ダイアナ妃をお忍びでゲイクラブに連れ出したエピソードやセックス・ピストルズとの対立、マイケル・ジャクソンとのコラボレーション、そして秘密にされた埋葬地まで、クイーンのシンガーであるフレディ・マーキュリーの知られざる一生を追う。

「Lover of life, singer of songs」クイーンで時間を共にしたブライアン・メイによるシンプルな追悼の言葉は、”フレディ・マーキュリー”として世界的に知られる複雑な人物を的確に表現している。「悔いのない人生を送った彼が、この言葉に集約されていると思う」とメイは、BBCのドキュメンタリー番組で語っている。「彼は寛大で優しく、時には短気な人間だった。それより忘れてはいけないのが、彼が一生を捧げると決めていたもの。音楽を作ることだ」。

英国保護領だった東アフリカのザンジバルで生まれたフレディ・マーキュリー(本名:ファルーク・バルサラ)の溢れんばかりの才能は、彼のみなぎる活力や華麗さに決して引けを取らなかった。それらは全てクイーンの楽曲制作に注がれ、素晴らしいライブ・パフォーマンスの記録でうかがい知ることができる。生前、彼の持つ4オクターブの声域は、科学者たちもその複雑さや素晴らしさの秘密を明かそうと研究したほどで、通常のロックシンガーが出せる限界を超えていた。彼の死後は、その声はAIDSに苦しむ多くの人々の声となった。

フレディ・マーキュリーがこの世を去ってから25年を迎える2018年、マーキュリーが遺した知られざるいくつかのエピソードを紹介する。

1. クイーンの作品よりも前にザ・ロネッツやダスティ・スプリングフィールドのカヴァーをリリースし、ゲイリー・グリッターを模倣した

クイーンのレコード・デビューに先立ち、マーキュリーはバンドの2人の協力でソロ・レコードをリリースしたが、そこには思い上がった様子も見られた。1973年初頭、まだ駆け出しだったバンドは、ロンドンにあるトライデント・スタジオでデビュー・アルバムのレコーディングを行っていた。デヴィッド・ボウイやザ・ビートルズらも使用した最新機器の揃うスタジオだった。まだ無名に近かったクイーンは当然、ピーク時間を避けた午前3時〜7時の時間帯の使用のみが許された。「彼らにはいわゆる”ダークタイム”を割り当てられていた」とプロデューサーのジョン・アンソニーは、伝記作家マーク・ブレイク著『Is This the Real Life? The Untold Story of Queen』の中で証言している。「エンジニアが好みのバンドのプロデュースをしたり、従業員が好きに使えた時間帯だった」

ある晩、スタジオが空くのを待っていたマーキュリーの元に、トライデントのハウス・エンジニアをしていたロビン・ジェフリー・ケーブルがやってきた。ケーブルは当時、レコード・プロデューサーのフィル・スペクターによる有名な”ウォール・オブ・サウンド”スタイルの再現を試みていたが、クイーンのシンガーの声が、彼のプロジェクトに完璧にマッチすると考えたのだ。その話を受けたマーキュリーはブライアン・メイとロジャー・テイラーに演奏を依頼し、ロネッツの『アイ・キャン・ヒア・ミュージック』(当時ザ・ビーチ・ボーイズもカヴァーしていた)と、キャロル・キングとジェリー・ゴフィンの作品でダスティ・スプリングフィールドのバージョンで有名な『ゴーイン・バック』をレコーディングした。

クオリティは十分だと判断したケーブルは、正式なリリースを提案した。マーキュリーは同意したが、クイーンのデビュー・アルバムの完成も間近だったため、混乱を避けるためにペンネームの使用を主張した。結局彼は、ラリー・ルレックスという風変わりな名前を選んだ。本人はゲイリー・グリッターへの”個人的なジョーク”だとしている。グリッターは当時の英国チャートに君臨していた。苗字の”ルレックス”は、グリッターをはじめグラム・ロックのスターたちが愛用したボディスーツに使われていた金属糸のブランドから借用された。

性犯罪により投獄され世間からの信用を失う数十年前、グリッターは多くのファンという武器を振りかざしていた。グリッター・ファンの誰もマーキュリーの繰り出すジャブなど気に留めなかった。彼らは腹いせにマーキュリーのレコードの購入を拒み、多くのDJは曲をかけるのを断った。ラリー・ルレックスの最初で最後のシングルは1973年6月の終わりにリリースされたものの、完全に失敗に終わった。その1週間後にリリースされたクイーンのファースト・アルバムの売れ行きは、ソロ・シングルよりはましだった。

