パンの素人が成功した、その意外な道のりとは…(撮影:尾形文繁)

食パンブームの火付け役のひとつ、大阪発の高級「生」食パン専門店「乃が美」が、11月15日、ついに東京に出店した。東京初となる出店先は、港区麻布十番だ。
麻布十番といえば高級住宅地として知られるが、表参道や六本木のような、流行の最先端を求めて人々が集う「飲食店の一等地」とは趣が異なる。閑静な住宅地に商店街、名物の十番祭りと、ローカルな雰囲気を残す街だ。
2013年に大阪で1号店をオープンして5年、1本800円の「生」食パンの人気は衰えることなく、現在、全国104店舗にまで広がった。2017年に続き、「Yahoo! 検索大賞2018 食品部門賞」の中間発表でもその名がノミネートされており、栄枯盛衰の飲食部門で2年連続受賞となれば、大変な快挙という。
快進撃を続ける「乃が美」だが、海外からの観光客にその味を試してほしいとの目的でオープンした大阪なんば店を除き、出店先に選ぶのは「ど真ん中」を外した場所ばかり。知名度十分の現在でも、この出店スタイルを変えないのはなぜなのか。「乃が美」代表の阪上雄司氏が、その立地戦略について語る。
※本稿は、阪上雄司『奇跡のパン 日本中で行列ができる「乃が美」を生んだ「超・逆転思考」』(KADOKAWA)を再編集したものです。

なぜ、東京が最後だったのか

2013年に大阪で生まれた「乃が美」が、東京初の店舗、東京麻布十番店をオープンした。これまで全国で100店舗以上も展開していながら、東京には1軒も店がなかった。

「乃が美」の総本店は、近鉄奈良線の大阪上本町駅から歩いて5分の場所にある。駅近ではあるが、わかりやすい立地ではない。工場を併設した小ぶりな店は、本通りから1本入った裏路地にある。が、創業5年が経つ今でも、この路地には毎朝早くから何十人もの行列ができる。

ひとつの工場で一度に焼けるパンの数は、30〜40本。窯をフル稼働して1日約800〜1000本。それが、またたく間に完売となる。2013年にこの1号店を、翌年には西宮市に2号店を開いた。こちらも駅近ながら、ごくごく普通の住宅地。「街中」には程遠いこの場所にも、人が集まってくる。行列が立ち並んだかと思うと、やはりすぐに売り切れる。

この数年、ありがたいやら驚くやらの連続だった。その驚きは、新しい店を出すごとにますます大きくなった。1店成功するたびに、「次もいけるんちゃう?」と思う。トライすると、「めっちゃいけるやん!」という結果が出る。それがまた次の「いけるんちゃう?」になり、「いけるやん!」になり……。2018年、乃が美は全国45道府県に104店舗を構え、1日に5万本以上のパンを売る会社になっていた。


阪上 雄司(さかがみ ゆうじ)/乃が美 代表。1968年、兵庫県生まれ。高校卒業後、(株)ダイエー入社。飲食部門の責任者を務め、26歳で飲食店を開業。20年間にわたりさまざまな飲食店を経営。2007年、大阪プロレス代表取締役会長に就任。老人ホームの慰問をしている際に「子供からお年寄りまで、みんなが美味しく食べられる食パンを作りたい」と思いつく。パンの素人でありながら2年以上の月日をかけ、2013年、高級「生」食パン専門店「乃が美」を創業。5年で全国展開し、1日5万本売れるパン屋に育て上げる

45「道府県」。怪訝に思われた方もいるだろう。そう、乃が美は全国制覇の最後の最後まで、東京に出店しなかった。全国ほとんどのエリアで手に入る「乃が美」の「生」食パンは、「東京だけが知らないパン」としても知られていたのだ。

「なんでそんなイケズ(関西弁で「意地悪」の意)すんねん」といわれれば、地元で成功して東京に打って出て、たちまち失敗するという「飲食店のよくあるパターン」にはまりたくなかったからだ。

「お年寄りから子供まで、みんなが食べられて、笑顔になれる食パン」を作ろうと心に決めたとき、僕はパンについてまったくの素人だった。

それまでの20年間は、商売人としての試行錯誤の道のりでもあった。20代から、居酒屋や焼き肉バイキング、携帯電話販売までさまざまな商売を手掛けてきた。2007年からは、大阪プロレスの会長も務めている。

さまざまな商売でさまざまな壁にぶつかった。壁を一つひとつ乗り越えたあとで、まったく新しい食パンの構想を思いついた僕は、20年間で積み重ねてきた「常識」をすべて捨てることにした。

うまくいかない言い訳から逃れるためには

世の中で、商売で、当たり前だとされていることをすべて捨てないと、僕の頭の中にあるパンも、パン屋も、作れないと思ったからだ。常識を捨てた最たる例が、立地戦略だ。

飲食チェーンを展開していたとき、僕のなかで立地は最重要項目だった。駅から近いか、メインストリート沿いか、そもそもそこは「栄えている街」なのか。

ところがこの立地主義で、さんざん失敗した。ミナミのど真ん中に店を開いて潰してしまった経験もある。大阪プロレスの選手も動員してにぎにぎしくアピールしたのに、1年も経たずに撤退した。何をしてもうまくいかなくなって焦っていた時期の、苦い思い出だ。

商売が軒並み不調に陥ったころ、僕は「言い訳」ばかりしていた。「ちょっといい場所に店を作れても、もっといい場所に競合ができたらすぐ負ける」。あるいは「向こうのほうがオシャレ」「向こうのほうが広い」などなど、言い訳はいくらでもできた。その繰り返しは、もうコリゴリだった。

