終末期医療についてあなたはどう考えますか(写真:KatarzynaBialasiewicz/iStock)

終末期の延命治療を望まない尊厳死を宣言する人が出てきている一方で、終末期の苦しみを見かねた患者の家族の懇願を受けて安楽死に導いた医師が殺人罪で起訴される。あるいは自分の意識があるうちにと自死を選ぶ人もいます。本稿では『安楽死か、尊厳死か』から抜粋し、安楽死と尊厳死の違い、諸外国の状況はどうなっているのかについて紹介します。『孤高のメス』の筆者でもある大鐘稔彦医師の解説です。

「おしん」「渡る世間は鬼ばかり」でおなじみの脚本家・橋田壽賀子さんが最近『安楽死で死なせて下さい』(文春新書)と銘打った本を出して話題を呼んでいます。御年93歳(刊行時は92歳)、まだまだ血気盛んで文章にもほころびは見いだせず、白寿まで生きられるのではないかと思わせる方ですが、さすがに寄る年波には抗し切れず、少々弱気になっての愚痴ざんまいと思われます。

出だしからしてなかなか衝撃的です。「もしも『安楽死させてあげる』って言われたら、『ありがとうございます』と答えていますぐ死にます。生きていたって、もう人の役に立ちませんもの」。

橋田さんは”尊厳死”さえ一向に法律で制定化されないこの国で安楽死が認められることは当分(彼女が生きているうちには)認められそうにないと慨嘆し、巻末ではこんなふうに書いています。「だから私は(安楽死が認められている)スイスへ行くつもりです。お手伝いさんには、『私が死にに行くときは、70万円持ってついて来てね』と頼んであります。お骨を持ち帰ってもらわないといけませんからね」。

安楽死が容認されている国はどこか

スイスでは安楽死が認められています。スイス以外には、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、アメリカのいくつかの州(ニューメキシコ、カリフォルニア、ワシントン、オレゴン、モンタナ、バーモント)、そして、カナダも安楽死を容認しました。

もっともアメリカの場合は、医師は直接手を出さず、致死薬を処方してあとは患者の自由意志に任せ、患者がそれを服薬する現場にも立ち会いませんから、厳密な意味では安楽死は容認されていないといえます。いずれにしても、外国人を受け入れているのはスイスだけで、橋田さんはそれと知って前出の発言に及んだのでしょう。

スイスで安楽死を引き受ける”幇助団体”は、ディグニタス、エグジット、ライフサークルの3つです。ディグニタスやライフサークルには、世界中からほとんど毎日のように安楽死を求める末期がんの患者から電話がかかってきて、予約待ちの状況だということです。しかし、エグジットでは外国人を受けつけていないとのこと。理由は、国内の患者に応じるだけで手いっぱいだからと。

どのようにして安楽死させてくれるのか? 私はてっきり医師が何らかの致死量の薬を静脈注射するものと思い込んでいましたが、それを許しているのはオランダだけで、スイスでは”幇助”の名が示すごとく、医師は致死薬を入れた点滴瓶を用意し、血管を確保するまでで、点滴のストッパーを開くのはあくまで患者なのだそうです。

医師は無論立ち会ってその最期を見届けることになりますが、点滴を開始してから臨終に至る模様をビデオ撮影し、そのフィルムを死亡直後、検死に訪れる警察官に殺人ではないことの証拠として呈示することが課せられています。

一方、オランダでは患者自らが点滴のストッパーを開くのではなく、患者に睡眠剤を含ませた後、医師が、日本では問題となった筋弛緩薬を打って患者を死に至らしめます。スイスのように警察官が検死に訪れることもなく、医師はただ警察に報告するだけで足りるようです。

オランダでは死亡者の4%が安楽死

オランダでは”かかりつけ医”制度が確立されていて、地域のホームドクターがこの積極的安楽死の任を負います。もっとも、死にたいという患者の訴えを即受け入れて安楽死させるわけではなく、数週間から数カ月かけて入念な対話を繰り返します。

その後に、患者が本当に「耐えられない痛み」に悩み、その原因である病気が「回復の見込みがまったくない」ことを確認したうえで医師は応諾します。そうして安楽死に至った患者は、全体の死亡者の4%を占めるそうです。

“安楽死”と“尊厳死”はどこがどう違うのかということですが、大ざっぱに言えば、前者は“消極的安楽死”と“積極的安楽死”に分かれ、“消極的”なほうがイコール“尊厳死”とみなされています。

“消極的”ということは、それまで続けていた、あるいは、多少の延命のために向後なされるであろう医療を拒否し、あとは自然の成り行きに任せて死を待つ姿勢です。一方、“積極的”ということは、医療をストップするのはもちろん、延命も望まず、死を早める医薬を医者に投与してもらうことで、自らの意志でそうするのですから自殺的要素も含まれます。

と同時に、もとより殺意は皆無ですが、致死薬を盛る医者は、“他殺”とまではいかないまでも“自殺幇助”には相当することになり、評論家の西部邁氏の自殺に立ち会った2人の知人だか友人だかが罪に問われるか否かが取りざたされているのも道理です。

尊厳死と安楽死の異同をまとめてみると、このようになるかと思います。


自殺的要素と他殺的要素の有無については異論のあるところかもしれません。尊厳死こそ自然死と考える立場の人は、自殺的要素など皆無と言うでしょう。しかし、体のあちこちにチューブをつけられる”スパゲッティ症候群”になるのは御免と、栄養補給のための胃管や点滴を拒み続ける行為は、餓死を意図して断食を決め込むそれと多分に似て、死に急ぐ自死行為と言えなくはありません。

安楽死は、オランダを除けば自ら致死量の薬を飲んだり、それが入った点滴のストッパーをあけて自らの血管に流し込んだりするのですから、多分に自殺的要素を含んだものといえます。

”未必の故意”は法律用語で、「犯罪の意図はないが、この行為に及んだら人を殺傷することになるかもしれないと頭の片隅では認知しながらその行為に踏み切ってしまうこと」で、有罪を免れません。スイスのように安楽死が法制化された国でも医師が自ら手を出して患者に致死量の薬を服ませたり点滴のストッパーを開いて流し込んだりしたら”未必の故意”として告訴されかねません。


呆ける前に自らの意志で安楽死を求めてスイスへ行くと近著に書いた橋田壽賀子さんは、かの地で受諾されるまでには相応の面倒な手続きがいることも知ったからでしょう。

わざわざ海を越えて遠い異国にまで行かなくとも、ここ日本で楽に死ねるようにと、安楽死の一刻も早い法制化を訴えています。

しかし、ほぼ市民権を得ている尊厳死さえ法制化されていない日本で、安楽死が法的に認められる日はほど遠いように思われます。

尊厳死法を制定しようとの動きは、尊厳死協会の働きかけもあって、国会議員100人ほどが超党派の組織を結成して試みられたようですが、立案にまでは至らず、中休みの形になっています。