ジ・オリジナル・ニュー・ティンブラル・オーケストラ(TONTO)は、世界初のマルチティンバー・ポリフォニック・アナログ・シンセサイザー。スティーヴィー・ワンダーの伝説的なアルバムや70年代のヒット曲で使用された巨大なシンセの物語を紹介しよう。

21歳になったばかりのスティーヴィー・ワンダーはTONTOに会いたかった。当時、彼の頭の中には、テープに録音できない曲とサウンドの構想がいくつもあった。彼の友人が『Zero Time(原題)』というアルバムを貸してくれた。このレコードは世界最大で最先端のミュージック・シンセサイザーTONTOを使って録音されたもので、TONTOは「ジ・オリジナル・ニュー・ティンブラル・オーケストラ」の略語だ。

TONTOを影から操る人物は、アフロヘアのイギリス人マルコム・セシル。ベーシストからスタジオ・テックに転身したセシルは、マンハッタンの真ん中にある広告業界御用達のレコーディング・スタジオの階上に住んでいた。「ドアの呼び鈴が聞こえたから、窓から顔を出して誰が来たのか確認した」と、2013年にセシルが語った。階段を降りていくと、彼は「ピスタチオ色のジャンプスーツを着た黒人がいて、俺たちのアルバムを脇に抱えているように見えた」。その男こそスティーヴィー・ワンダーだった。

それから3年半の間、ワンダーはプロデューサー兼プログラマーのセシルとセシルのパートナーのボブ・マーゴーレフとのコラボレーションを続け、「クラシック期」と呼ばれるこの時期に『心の歌/Music of My Mind』、『トーキング・ブック/Talking Book』、『インナーヴィジョンズ/Innervisions』、『ファースト・フィナーレ/Fulfillingness First Finale』を生み出した。ある週末にTONTOを使って17曲をレコーディングしたワンダーは、指先で自由自在に奏でられる多彩なオーケストラ・サウンドのとりこになったのである。

洞窟内で響くようなMoogベースと、うねりのあるAPRシンセサイザーを組み合わせたTONTOサウンドは、ワンダーのシグネチャー・サウンドとして「迷信/Superstition」、「汚れた街/Living for the City」、「サンシャイン/You Are the Sunshine of My Life」、「レゲ・ウーマン/Boogie Reggae Woman」などのヒット曲を含む200曲以上で使われ、その多くがいまだにリリースされていない。

「私が(TONTOに)夢中になった理由は、頭の中にアイデアがあって、そのアイデアをみんなに聴かせたかったからだ」と、A&Eで放送されたドキュメンタリーでワンダーは言っていた。60年代後期から70年代後期まで10年以上の長い期間、TONTOは革新的なサウンドを数多く作った。

TONTOの恩恵に与ったアーティストには、アイズレー・ブラザーズ、ミニー・リパートン、ジョアン・ベズ、ドゥービー・ブラザーズ、クインシー・ジョーンズ、ランディ・ニューマン、ボビー・ウォーマック、ウェザー・リポート、ギル・スコット=ヘロン、デイヴ・メイソン、スティーヴン・スティルズ、リトル・フィート、ジェイムス・テイラー、ダイアナ・ロス、ハリー・ネルソンがいる。

着想から半世紀経った今、再びTONTOが表舞台に戻ってきている。TONTOは11月14日から1週間に渡って開催されるトリビュート・イベントのために4年間の修理を終えたばかりだ。今後TONTOはカナダのアルバータ州カルガリーにあるナショナル・ミュージック・センター(NMC)のスタジオ・ベルが新居となり、同センターが所有する2000を超えるアーチファクト、楽器、音楽テクノロジーを使用した機材コレクションの中で最も貴重な逸品となる。

セシルのパートナーのボブ・マーゴーレフがペヨーテでトリップしている最中に名前を決めたTONTOs Expanding Head Bandのアルバム『Zero Time(原題)』は、1971年にリリースされたときにエレクトロニカの大躍進を告げる作品となった。「LSDをやって、自分の気力で心臓を止められることに気付くような感じ……」と、1971年8月5日のローリングストーン誌にティモシー・クローズが記している。