そして僕は、「乃が美」の1号店を、飲食店経営の常識に照らせば不便なところ、そう、三等地に出した。

「飲食店の三等地」を探し歩いた理由

パンの開発中、並行して店舗の場所探しを始めた。僕がこのパンを「人生最後の仕事」にしようと思っていたことは、場所の条件設定に大きな影響を与えた。「一発当てたろ」でも「どでかく儲けたろ」でもない、地道に一歩一歩を刻むような商売ができる街に出店したかった。そこで最も重要なのは、飲食店にとっての「三等地」であることだった。

理由は、「乃が美」の味で勝負する必要があったからだ。耳まで柔らかく、ほんのりと甘いパン。この味がどれだけ人の心をつかむかを見極めたかった。

どこまで「ほんまもん」になれるか。それを知るには、立地やカッコよさや奇抜さなどといった付随的要素で「下駄」を履かせてはいけない。そういう混ざりものは徹底的に濾過して、パンの価値だけで勝負する。

それでも選ばれ続けられるような力がなければ、この激流ともいえるような時代を生き抜くことは絶対にできない。飲食店のはかない一面は身に染みて知っている。焼き肉屋を襲ったBSE問題をはじめ、世の中には不測の事態というものが必ずある。また、飲食業界の流行の移り変わりは眼が回るほどだ。あんなに流行っていたあの店が、いつの間にか姿を消し、別の店に取って代わられる……日常の光景だ。

そうした荒波にもまれてきた私は、「乃が美」を「ほんまもんの商売」にするために何が必要か、痛いほどわかっていた。大勢の人がいる一等地に華々しくオープンしては測れない価値。この食パンにその価値があるかどうかを、確かめなくてはならない。

飲食店にとっての三等地からスタートするこだわりは、そんな覚悟の表れだった。梅田ではない、なんばでもない。大阪で商売をする人間なら誰もが意識するミナミやキタとは違う、閑静な住宅街。そういう場所を探し歩いた。

はるか昔、僕が携帯電話のショップ展開をしていたころのエピソードだ。1990年代、携帯電話は爆発的な普及期にあり、僕は知人の紹介で携帯電話ショップの経営に乗り出したのだ。またたくまに30店舗近くまでチェーンを広げ、全国を回る機会も多くなった。都会では店舗が飽和してきて、ショップ経営者の目は地方に向き始めていたのだ。

その中で、貴重な経験をした。香川県の高松駅前にショップを開く権利を得て訪れた際、現地の方が讃岐うどんのうまい店に連れていってくださったのだ。山奥の、とてつもなく不便な場所にあるが、超人気店なのだという。

たしかに遠かった。最寄り駅との距離は徒歩40分、周囲は見渡す限りの田畑と、ポツリポツリとある民家のみ。ところが店の前には、何十人もの行列ができていた。並ぶ人みんなが楽しみに自分の番を待つ、並ぶ時間さえも「これこれ!」と思えるような、そんな雰囲気の行列。

食べると、たしかに素晴らしい。これは遠くから人が集まるはずだ、と思った。僕自身もその後、大阪からこの店まで何度も足を運んだ。

その後の讃岐うどんブームを経て、さらに有名になったその店の名は「山越うどん」。うどん通の方なら「『釜玉うどん』発祥の店ね」とピンと来られるだろう。この店はもともと製麺所で、卸が中心だったという。しかし麺は当然、打ちたてがおいしい。そこで飲食スペースを併設したところ、あの行列ができた。

「ほんまもんの商売」というキーワードを思うときに必ず蘇ってくるのが、この店の記憶だった。どんな場所にあっても、本当においしい食べ物のもとには人が集まる。1杯150円(当時)の「かけうどん」のために、全国の人が何千円、ときに何万円の交通費をかけて瀬戸大橋を渡るのだ。

あの店のように、お客様に愛され、わざわざ来てもらえる店にしよう……と思ったが、本当に山奥に店を作ってしまうわけにはいかない。そこで、大阪市内の「住宅地」を探したのだ。本通り沿いではない場所で、なおかつ車で遠くから来る人が、数分車を止めていられる程度の道幅がある場所がいい……。そう考えて市内をあちらこちらと見て歩いていたところ、上本町という街に行き当たった。

近鉄の難波駅から2駅、駅は近鉄百貨店直結と、都会ではある。しかし、ミナミやキタのように人が集まる街ではない。駅前のメインストリートから、なかに1本入ってみた。すると、人通りがぐっと少なくなる。そこにおあつらえ向きの物件があった。

この小ぶりなスペースに、工場を併設したパン店を開いたらどうなるだろう。地域の人しか通らない裏路地に、行列ができる様子を頭に思い浮かべた。1年かけて、毎日行列ができる店になった。今でもこの店は「『生』食パン発祥の店」として皆さんに愛していただき、全国104店舗中トップクラスの成績を誇っている。

素人集団だから逸脱できた

パンについて何も知らなかった僕らが、なぜここまで多くの方に受け入れられるパン屋を作れたのか、とよく聞かれる。そのつど、「何も知らなかったからこそ、できたんです」と答える。


「乃が美」のパンの開発を手掛けた当社の中井はパンの素人だった。僕もパン店経営の素人だった。それゆえに苦心惨憺したし、開店までは泥縄の連続だったし、その後も常識破りなことばかりしてきた。

でもこれこそが、「誰もしなかったこと」をするための必須の要素だった。経験豊かなプロが考えたら、ここまで無茶はできなかっただろう。僕も飲食店経営のプロだったころ、こんな無茶はしなかった。

しかし、プロが陥る「常識の限界」をいやというほど味わった僕は、この事業を始めるとき、それまでのすべての「当たり前」を捨て、「逆を行こう」と思った。「パンの味だけで勝負しよう」というその覚悟が、セオリーを無視した立地戦略をはじめとする数々の挑戦を可能にしたのだ。