マーキュリーはバンドに精力を注ぎ続けたものの、ラリー・ルレックスの失敗については、自分の主義に反するとして腹に据えかねていた。「素晴らしい作品だったと信じている」と彼は後に語っている。「実際に、どんなパフォーマーでもコピーされたら最高の栄誉のはずだ。相手を持ち上げるためのひとつの方法で、ただちょっとふざけただけだ。とにかく、そのどこに問題があるんだ? エルヴィス・プレスリー以降は皆パロディってことになるだろ?」

この時の失敗も、マーキュリーとケーブルの関係には影響しなかった。翌年のセカンド・アルバム『クイーンII』のレコーディング中、マーキュリーはエンジニアに、『ファニー・ハウ・ラヴ・イズ』で”ウォール・オブ・サウンド”スタイルを採り入れるよう依頼した。

2. マーキュリーが”クイーンの紋章”をデザインした

”クイーン”の名前がフレディ・マーキュリーの考案だということには何の驚きもない。バンド名の候補には、”ビルド・ユア・オウン・ボート”、”ザ・グランド・ダンス”、”ザ・リッチ・キッズ”なども挙げられていたが、いずれもシンガーのビジョンに叶うものではなかった。「クイーンのコンセプトは、威厳を持ち壮大であることだ。僕らはダンディでいたいんだ。インパクトのある斬新なバンドでありたい」と彼は、英国の音楽専門週刊誌メロディ・メイカーに語っている。クイーンは期待通りの道を歩んだ。

マーキュリーはバンド名だけでなく、王家の紋章をイメージした特徴あるロゴもデザインした。ロニー・ウッドやピート・タウンゼントも通ったロンドンのイーリング・アート・カレッジで技術を磨いた彼は、デビュー・アルバムのジャケット用に紋章を描き始めていた。ロゴは、4人のメンバーそれぞれのゾディアック・サインをモチーフにデザインされている。ジョン・ディーコンとロジャー・テイラーは2匹の獅子で、ブライアン・メイは蟹。マーキュリー自身は2人の妖精で表現しているが、乙女座をイメージしたものだと彼は主張している。上部には希望と復活のシンボルである不死鳥が大きく描かれているが、これはマーキュリーが卒業したセント・ピーターズ・スクールの紋章から借用している。ロゴの中心部にはエレガントな”Q”の文字が描かれ、当然その中には王冠が配置されている。

3. マーキュリーがデヴィッド・ボウイのためにステージを組み上げ、ヴィンテージのブーツを買い与えた

世界的にヒットした1981年の『アンダー・プレッシャー』でボウイとマーキュリーが共作したことは有名だが、2人の関係は無名時代の1960年代後半にまで遡る。当時少しだけ売れていたボウイが、イーリング・アート・カレッジでランチタイムの小さなライヴをブッキングされた。マーキュリーは喜んでボウイの荷物運びを手伝うなど、彼の後をついて回った。そこでボウイはマーキュリーに、何台かのテーブルを付けて簡易ステージを作らせたのだ。

それから間もなく、マーキュリーとロジャー・テイラーはケンジントン・マーケット内に屋台をオープンし、ヴィンテージの衣類を売り始めた。音楽活動の収入では生活が厳しかったのだ。「僕らはエドワード7世時代の古い服を着込んだ。怪しい業者からシルクのスカーフをどっさり仕入れ、アイロンでシワを伸ばして売ったんだ」とテイラーは、作家のブレイクに語った。ブライアン・メイ自身は、仕入れた衣類にそれほど興味を持たなかったことを覚えている。「フレッド(マーキュリー)は仕入れた大量のものを家へ持ち帰り、酷い布切れを引っ張り出して言うんだ。”この美しい服を見てくれよ! これは金になるぜ!”と言うから俺は言ったんだ。”フレッド、それはただのボロ布だぞ”」

マーキュリーとテイラーには商才がほとんどなかったため、通りの向かい側で衣類の屋台を仕切っていた親切なアラン・メアという男が、結局彼らを雇うことにした。「彼はいつでもてきぱき働き、とても礼儀正しかった」とメアは、BBCのドキュメンタリー番組『Freddies Millions』でマーキュリーの印象を語っている。「誰からも彼に対してクレームは出なかったし、彼の態度には全く問題がなかった。いつも少し遅刻して来たが、そんなことは問題にならなかった」

