14年ぶりに、扉がこじ開けられた。

 10月27日(日本時間28日)、渡邊雄太(メンフィス・グリズリーズ/G)がフェニックス・サンズ戦の第4クォーター残り4分31秒から出場し、2得点・2リバウンドを記録した。日本人プレーヤーがNBAの舞台に立つのは史上ふたり目、14年ぶりの出来事だった。

※ポジションの略称=PG(ポイントガード)、SG(シューティングガード)、SF(スモールフォワード)、PF(パワーフォワード)、C(センター)。


史上ふたり目の「日本人NBAプレーヤー」となった渡邊雄太

 試合後、渡邊は快挙に浮き足立つことなく、さらなる高みを目指すことを宣言している。

「まだまだ、あくまでスタートライン。自分の目標はもっと高いところにあります」

 14年前の2004年11月3日(日本時間4日)、アメリカ・ウエスト・アリーナ(現トーキング・スティック・リゾート・アリーナ)。周囲と比べると場違いに思えるほど小柄な青年が、日本人として初めてNBAの扉をこじ開けた瞬間を、今も覚えている。

 試合直前のサンズのロッカールーム。田臥勇太(現・栃木ブレックス/PG)とごく短時間、会話を交わした。失礼ながら、どんな質問をしたのか、どんな答えが返ってきたのかは覚えていない。ただ、田臥の高揚感と緊張感がないまぜになった、鋭い視線だけは忘れられない。

 シーズン開幕戦のアトランタ・ホークス戦、第4クォーター残り10分から田臥は出場し、7得点・1アシストを記録。その後、3試合、計4試合でプレーし、12月18日にチームを解雇されている。

 その日から、渡邊が現れる14年もの間、日本人プレーヤーがNBAのコートに立つことはなかった。

 勇太と雄太――。

 その名前こそ同じ発音ではあっても、ポジションも体格も、そして年齢もまったく異なる。ただ、ふたりは細い糸でつながっていた。

 渡邊が高校3年生の時、アメリカに進学するべきか悩んでいた際、渡邊の父に田臥は電話でこう伝え、その背中を押している。

「絶対に行かせてください」

 能代工業卒業後、2000年にブリガムヤング大に留学している田臥は、アメリカでプレーする日本人選手のパイオニア的な存在だ。

 ただ、田臥が渡邊の背中を押したように、田臥の背中を押した日本人がいる。それが、アメリカの高校に留学していた伊藤拓摩だ。伊藤はアルバルク東京のヘッドコーチを務めるなどして、現在はGリーグのテキサス・レジェンズでコーチ修行をしている。ひと足先に留学していた伊藤から、田臥はアメリカ留学を決断する際にアドバイスを受けていた。

 その後、アメリカの高校に渡ったのが、現在シーホース三河でプレーする松井啓十郎(SG)であり、伊藤拓摩の弟、滋賀レイクスターズでプレーする伊藤大司(PG)らだ。

 以前は、バスケットボールでアメリカ留学するハードルは極めて高かった。先人たちの成功や失敗、さまざまな経験が、後を追う者たちのヒントやノウハウとなっている。そしてその系譜のなかに、田臥も、渡邊もいる。

 月日とともにアメリカの高校や大学へ進学する選手は増え、2008年からは『SLAM DUNK』の著者・井上雄彦氏によって「スラムダンク奨学金」が創設され、ほぼ毎年、選手をプレップスクール(大学進学のための準備学校)へ派遣している。

 2016年には八村塁が名門ゴンザガ大へ進学し、3年生となった今季、NBAドラフト上位指名が現実味を帯びるまでに成長を遂げた。また今年は、史上最年少の15歳で日本代表候補に選出された田中力がIMGアカデミーに進学している。

 能力と強い意志があれば、アメリカへ渡るハードルは間違いなく、以前ほど高くはない。

 ただ、もちろん、アメリカの空気を吸うだけで高く跳べるわけではない。

 高校2年から日本代表に選出されるなど、国内では常に高い評価を受けていた渡邊だが、アメリカでのプレー経験のある選手は、高校時代の渡邊をこう評価していた。

「素材としては間違いなく日本最高クラス。ただ、アメリカでNBAを目指すレベルの選手に混ざれば、体格も身体能力も並。もっと速い選手も、もっと強い選手も、もっとうまい選手もいくらでもいる。何かひとつ、武器がなければ埋もれる」