シンセサイザーのMoogとARPを、ロシア人コンポーザーとジミ・ヘンドリクスのギター・テックから得た多岐にわたるカスタム・モジュールと組み合わせたのはセシルのTONTOが最初で、これがヴァーチャルなアナログ・オーケストラとなったのである。当時は世界で最先端のシンセサイザーであり、最も大きなシンセでもあった。高さ180cmの円形の機材で、直径7.5メートルまで拡張でき、重さは1トンあった。「あれ以来、このシンセが自分のライフワークなんだ」とセシル。

元英国空軍のレーダー技師だったセシルは、退役後BBCラジオの主任ベーシストを務め、ジンジャー・ベイカー、グラハム・ボンド、ジャック・ブルース、ロング・ジョン・バルドリー、チャーリー・ワッツなどが在籍したイギリスの初期のブルースバンドで定期的にベースギターをプレイしていた。彼が初めてシンセサイザーと遭遇したのは1968年のアメリカで、マーゴーレフと出会ったことがきっかけだった。

当時、マーゴーレフはMoog Series IIIcモジュールを購入したばかりで、これを使って彼の映画『イーディ:チャオ!マンハッタン』のサウンドトラックを完成させようとしていた。ちなみにこの映画の主演はウォーホールお気に入りの新星イーディ・セジウィックである。Moogの演奏方法を覚えたかったセシルと、レコーディング方法を覚えたかったマーゴーレフは、互いの利害が一致し、パートナーになることにしたのだった。

当時のMoogは難解な楽器で、これを最初に買ったのは経験豊富な作曲家か、広告用ジングルのライターだけだった。モジュールをフルセットで揃えると、価格は3万5000ドルを超えた。まだ原始的なMoogのスイッチボタンは自動車のイグニション・キーだった。二人は2台目のMoogと実験的なモジュールを幾つか購入し、セシルはオシレーターのチューニングを保ちつつサウンドをベンドするために、おもちゃのヘリコプターのジョイスティックを応急装備し、このMoogをタッチセンサー式の楽器に変えた。

この頃のTONTOは円形ではなく、スティーヴィー・ワンダーがグリニッジ・ヴィレッジにあるジミ・ヘンドリクスのエレクトリック・レディ・スタジオに居を構えたときのTONTOとは形が異なっていた。ワンダーがこのスタジオに住み始めたのはヘンドリクスが死去した直後で、彼のマネージメントがスタジオの存続のために一括契約できる人を探していたのだ。

スタジオのデザイナー、ジョン・ストリクは、このシンセ楽器を、彼がヘンドリクスのためだけに造った流動的なスタジオ――現在の彼はこのスタジオを「巨大な卵型の建物」と呼ぶ――のサイケデリックさを助長するものだと想像していた。また、ストリクは演奏するマーゴーレフとシセルの研究も行い、彼らの腕の長さを計り、二人のプログラマーが2歩以上歩かずに必要な回線をつなげられるように、この楽器をデザインしたのである。

のちにこの楽器を採用することになるディーヴォのマーク・マザーズボーは、TONTOを「モノフォニック・キーボード2台で4音のコードを弾くことができた。シンセでこれをやったのは彼らが最初だったし、70年代では本当にすごいことだった。カーブしたケースはすべて慎重に作られており、自分を取り囲むような形に配置できた。だからTONTOを演奏するときは、まるで自分が目玉の中にいる感覚だった」と説明した。

ワンダーの「迷信」はエレクトリック・レディで生まれた。この曲はもともとニューヨークに遊びに来ていたセシルの友人ジェフ・ベックのために書かれたものだったが、最終的にワンダーが約束を反故にしたのだった。「迷信」で使われている核となるキーボード・サウンドは、ワンダーのエレクトリック・キーボードをTONTOに通して出している。有名なベースラインはすべてTONTOのサウンドだ。