メアは、ボウイの初期のマネジャーと知り合いだった関係で、ある日、将来のスターマン本人が彼らの屋台に姿を現した。「『スペイス・オディティ』は売れたが、彼曰くまだ貧乏だった」とメアは、ブレイクの著書『Is This The Real Life』の中で述べている。「”それが音楽ビジネスだ!タダで持っていけ”と私が言うと、フレディがボウイに1足ブーツを見繕った。一介の店員だったフレディ・マーキュリーが、ポップスターのデヴィッド・ボウイが買えなかったブーツを奢ってやったんだ」

4. 図らずもセックス・ピストルズの大ブレイクのきっかけを作ったマーキュリーだが、恐らくは後悔していた

1976年12月1日、クイーンはニュー・アルバム『華麗なるレース』の告知を兼ねて、夕方のトークショー『Today with Bill Grundy』への出演が決まっていた。ところがマーキュリーが15年ぶりに歯医者へ行かねばならなくなったため、バンドのレーベルだったEMIは、当時新たに契約したセックス・ピストルズを代役に立てた。番組側が楽屋に用意した飲み放題のアルコールが、ただでさえ手に負えないパンク・ロッカーたちを、さらにやんちゃにした。ピストルズのメンバーに劣らず酔っていたとされる挑戦的なビル・グランディに乗せられたスティーヴ・ジョーンズとジョン・ライドン(別名ジョニー・ロットン)は、Fワードを含む放送禁止用語を連発した。

大ロンドン地域のみの放送だったにもかかわらず、メディアからの即座の反発により、セックス・ピストルズは全国的な注目の的となった。デイリー・ミラー紙の1面には”卑猥と憤激!(The Filth and the Fury)”の文字が踊り、その他多くのタブロイド紙も一斉に取り上げた。怒り狂ったあるトラック運転手が、テレビを破壊したという伝説もある。ロンドン市議会の保守系議員たちは、セックス・ピストルズを”吐き気を催す”ような”人類のアンチテーゼ”と表現した。直後に予定されていた英国内でのアナーキー・ツアーの多くはキャンセルされたり反対運動が起きたが、メディアが根掘り葉掘り取り上げたため、かえって彼らの人気は高まった。

スーパースターバンドを常に馬鹿にしてきたセックス・ピストルズは、特に華麗で壮観かつ演奏技術の高いクイーンを軽蔑した。そういった感情はお互いのバンドが持っていたようだ。マーキュリーは、ピストルズのラフなロックを決して気に入ることはなかった。「マーキュリーは、”パンクに関して全く理解できない”と言っていた」と、あるEMI幹部は伝記作家のブレイクに証言している。「彼にとってパンクは音楽ではなかった」

1977年、ロンドンのウェセックス・スタジオでクイーンは、デビュー・アルバムをレコーディング中のセックス・ピストルズと鉢合わせした。「廊下で偶然彼らに出くわしたんだ」とメイは、ブレイクに語った。「僕はジョン・ライドンといくつか言葉を交わしたが、彼はとても礼儀正しい人間だった。僕らは音楽について話をした」。

しかしロジャー・テイラーは、ピストルズのベーシストに対してどうしても敬意を払えないようだった。「シド(ヴィシャス)は馬鹿だ。彼は間抜けだ」とロジャーは、ドキュメンタリー『輝ける日々(Queen: Days of Our Lives)』の中で振り返っている。ある時ヴィシャスが酔っ払ってクイーンのスタジオにフラフラとやってきて、「まだバレエを普及できてないのか?」とマーキュリーに絡んだ。シドは、その直前にマーキュリーがNMEのインタヴューで豪語していた話を持ち出したのだ。

マーキュリーはそう簡単にシドの挑発に乗らなかった。「彼のことを”サイモン・フェロシアス”とか何とか呼んだら、それを彼は気に入らなかったようだ」とマーキュリーは後にテレビ番組のインタヴューで語っている。「僕が”だから何が言いたいんだ?”と言うと、彼は怒り狂った。さらに”今日、鏡をちゃんと見ながら自分に(カミソリで)文字を刻まないと、明日、違うもの(something else)が刻まれていることに気づくぞ”と言うと、彼は僕のそんな言い回しも気に食わなかったようだ。僕らは試練を乗り越えたようだ」。

5. ロイヤル・バレエ団との共演

セックス・ピストルズは知る由もなかっただろうが、マーキュリーは「バレエを普及する」と自分で宣言したことを実現しようとしていた。1979年8月、ロイヤル・バレエ団のプリンシパルだったウェイン・イーグリングは、チャリティ公演で共演できる特に身体に柔軟性のあるスターを探していた。ケイト・ブッシュに辞退されたイーグリングは、マーキュリーに目を付けた。

