東京には、全てが揃っている。

やりがいのある仕事、学生時代からの友だち、お洒落なレストランにショップ。

しかし便利で楽しい東京生活が長いと、どんどん身動きがとれなくなる。

社会人5年目、27歳。

結婚・転勤などの人生の転換期になるこの時期に、賢い東京の女たちはどんな決断をするのだろうか。

東京の荒波をスマートに乗りこなしてきたはずの彼女たちも、この変化にうまく対応できなかったりするものだ――。

前回は、医者家系に生まれ、自分の人生のレールが勝手に敷かれていることに反発していたが、何とか折り合いをつけた春奈を紹介した。今回はー?




<今週の東京の女>

名前:日香里
年齢:27歳
職業:飲料メーカー マーケティング
年収:550万
実家:名古屋市・老舗和菓子屋経営


File3:日香里の場合


テニス部同期との集合時間の5分前、新丸ビルの化粧室。

シャネルの赤リップか、エスティーローダーか…一瞬迷ったが、丸の内という土地柄を考え、万人受けする淡いピンク色のエスティーローダーを選ぶ。

口元にスティックを近づけようと腕を動かした途端、体のあちこちに実家の和菓子屋の匂いが残っている気がして、慌ててシャネルの香水を左手首にロールオンする。

自然に上がった風の長いまつ毛、シャドウで奥行を出した目元に、パウダーやペンシルで緻密に作り込んだ眉。どんなに完璧な「東京の女」のメイクを乗せていても、不安そうな表情をしている鏡の中の自分と目が合った。

思い出すのは、先週のこと。

高校の親友の結婚式のため、名古屋の実家に帰省した。リビングで華やかな披露宴の余韻に浸っていると、仕事を終えたばかりの和服姿の母が入って来た。

仕事はどうなの、としつこく聞いてくるから、マーケティングの仕事はきついけれど楽しいよと適当に答える。

母の着物は萌黄色。実家が経営する和菓子屋のブランドカラーだ。私の着ているフューシャピンクのワンピースが、毒々しく見えた。母は改まった様子で私の方を向き、言った。

「日香里、そんなに仕事が好きなんだったら、そろそろこっちの仕事も覚えたらどう?お父さん、お見合いの話も貰ってきてるし、明日の午前中に写真館の予約入れてたわよ。」

生返事をすると、母は語気をやや強くして続けた。

「女将の仕事、あなたは毛嫌いしているかもしれないけどね。責任もやりがいもある。気配りも決断力も必要。人にニコニコするだけだと思ったら大間違いよ。東京で駒になって働くより、あなたに向いているって思っているくらい。」

母の気迫には相変わらず敵わない。艶のあるロングヘアを和髪に結い上げ、背筋はピシリと伸びている。3代続く和菓子屋の、3代目社長夫人・女将としての風格は、60歳間近にして衰えるどころか増すほどだ。


生まれながらに家業を持つ者の、運命?プレッシャーを感じた日香里は…


母はまくしたてた。

「あなたの旦那さんになる人に勉強期間が必要だからって、叔父さんが4代目になってくれることが決まったけど、もうその次は誰もいないのよ。叔父さんだって3代目とそんなに歳も変わらないんだし、いい加減覚悟を決めてちょうだいな。みんながこんなにお膳立てしてるのよ」

母は仕事モードになると、父を3代目と呼ぶ。その父は60歳を過ぎ、その弟で専務だった叔父を4代目に指名した。

私はひとりっ子。1日でも早く私を跡継ぎとなる男と結婚させ、私を未来の女将にするのが、両親の強い望みだ。

結婚しなければ、私の未来の夫が継がなければ、実家の和菓子屋は無くなってしまう。そういうものなんだろうな、と子どものころから気付いてはいた。

でも、地元名古屋の大学を受験する時期が近づくにつれ、ぼんやりした未来が現実味を増していくのが怖くなった。慌てて東京の大学を受験し、25歳まで、と期限付きで東京に出させてもらった。