「迷信」はメインストリームでのシンセサイザーの可能性を示した最初の楽曲で、キーボードでコントロールする楽器がポピュラー・ミュージックにもたらす新たな音色の可能性を示唆したのだ。ワンダーはスタジオでほとんどの(ときには全ての)楽器を演奏するミュージシャンであり、TONTOの登場によって楽曲の最終的なアレンジも可能になった。キーボードを演奏するワンダーの背後でセシルとマーゴーレフが電話交換手のようにプラグを入れ替えながら、リアルタイムでサウンドをつなぎ合わせていた。

しかし、巨大なTONTOを設置する場所を見つけることが問題となった。エレクトリック・レディを使う人がどんどん増えて、スタジオスペースが必要になってきたのである。結局、スティーヴィー、ボブ、マルコムの3人は最終的に荷物をまとめてエレクトリック・レディを出る決断をし、ロサンゼルスへ移動した。そこでその後3年間住むことになる居場所を見つける。レコード・プラント・スタジオBがそれだ。

ロサンゼルスのレコード・プラントはクリス・ストーンとゲイリー・ケルグレンが建てた。彼らはニューヨークにある最初のレコード・プラントの創業者で、このスタジオは1968年にジミ・ヘンドリクス専用として作られたスタジオだった。1年間の通年予約の見返りとして、スタジオのオーナーたちはスティーヴィーの要求通りの新たなルームを建てることに合意し、このルームのデザインを依頼するためにニューヨークからジョン・ストリクを呼び寄せた。

このルームに設置されたものは、史上初の4チャンネル・ステレオ・サウンドのモニタリングシステム、初期の24トラックのテープマシン、そしてTONTOを設置するための独立したブースを設えた。ここには大量の楽器が置かれたのだが、驚くことにスタジオ・オーナーたちは、スティーヴィーの貴重なマスターテープを保管できる特設テープライブラリーまで建てたのである。

「あのルームが僕たちの人生を一変させた。あのスタジオでは間違いというのが一切なかった。つまり、あそこで作ったものは全てナンバー1ヒット曲として駆け上がったんだよ」と、マーゴーレフが当時を思い出す。「アルバムを作るという意識でスタジオに入ったことは一度もなかったね。とにかく音楽を作るぞ、楽曲のライブラリーを作るぞ、それだけだった」

このレコード・プラント自体が70年代ロサンゼルスの”セックス・ドラッグ・ロックンロール”というイメージの立役者だ。セッション中の密会に使われた有名なジャグジー、すべてのスタジオのコンソールに置かれた新品のカミソリ刃とピカピカの鏡、イーグルスの「ホテル・カリフォルニア」のモデルと噂されたスタジオの奥にあるホテル。そんな70年代をスティーヴィーはレコード・プラントで過ごしたのである。

その間に彼はスタジオの食堂にあったエアー・ホッケーをマスターした(これがきっかけで、スタジオ従業員はスティーヴィーは本当は目が見えるのではないかと疑い始めた)。そして彼のスタッフは「何も問題がないように振る舞ってくれ」と書かれたTシャツを着て、スティーヴィーの奇妙な行動を謝罪していた。マーゴーレフの記憶では、彼らが作業するのは常に夜間で、その作業時間は常軌を逸していたという。「みんな、スティーヴィー時間で動いていたのさ」と。

しばらくの間、ロサンゼルスのレコード・プラントはモータウンとR&Bコミュニティのたまり場となり、TONTOはクリエイティヴな呼び物として常に人気の的だった。クインシー・ジョーンズがアルバム『Body Heat(原題)』を作ったのはTONTOの横のスタジオCだった。また、スティーヴィーはミニー・リパートンのアルバム『Perfect Angel(原題)』の作業をここで行った。このアルバムにはヒット曲「Lovin You(原題)」が収録されている。さらに、当時スティーヴィーと結婚していたシリータ・ライトの複数のアルバムもここで制作した。さらにルーファス&チャカ・カーンに提供した「Tell Me Something Good(原題)」を含む複数の楽曲をここで作った。