当初、マーキュリー側のリアクションは前向きではなかった。「(自分を誘うとは)彼らは気が狂っている」と思ったという。しかし結局、EMI代表だったジョセフ・ロックウッド卿と話し合った結果、出演のオファーに興味を持つようになった。ロックウッドは、たまたまロイヤル・バレエ団の理事長でもあった。「フレディはバレエ全般に興味を持っていたが、ロックウッドが彼のやる気に火をつけた」と、クイーンのマネジャーだったジョン・リードが、ドキュメンタリー『The Great Pretender』の中で語っている。「彼は壮大なスケールに魅力を感じた。そしてフレディのパフォーマンスも壮大だった」という。完璧な組み合わせだったのだ。

クイーンのステージにおけるマーキュリーのパフォーマンスはスポーツのようだったが、バレエに関しては、そこそこのレベルへ達するまでに激しいリハーサルが必要だったろう。「バーを掴んだり脚を伸ばしたりしてひと通り練習させられ、彼らが何年もかけて修得したことを1週間でやろうとした」と、マーキュリーはロンドン・イヴニング・ニュース紙に語っている。「過酷だった。練習を始めてから2日目で既に苦しかった。それまでに経験したことのなかった身体の部分に痛みを感じた」

マーキュリーは1979年10月7日、ロンドンのコロシアム・シアターに集まった2,500人の後援者たちの前で、華麗なデビューを飾った。彼はオーケストラの生演奏をバックに、上半身裸の3人の男たちに高々と持ち上げられながら『ボヘミアン・ラプソディ』と、クイーンの間もなく発表されるシングル『愛という名の欲望』を歌った。パフォーマンスの最後に銀のボディスーツに身を包んだマーキュリーは、難易度の高いフルボディのフリップを披露した。

「あんなことをやってのけられるのは、世界中でただ一人だ」と観客席にいたロジャー・テイラーはブレイクに語った。「フレディは、平均年齢94歳の堅苦しいロイヤル・バレエ団の観客の前でパフォーマンスした。彼らは、目の前のステージ上で宙に放り投げられている銀色をしたものがいったい何なのか、理解できなかっただろう。とても勇気のいることだったろうし、かなり盛り上がった」

マーキュリー自身は、その時のことをユーモアたっぷりに振り返っている。「バリシニコフには及ばなかったが、歳の行った初心者にしては悪くなかった。ミック・ジャガーやロッド・スチュワートにもやって欲しいよ」

6. 『愛という名の欲望』は入浴中に書いた曲

1979年6月、クイーンは後に『ザ・ゲーム』としてリリースされるアルバム製作のために、ミュンヘンに滞在していた。マーキュリーは豪華なバイエリッシャー・ホーフ・ホテルへチェックインし、旅の疲れを癒すために風呂に浸かった。その時、あるメロディが彼の頭に浮かんだ。しゃっくりのようなロカビリー・ナンバーで、やや皮肉の混じった曲だった。少年マーキュリーのヴォーカルに大きな影響を与え、数年前にこの世を去ったエルヴィス・プレスリーに対する愛のこもった曲だった。マーキュリーはアシスタントのピーター・ヒンスに頼んで、部屋へアコースティック・ギターを持ってこさせた。バスタオルを巻いて、彼にしては珍しくシンプルな楽曲の骨格をおぼつかないギターで組み立て始めた。

「『愛という名の欲望』は5分か10分で書き上げた」と1981年にマーキュリーは、メロディ・メイカー誌に明かしている。「上手くもないギターで作ったんだ。僕はコードを2つか3つしか知らないという制限があったから、かえって良かった。限られた狭いフレームワークの中でシンプルに作る必要があった。コードが大量にあっても処理しきれなかっただろう。だから制限があったおかげで良い曲が書けたんだと思う」

曲の骨格ができあがったところで彼はエンジニアのレインホールド・マックにレコーディングの準備をするように伝えると、すぐにミュージックランド・スタジオに籠もった。「大急ぎで準備しなければならなかった」とマックはドキュメンタリー『輝ける日々』で語っている。メンバーも招集されたがメイだけが遅れていた。しかしマーキュリーはメイを待とうとしなかった。それどころか彼はメイの完璧主義からしばらく解放されるとわかって、少しホッとしていた。「マーキュリーは、”ブライアンが来る前に早く仕上げてしまおう。奴が来ると長丁場になっちまうから”と言っていた」と、マックは笑う。

