマホを取り出し、私は目を疑う。そこには、30件を超えるLINE通知が残っており、そのすべてが昭人のものだったのだ。

瞬間的に、背筋がひやりと冷たくなった。

昭人がこんな執着を見せるのは、4年以上付き合ってきて初めてのこと。迫る試験に対する焦りなのか、それとも私の揺れる心を察知しているのか。

「ちょっと…ごめんなさい!」

とにかくすぐに、昭人に連絡しなければ。私は慌てて席を立ち、店の外に走った。追いかけてくる大谷の視線を感じたが、今はそれどころではない。

昭人には、今年こそ試験に受かってほしい。受かってもらわなければ困る。

こんな大事な時に、私のせいで彼の感情をかき乱すようなことはしたくない。それだけは、絶対に避けなくてはならないと思った。

もし、もしも。もしも昭人が今年も受からなかったら…。

私はもう、彼のことを待つ自信がなかったから。


昭人からの鬼LINEに怯える明日香。そしてそんな彼女を見た大谷が、意外な行動に出る


結局私は、閉店となり大谷と徹が店から出てくるまで、不貞腐れる昭人をなだめ続けた。

会場設営に思うより時間がかかり、食事の開始が遅くなったこと。お酒はほとんど飲んでおらず、酔っ払っていないこと。そのことを何度も説明して。

彼が渋々納得してくれたのと、徹が私に「ホテルに戻るぞ」と声をかけたのが、ほぼ同時だった。

「じゃあ、また明日連絡するね」

私は半ば一方的に電話を終わらせ、大谷と徹の後を追った。




崩れたバランス


「俺が9階で、大谷さんと三好は12階の部屋ね」

預けていた荷物を受け取っていると、徹がチェックインを終えてそれぞれにルームキーを配ってくれた。

私と大谷を同じフロアにしてくれたことに、理由があるのかないのか。ふとそんな疑問が浮かび、私はひとり首を振った。

何を考えているのだ、私は。

しかし3人でエレベーターに乗り、9階で徹が「じゃあ」と降りていってしまうと、急に緊張に包まれる。

一緒に仕事をしていれば、二人きりになる機会だってもちろんある。しかしオフィスフロアや会議室と、出張先のエレベーターはまるで空気が違った。

とにかく何か話さなきゃ。慌てて口を開こうとした瞬間、しかし先に声を出したのは大谷だった。

「さっきの電話、彼氏?」
「え…?」

思ってもみなかった質問に、私は思わず言葉を飲みこむ。

電話しているところを見られていることは知っていたが、まさか大谷が相手を気にしていたなんて。

そして何よりも私が驚いたのは、大谷の声に、まるで彼らしくない微かな苛立ちが滲んでいたことだ。

「あ…はい、そうです」

正直に答えたちょうどその時、エレベーターが12階に着いた。

私は戸惑いを隠すようにして開ボタンを押すと、大谷に「どうぞ」と声をかける。彼が「ありがとう」と小さく言って扉を出るのを待ち、私も後に続いた、その時だった。

おもむろに大谷が振り返った、次の瞬間。

ぐい、と身体を引き寄せられたと思ったら…私は大谷と唇を重ねていた。

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まさかの、大谷からキス…!?この後、二人はどうなってしまうのか。