ダイアナ・ロスとディオンヌ・ワーウィックのレコーディングでは、TONTOの超自然的なテクスチャーをサウンドに加えた。一方、この時期にスティーヴィー以外でTONTOのサウンドの限界を押し上げた人物はアイズレー・ブラザーズだ。彼らはヒット曲「That Lady(原題)」でマーゴーレフとセシルを起用している。当時マーゴーレフとセシルはスティーヴィーの『インナーヴィジョンズ』を同時進行で作業していたという。「神のご加護があったのさ。あれは本当に素晴らしい時期だった」と、マーゴーレフが回顧する。

同じ頃、TONTOはハリウッドでの注目度も上がっていた。TONTOとレコード・プラントのスタジオBは、1974年のブライアン・デ・パルマ監督のカルト映画『ファントム・オブ・パラダイス』の主要シーンで幾度となく登場し、フィル・スペクター風のプロデューサー(ポール・ウィリアムズ)が苦悩するファントム(・オブ・ロック・オペラ)を監禁し、薬漬けにしてロック・カンタータの完成を強要する。カナダのウィニペグで毎年ファントムパルーザを主催し、Facebookの公式ページも運営するロッド・ワーケンティンを始め、この作品のファンにとって「TONTOは映画のもう一つのキャラクター」らしい。この作品のストーリーでファントムが作ったカンタータはプロデューサーに盗まれる。それに同調したわけでもないだろうが、セシルは映画音楽に貢献するという約束を実行できなかったため、この映画でのTONTOの使用料を一度も支払われていない。

この約束の不履行は、同じ年にTONTOとスティーヴィー・ワンダーに訪れる必然的な分裂を予言していた。彼らの分裂が決定的となったのは、アカデミー賞の1974年度の最優秀アルバム賞を受賞した最高傑作『インナーヴィジョンズ』を完成させた直後だ。それが証拠に、グラミー賞授賞式の放送中に腕に抱えきれないほどの金色の蓄音機トロフィーを抱えたスティーヴィーは、受賞スピーチでマルコム、ボブ、TONTOに一切言及しなかった。

次回作の制作中にマーゴーレフとセシルは意を決して、それまでの印税をスティーヴィーに要求したのだが、結果としてこれが1年間を要した法廷闘争へと発展し、両者のコラボレーションが終わりを告げ、マーゴーレフにもセシルにも支払われるべき金額はないという判決が出た。スティーヴィー、ボブ、マルコムの間に書面に記された契約書がなかったことが原因だった。「契約がなければ印税もない」と、現在のセシルが言う。さらにスティーヴィーのスタッフがレコード・プラント内に保管していたテープを全て秘密裏に処分したことで、法廷で交わされる議論は現実的な意味を失ったのである。

『ファースト・フィナーレ/Fulfillingness First Finale』がTONTO期最後のアルバムとなり、収録された音楽には水面下で進行していた分裂が色濃く反映されている。この作品では、「レゲ・ウーマン/Boogie Reggae Woman」など、TONTOが数曲で登場するとはいえ、スティーヴィーがシンセよりも自身のバンド(ワンダーラヴ)と演奏する楽曲が多い。

マーゴーレフとセシルの分裂が起きたのは、ビリー・プレストン司会の「ミッドナイト・スペシャル」というテレビ番組で、TONTOの最初で最後のライブ・パフォーマンスを行ったあとだ。二人はテレビカメラの前でのライブ演奏に備えて24時間もかけて準備を行った。しかし、観客がスタジオに入り、照明が照らされ、スタジオの室温が上昇すると、TONTOのチューニングが狂い始めたのである。放送終了間際には二人の怒りが露わになり、彼らの不和を決定付け、結局はセシルがTONTOのマーゴーレフの持ち分を購入して袂を分かつことになった。