案の定、メイがスタジオへ到着した頃にはほとんど終わっていた。「ブライアンは気に入らないだろうな」と誰かが言うのをマーキュリーは耳にした。その通り、メイは気に入らなかった。当初、彼には何か訴えるものが感じられなかった。しかも使用するギターを、彼のトレードマークである”レッド・スペシャル”(それまでクイーンのレコーディングのほとんどで使用していた)から、より1950年らしいフェンダーのテレキャスターに持ち替えるよう言われたことで、余計にムッとしていた。「俺は面白くなかった」とメイはブレイクに語った。「俺は初めは抵抗したが、これも正しいやり方だということがわかった」

その通り、1979年秋にシングルとして先行リリースされた同曲は、世界中のチャートで1位を獲得した。「その頃はまだアルバムが完成していなかったので、僕らはレコーディングを続けていた」とテイラーはドキュメンタリー『輝ける日々』の中で振り返る。「ミュンヘンの街へ出かけると、誰かが来て言ったんだ。”アメリカで第1位になった”ってね。それで僕らは”やったぜ乾杯だ!”って感じだった」

7. ダイアナ妃を変装させ、ゲイクラブへ連れ出した

1980年代半ばまでにクイーンは、バンドの名前(クイーン)を超えて王室と近い関係になっていた。マーキュリーは、後にウェールズ公妃となるレディ・ダイアナ・スペンサー時代から友人関係にあった。”庶民のプリンセス”は、その飾らない物腰で国民から愛された。しかし常にメディアに追い回されることは、若き王室の一員にとって大きな負担となっていた。そこでマーキュリーは、彼女を夜の街へ連れ出そうと計画した。

女優のクレオ・ロコスが2013年に出版した回顧録によると、ダイアナとマーキュリーは英国のコメディアン、ケニー・エヴェレットの自宅で午後を過ごしていた。シャンパンを飲みながら、テレビ番組『ザ・ゴールデン・ガールズ』の再放送を音を消して流しながら、セリフを卑猥な言葉に置き換えてふざけていた。その晩の予定を尋ねるダイアナに対しマーキュリーは、皆でロイヤル・ヴォクスホール・タヴァーンへ行く予定だと答えた。ロンドンで最も有名なゲイクラブだった。プリンセスは一緒に行って発散したい、と言った。

ロイヤル・ヴォクスホールは乱暴な連中が集まることで有名で、常連客同士でよく喧嘩が起きていた。プリンセスに適した場所ではなかった。「私たちは反対したの。”もしもあなたがゲイバーでの喧嘩に巻き込まれたりしたら、明日の見出しはどうなることでしょう?”」と言うロコスに対しダイアナは、すっかりいたずらっ子モードになっていた。そこでフレディが言った。「よし、このお嬢さんを楽しませてやろう」

計画を成功させるためには、変装が必須だった。エヴェレットは、自分が着ようと思っていた服を彼女に提供した。彼女はアーミージャケットを羽織り、黒の飛行操縦士用メガネをかけ、レザーキャップで髪を隠した。「薄明かりの下で、現代の世界で最も有名な人物は、風変わりな格好をしたゲイの男性モデルっぽく見えた」とロコスは振り返る。

彼らはダイアナを、誰にも気づかれずにどうにかバーへ忍び込ませた。マーキュリー、エヴェレット、ロコスの方に気を取られた客たちは、変装したプリンセスのことなど全く気に留めなかった。そのため彼女は自分自身でドリンクをオーダーできるほどだった。「レザーを着た人だかりの中を少しずつ移動しながら、どうにかバーまで行き着いた。私たちはいたずらな小学生のように、お互いを突きあった。ダイアナとフレディはクスクス笑い、そして彼女は本当に白ワインとビールを自分でオーダーした。オーダーし終えた時、私たちはお互い目を合わせて、皆で冒険の旅の勝利を喜んだ。やった!」

あまり図に乗らず、彼らはわずか20分程でその場を後にした。しかしダイアナにとって、短時間でも有名人の重荷を取り除けたことは、貴重だった。「またやらなくちゃ!」と、彼女はケンジントン宮殿への帰り道も興奮していたという。

1990年代初めにマーキュリーとエヴェレットが、AIDSが原因で相次いでこの世を去ると、ダイアナは英国AIDS基金の後援者となった。同基金は、英国を代表するAIDS患者支援組織のひとつだ。ダイアナのロイヤル・ヴォクスホール・タヴァーンでの一夜は2016年にミュージカル化され、同クラブで上演された。