 アメリカで悩みながら、もがきながら、渡邊が見つけた武器はディフェンスだった。昨季、大学4年だった渡邊はアトランティック10の「ディフェンシブ・プレーヤー・オブ・ザ・イヤー」を獲得している。

 渡邊のディフェンスは、どこまでも基本に忠実だ。細かくステップを踏み、相手との間合いを詰める。シュートを打たれても最後まであきらめずチェックに跳び、タフショットを打たせることを心がける。スティールも得意だが、決してギャンブルしてカットを狙うことはせず、チームディフェンスを優先する。そのプレーは、まさに渡邊の人柄がにじむ。

 大学時代の渡邊と日本代表でともにプレーした経験を持つ選手は、NBAプレーヤーになった彼の姿に驚きを隠せない。

「以前とは身体がまったく違う。上半身、とくに胸と腕が別人。コンタクトに強くなり、そのぶんディフェンス力が格段に向上した」

 ディフェンス力の向上にも、筋力アップにも、地味な反復練習が必要だ。成長したディフェンス力と体躯が、渡邊がたゆまぬ努力を続けたことを何よりも証明している。

 一方、38歳になった田臥も、今なお現役を続けている。

 渡邊の出現まで「日本人で唯一のNBAプレーヤー」という看板を、14年もの間、その小さな背中に背負い続けた男の覚悟に、畏怖の念すら抱く。

 そして田臥は、現役を続けるだけでなく、今も上達するためにチャレンジを続け、バスケットボールと誠実に向き合っている。

 たとえば2015年、リオ五輪の予選を兼ねたアジア選手権。日本代表で誰よりもルーズボールに頭からダイブしていたのは、田臥だった。結果、日本代表は18年ぶりにベスト4に進出し、リオ五輪最終予選の切符を獲得している。

 翌年の最終予選直前、日本代表は中国遠征を行なった。そのメンバーから2選手を落選させ、最終登録メンバー12名を決定しなくてはいけない。通常は所属クラブを通して、代表メンバーに選出されたかどうかが伝達される。

 しかし、当時の代表監督の長谷川健志は、アジア予選突破や遠征・合宿で苦楽をともにした選手には対面で当落を伝えるべきだと、羽田空港ロビーの片隅に選手を集めてメンバー発表を行なった。長谷川が、年長者から順に発表する。

「はい!」

 最初に最年長、田臥の名前を告げると、予想以上に大きな返事が空港ロビーに響き渡り、長谷川は驚く。田臥に続いて名前を呼ばれたメンバーも皆、大声で返事をした。

 最終予選で日本代表はラトビアとチェコに敗れ、リオ五輪への扉は閉ざされた。それでも、このチームが五輪出場に指までかけたすばらしいチームだったことは間違いない。

 このチームの最年長だったのが、田臥。そして最年少だったのが、渡邊だ。2年前のあの日、田臥から渡邊へ間違いなく託されたものがある。

 最後に、小さな巨人が背負い続けた「日本人唯一のNBAプレーヤー」の看板を下ろした日、2番目に扉をこじ開けた若者に送ったメッセージを紹介しておきたい――。

 渡邊選手、おめでとうございます。

 NBA選手になるための過程がどれだけ厳しいものかという現実をよく知っていますので、渡邊選手がNBA選手として試合に出場したことを本当にうれしく思います。日本人のNBA選手は、未来ある子供達に夢を与えるという大事な役割があると思います。渡邊選手のこれからの活躍、そしてチャレンジが、日本の子供達が将来NBA選手になりたいと夢を持てる大きなきっかけになると思います。ここからはNBA選手としてプレーし続けることが目標になると思います。すべての経験を大事にしながら、その目標に向かってこれからもチャレンジし続けてもらいたいです。