もう約束から2年も過ぎているのだ。両親の苛立つ気持ちもよくわかる。

東京に出て来たのは、最初は「実家の重圧からの逃げ」だったと思う。

というか今もまだ、逃げている。

東京で”夢のようなもの”があるから―
なんて、言えなかった。

結局、父が予約した写真館の時間よりも早い新幹線に飛び乗って、東京に戻って来たのだった。

母との会話を反芻した後、鏡の中の自分を見つめ直した。ピンクのチークを頬に乗せれば、「いつもの日香里」に見えるだろう。

いつものようにヒールを鳴らして、みんなとの待ち合わせに向かった。



「日香里、最近出会いはどう?」

満理奈が完璧なスマイルで聞いてくる。読者モデルの彼女は顔が広く、先日も商社マンを紹介してくれた。

「満理奈、この間はどうもありがとう!すっごく素敵な人で、御馳走になっちゃったよ〜」

いつもの私を軽く演じて、みんなに聞こえるように返事をする。

テニス部の集まりに参加すれば、私に振られる話題は新しい男との出会いのことばかりだ。




「食事会の女王」

ここ一年、私はそんな風に言われている。

どうせ地元に帰って親に勧められた人と結婚するのだから、25歳までの東京生活を思う存分楽しもうと決め、食事会にも行きまくっていた。

それに1年前に別れた彼が、とある食事会で出会った、一回り上のベンチャー企業の社長でインパクトが大きかったのだろう。すっかり“お食事会キャラ”と茶化されるようになった。

みんなは私が実家から結婚の圧を受けていることを知っているはずだ。知った上で、あえて茶化してくれている。そんな「何も言わない」という気遣いが有難かった。

「元彼の影響」というやつで、気が付けばファッションも持ち物も、彼が好きだったコンサバで女性らしいものばかり。体型やメイク、ヘアスタイルも抜かりなし。市場に出ればすぐに「釣れそう」な見た目になった。

でも釣れたとしても、長続きしない。どうせ将来が考えられない関係だから、付き合っているうちにモヤモヤして、うまくいかなくなる。

それに、もし付き合っている人が婿入りしてくれたとしても、私はもう、名古屋に帰りたくなくなっているのだ。


彼女が自分で描いた「夢」とは?


はじめて抱いた野心を試したい


ベンチャー社長の彼と付き合っているときに、私はある夢を抱くようになった。

東京でレストランをやりたい、と。

彼には自分では行けないようなお店にしょっちゅう連れて行ってもらった。

仕事が忙しくて日々張りつめていた彼が、青山の『Meilleur Avenir a Tokyo』での新鮮で美しい野菜料理や、『レストラン ヒロミチ』の見目麗しい魚料理を口に運んだ時、ふっと表情がほぐれてイキイキしていくのを感じたのだ。

いいな、と直感的に思った。

和菓子屋で育ってきた私は、“食”で人が元気になるところを見ると、とても嬉しく感じるのだ。

彼には他にもたくさんのレストランに連れて行ってもらった。そして私は、ますますその魅力にとりつかれていった。

和菓子屋を夫に継いでもらうのでは、「経営を支える」ことしかできない。人が料理を口にする喜びの瞬間を、この目で見ることも難しい。

なにより、名古屋ではなく東京でやりたい。目まぐるしいこの街で自分を試したい。全て揃ったこの街で、私の店を選んでくれる人に出会いたい。

といって、いきなり起業するほど、無鉄砲にもなれない。

経営の勉強や、調理師の資格。店の内装だって勉強したい。食のトレンドやコストの勉強のため、飲食業界への転職も検討し出した。

“夢”が生まれたのは人生で初めてだった。
不自由のない環境で育ち、野心が芽生えたことはなかった。

30歳までに、この夢が本当になるのか、自分の力で確かめたい。

保険として、実家の跡継ぎと結婚する人生を残しておくなど、あまりにも贅沢で驕りなのは自分でもわかっている。

だからここ最近、霧の中をゆくような気持ちだ。メイク乗りも悪いわけだ。

「どうしたの、日香里?変わった本読んで。」

隣に座っていた春奈が、こっそり耳打ちしてきた。

私のバッグから覗く本に目をやっている。朝から夢中で読んで、ここに来るまでの電車でも読み続けていた飲食店開業に向けたビジネス書だ。




ついさっき、誰よりも夫に愛されている専業主婦として、幸せな妊娠を発表した春奈。

大学の時と随分雰囲気が変わった彼女。独立心が強かった彼女が選んだ、家業と同じ医者一族の男性の妻、というポジション。

思案を重ね、妻という道を選んだのだろうと推測出来た。その苦悩を彼女は誰にも話さず、クールな振りをして結論を出してから、今日ここへやって来た。

私も、そうできたらいい。

一瞬悩んだ後、「ちょっとね、やりたいことがあるから、チャレンジしてみようかと思って」と春奈に伝えた。

「そうなんだ。好きにやったら答えが出ると思う。頑張ってね」

優しく微笑み、囁く。
なんだか、重みがあった。

直後、春奈はみんなとの会話に戻っていく。

好きにやったら答えが出る――もうちょっとだけ、ここで試させてもらおう。

あと3年。本当にこれで最後。
迷うのは終わりだ。

お正月に帰省するとき、両親を何とか説得しよう。

「ちょっとちょっと、今の話もう一回!」

貴美子と春奈と千鶴が笑い合っているところに入れてもらおうと、笑顔を作った。

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FILE4:出版社から独立した、千鶴の場合。