8. マイケル・ジャクソンとレコーディングしたマーキュリーだが、キング・オブ・ポップの飼うラマに邪魔された

クイーン結成以前からマーキュリーは、マイケル・ジャクソンがお気に入りだった。彼はよくハードロック好きのルームメイトたちに、ジャクソン5の『帰ってほしいの』の素晴らしさを声高に語っていた。「フレディはマイケルに畏敬の念を抱いていた」と、彼のパーソナル・アシスタントだったピーター・フリーストーンは伝記作家のブレイクに語った。ジャクソンが1982年の大ヒット作『スリラー』で芸術的にも商業的にも新たな高みに上った時は、キング・オブ・ポップとクイーンのフロントマンが協力する完璧なタイミングだった。

1983年春、マーキュリーは3曲のデモを製作するため、カリフォルニア州エンシノにあるジャクソンのホーム・スタジオを訪れた。『生命の証』は、クイーンの1982年のアルバム『ホット・スペース』のセッション中に作られた曲で、歌詞が完成していなかった。セッション・テープには、マーキュリーがジャクソンにアドリブで歌詞を付けるよう促している様子が収めされている。『ステイト・オブ・ショック』は大部分をジャクソンが作った曲で、『ヴィクトリー』は2人の共作だった。

これら楽曲は結局完成されなかったものの、デモのブートレッグでは、苦労の様子が伺える。『生命の証』は別バージョンで、1985年のマーキュリーのソロ・アルバム『Mr.バッド・ガイ』に収録された。『ステータス・オブ・ショック』は、ジャクソンがミック・ジャガーとのデュエットで1984年にシングルとしてリリースした。『ヴィクトリー』は、本稿執筆現在でもお蔵入りしたままだ。

ジャクソンとの共同作業が世に出なかった理由を説明する際、マーキュリーはとても慎重だった。「何かを完結させるには、2人は別々の国に長くいすぎたようだ」と彼は1987年に述べている。しかしほぼ同時期に行われた別のインタヴューでは、キング・オブ・ポップへのフラストレーションを垣間見ることができる。「彼はただ自分の狭い世界へ閉じこもってしまった。一緒にクラブへ出かけて楽しんだりもしたが、今や彼は自分の要塞から出てこようとしない。悲しいことだ」

クイーンのマネジャーだったジム・ビーチによると、よく取り沙汰されるジャクソンの奇行が、スタジオでマーキュリーの癇に障り始めたのだという。「フレディから突然電話を受け、”すぐに来て俺をスタジオから連れ出してくれないか”と頼まれた」とビーチは、ドキュメンタリー『The Great Pretender』の中で明かしている。「”何か問題があったか”と私が聞くと彼からは、”俺は今ラマとレコーディングしている。マイケルが自分のペットのラマを毎日スタジオへ連れて来ているんだよ。俺はラマと一緒にレコーディングしたことなんてない。もうたくさんだ。帰りたい”と言われたんだ」

ジャクソン側も、マーキュリーの悪習を嫌っていたようだ。マーキュリーの元パーソナル・アシスタントがザ・サン紙に語ったところによると、マーキュリーが100ドル札でコカインを鼻から吸い込む姿をジャクソンが目撃したために、セッションが続けられなくなったという。

ともかくマーキュリーは、この世を去るまでジャクソンとのコラボレーションの失敗に対して神経質だった。「フレッドは、マイケルとレコーディングした作品がジャクソンズに置き換えられて彼が追い出されたため、少し怒っていた」とメイは、ドキュメンタリー『Is This the Real Life』で語っている。『生命の証』はウィリアム・オービットのプロデュースでリミックスされ、2014年のコンピレーション・アルバム『クイーン・フォーエヴァー』に収録された。マーキュリーとジャクソンによるその他の2曲は、未発表のままだ。

9. ツアーで留守にしている時はよく飼い猫へ電話を掛け、お気に入りの猫だったデライラのために曲まで書いた

控えめに言えば、フレディ・マーキュリーは猫好きな人だった。彼は生前、自宅で多くの猫を飼っていて、猫なしではいられなくなっていた。クイーンとして海外へツアーに出ている間はいつも、可愛がっていた猫と話すために自宅へ電話を掛けていた。

「ホテルに着くと電話を掛け、彼は本当に自分の猫たちに話しかけているんだ」と、ピーター・フリーストーンは回顧録『ミスター・マーキュリー』で振り返っている。「(親友の)メアリー(オースティン)がトムとジェリーたちを代わる代わる受話器に近づけ、フレディの声を聴かせていた。こんな感じで一年中続けていたんだ」

マーキュリーの最後の恋人ジム・ハットンが彼の邸宅ガーデン・ロッジへ引っ越してくるまでに、子どもたちはオスカー、ティファニー、ゴライアス、ミコ、ロミオ、デライラの6匹に増えていた。「フレディは猫を自分の子どものように扱っていた」とハットンは自著『フレディ・マーキュリーと私』の中で綴っている。「彼はいつも猫たちとじゃれ合い、フレディの留守中に何かあると、もう大変だった。日中の家や庭は猫の天下で、夜になると私たちの誰かが猫を呼び集めて家の中へ入れてやった」