一時期、TONTOはカリフォルニアの海岸沿いにあるセシルのスタジオ、ポイント・デュームに置かれていた。このスタジオはジョー・ザヴィヌルやウェザー・リポートが使用し、ギル・スコット=ヘロンとパートナーのブライアン・ジャクソンも長期に渡って使用していた。のちにTONTOはディーヴォのマザーズボーが所有するサンセット・ブルバードにある黄緑色のスタジオ、ミューテイト・ムジーカに保管され、アニメ『ルグラッツ』のサウンドトラックに使用された。この頃にナイン・インチ・ネイルズなどの音楽的好奇心を満たす機材として使用されたこともある。

「みんな、スタジオにやってきて、1日かけて非常に面白いサウンドを一つ作り上げたものだよ。音が完成すると必ず『昔はこうやって作っていたのか? 俺は今のほうがいいな』と誰もが言ったものだ」と、マザーズボーが当時を振り返る。そして、マザーズボー自身も最初にTONTOを使ったとき、近代のシンセの象徴的な扱いだったことを認めた。

「TONTOを使いたいと思う人がいるのか? 1970年代に作られたアナログ・シンセを使いたいというのか? 同じサウンドを作れるラップトップがないのか? 同じ機能を持つiPhoneがないのか?」と、NMCの音響マネージャーのジェイソン・トーキンが芝居がかった言い方で問う。そして「その答えはイエスだ。TONTOと同じような機能を持つアプリをデジタル機器で使うことができる。しかし、初期のアナログ・シンセは今でも生き続けているんだ。このコンポーネントは45年間も回路に組み込まれているもので、当然風化しているし、経年変化もある。それが逆にサウンドに特別な何かをもたらすわけだ。不安定だからこそ、そこにオーガニックさがあるからこそ、アナログ・シンセのサウンドにはデジタルの模倣では実現できない音の忠実性を感じるんだ」と説明する。

マルコム・セシルはTONTOの終の棲家を見つけることを諦めなかった。スミソニアン博物館はコレクションの一つとして獲得することに興味を示したが、展示の約束も、現代のミュージシャンたちによって使用される約束も保証しなかった。この2点はセシルの必須条件だ。個人コレクターでTONTOを欲しがった人もいたが、セシルは19世紀に誕生した史上初のエレクトロニック楽器テルハーモニウムとTONTOが同じ運命を辿ることを懸念した。テルハーモニウムは創作者の相続人によって分解され、パーツごとに売られてしまい、その結果、姿を消してしまった。

そして2013年、カルガリーのナショナル・ミュージック・センター(NMC)はTONTOが売りに出されていることに気付いた。NMCでは楽器やサウンド・レコーディング機材を「実際に使用するコレクション」として展示の呼び物にしている(ローリング・ストーンズのモービル・スタジオなどもそうだ)。これらの楽器や機材は確実に使用できる状態でなくてはならず、未来のアーティストたちがこのテクノロジーを使って作業し、彼らの音楽にこのサウンドを取り入れられることを目指しているのだ。

NMCの名物シンセ・リストアラーのジョン・レイムジダーはここ4年間をTONTOの修復に費やし、1000以上のジャックを交換し、世界中からレア・モジュールを集めた。しかし、誕生から半世紀経って、やっと終の棲家を見つけたTONTOに悲しいニュースが待っていた。今年の9月、リストアを終えた直後にレイムジダーが66歳で他界してしまったのである。これはTONTOウィークが始まる2週間前のことだった。

イベントでは、NMCのレジデンス・アーティストであるカナダの先住民族グループA Tribe Called Redが、セシルとともにTONTOを使って新たな音楽を作る。レイムジダーの不在でTONTOの動作に神経質になっている同グループのティム・”トゥールマン”・ヒルが言う。「それがTONTOってものだよ。予測不可能で、人間的な感覚。だから存在感があるんだよ」と。