ハットンは著書の中で、飼い猫のゴライアスが行方不明になった時のエピソードを紹介している。「フレディは半狂乱になって深く絶望し、美しい日本製の火鉢をゲスト用ベッドルームの窓から放り投げた」という。マーキュリーは迷い猫の発見に1000ポンド(約15万円)の懸賞金を用意していたが、幸運なことにゴライアスはその前に保護された。

「フレディは大喜びだった」とハットンは書いている。「5分以上も、見つかった猫の相手をし、抱きしめたり撫でたりしていた。そして、ゴライアスがガーデン・ロッジを出て行ったことに対し、まるで母親のように猫を金切り声で叱りつけていた。薄黒い色の毛皮のかたまりはじっと座ってフレディの説教を静かに聴いた後、ゴロゴロと大きく喉を鳴らした」

ハットンが”リトル・プリンセス”と呼ぶデライラには、特別な場所が確保されていた。「ガーデン・ロッジに住む猫たちの中で、デライラはフレディのお気に入りで、一番よく抱えあげて撫でていた。フレディと私が寝る時は、デライラも一緒だった。デライラはベッドの足元で寝て、夜中になると抜け出して徘徊していた」

マーキュリーは『愛しきデライラ』という曲を書き、この三毛猫に永遠の命を与えた。他のメンバーはこの曲に特に思い入れはなかったが、しぶしぶ受け入れた。メイは、特に嫌っていたトーク・ボックスを使ってギターで猫の声を表現した。「結局最後は屈服して、トーク・ボックスを使うことにした。トーク・ボックスが運び込まれると、俺は言った。”ニャオって声を出すには、これしかないようだな”」と彼は1991年、ギター・ワールド誌に語っている。同曲は、マーキュリーの生前最後にリリースされたアルバム『イニュエンドウ』に収録された。マーキュリーの当時の健康状態を考えると、「泣きそうな時にお前は俺を微笑ませてくれる/お前は俺に希望を与え、俺を笑わせてくれる…いい感じだ」という歌詞は胸に刺さる。

10. マーキュリーは自分の埋葬地を秘密にするよう言い遺し、現在もその場所は謎のまま

マーキュリーは1987年春にAIDSと診断され、その後徐々に周囲の人たちへ自分の病状について明かし始めた。「彼は打ち合わせのために自宅へ僕らを集め、真実を明かした。とにかく僕らは、その事実を受け入れ始めなければならなかった」とテイラーは、ドキュメンタリー『Freddie Mercury: The Untold Story』の中で語っている。弱ってやせ細っていくマーキュリーの姿に、不滅に見えたフロントマンが重病にかかっているのではないかというメディアの推測が飛び交った。しかしバンドは全員一致して、いかなる問題もないと強く否定した。「僕らは全てを秘密にした。嘘をついていたんだ。とにかく彼を守りたかった」とメイは、ドキュメンタリー『輝ける日々』の中で語っている。

1990年の年末までにバンドはアルバム『イニュエンドウ』を完成させた。同アルバムには、哀愁漂うバラード『輝ける日々』も収録されている。マーキュリーの身体的な衰えを直接的に表現している訳ではないが、クイーンの初期の時代を思い起こさせる。彼の健康状態に対する不安は、1991年5月30日に撮影された同曲のミュージック・ビデオで急激に高まった。モノクロで撮影したものの、AIDSによって蝕まれるマーキュリーの身体の状態をごまかすことはできなかった。「彼は何時間もかけてメイクし、気持ちを落ち着けて順調であるように見せていた。彼はこのビデオを通じてサヨナラを言っているんだ」とメイは、2011年にインディペンデント紙に語っている。マーキュリーの可愛がった猫たちを描いた特注のベストを着た最後のシーンで彼は、カメラに向かって微笑み、「I still love you」とささやく。これがカメラの前で発した彼の最期の言葉になった。

撮影の数週間前、マーキュリーはスイスのモントルーに滞在し、弱っていく身体の状態が許す限りレコーディングを続けていた。メイによると、レコーディングはマーキュリーに正常な感覚を保たせていたという。「この時フレディは言ったんだ。”曲を書いてくれ。もう長くないことはわかってる。歌詞を書き続けてくれ。どんどん俺にやらせてくれ…俺は歌うから。君らが後で好きなようにして完成させてくれ”ってね」とメイは、ドキュメンタリー『輝ける日々』で証言している。

プロデューサーのデイヴ・リチャーズは、セッションを急ぐ必要性を感じていた。楽器類を調整するのに何時間もかける時代は過去の話だ。「曲を作りながらも彼は死に近づいていった。レコーディングを終えたら死ぬだろう、と彼は自覚していた。彼は、”俺は今すぐ歌うよ。彼らの演奏を待っている時間はない。ドラム・マシンだけ鳴らしてくれ。後から彼らが仕上げてくれるから”と言った」

メイの書いたスローに盛り上がる壮大な楽曲『マザー・ラヴ』にマーキュリーは、いつもの調子で取り組んだ。「どこからあのエネルギーが出てきたのだろうか」と後にメイは、テレグラフ紙に語っている。「恐らくウォッカがエネルギー源だったろう。彼は乗っていた。少しウォーミングアップして、”一杯くれ”と言って飲み干していた。いつも銘柄はストリチナヤだった。それから”テープを回してくれ”と言って始めるんだ」 長時間立っていられず、歩くにも杖が必要だったマーキュリーは、『マザー・ラヴ』のヴォーカルをコントロール・ルームでレコーディングした。

「終わりから2番目のヴァースまでレコーディングしたところで彼が、”あまり良い調子じゃない。今日はここまでにした方がいい。次に戻ったら仕上げるよ”と言ったんだ。でもその後彼がスタジオへ戻ることはなかった」 結局メイが最後のヴァースを歌い、曲を仕上げた。

マーキュリーはその後ガーデン・ロッジへ帰り、ジム・ハットンとメアリー・オースティンが彼の世話をした。オースティンは彼の元恋人で、1970年に初めて出会い、7年間一緒に暮らした。もう同居はしていなかったが、生活は共にしていた。インタヴューで彼はいつでも、彼女のことを真の友人と表現していた。ジャーナリストのデヴィッド・ウィッグとのインタヴューで遺言の話題になった時、「全てをメアリーと猫たちに遺す」と語っていた。クイーンの繊細な名曲『ラヴ・オブ・マイ・ライフ』は、彼女に捧げた曲だった。

オースティンは、ソウルメイトの命の火が徐々に小さくなっていくのを見ていた。「彼は自分のタイムリミットを決めていた。レコーディングが続けられなくなった時や、続ける気力のなくなった時、終わりが来ると思ったわ」と彼女はドキュメンタリー『The Great Pretender』で語っている。「彼の人生も彼の喜びも、その通りだったから。そうでなければ彼は、自分のすべきことに向き合えるだけの力が出なかったはずだと思う」

避けられない死を前にしてマーキュリーは、準備を始めていた。「日曜のランチの後に突然、”僕を葬って欲しい場所は決めている。でも誰にも知らせないで欲しい。掘り返されるのは嫌だ。ただ安らかに眠りたいんだ”って言われたの」

1991年11月24日、マーキュリーはAIDSが原因の気管支肺炎によりこの世を去った。彼の亡骸は、ロンドン西部にあるケンサル・グリーン墓地で火葬された。遺灰は壺に入れられオースティンの寝室に2年間置かれていたが、その後彼女は密かに彼の希望した場所へと移した。「普段通りでないことをしようとしていると他人に悟られたくなかった。だから”美顔エステに行ってくる”と言って出かけたの。説得力のある理由が必要だった。タイミングを計るのが難しかったわ」と彼女は、2013年にデイリー・メール紙に語っている。「壺を持ってこっそりと家を抜け出した。スタッフに悟られないように、いつも通りに振る舞う必要があったの。スタッフはゴシップ好きで、喋らずにはいられないし。彼の遺志の通り、誰にも埋葬場所が知られることはないわ」

マーキュリーの両親にも場所は秘密にされているようだが、墓参りをしたいと思うファンは、場所を突き止めようとしてきた。マーキュリーの出身地であるザンジバルだという者もいれば、自宅の庭に生える桜の木の下だと信じている者もいる。

2013年に謎は解けたと思われた。マーキュリーの出生時の名前(Farrokh Bulsara)と日付(5 Sept. 1946 - 24 Nov. 1991)の刻まれた墓石が、ケンサル・グリーン墓地で見つかったのだ。”Pour Etre Toujours Pres De Toi Avec Tout Mon Amour - M.”とフランス語で書かれたメッセージの最後の”M”は、メアリー・オースティンを指すに違いない、と多くの人が推測した。

オースティン自身は、「フレディは絶対にその墓地にはいない」と否定している。その後、銘板は取り外された。今なお、彼の埋葬地は不明のままだ。