先祖代々受け継がれし名声と財産。

それを守り続けるために、幼い頃から心身に叩き込まれる躾と品位。

名家の系譜を汲む彼らは、新興のビジネスで財を成した富裕層と差別化されてこう呼ばれる。

「オールドリッチ」と。

一見すると何の悩みもなく、ただ恵まれた人生を送っているように見えるオールドリッチ。

しかし、オールドリッチの多くは、人からは理解されない苦悩や重圧に晒されている。

知られざるオールドリッチ達の心のうちが、今、つまびらかにされる-。

前回は、家名目当ての男に利用される静香を紹介した。今回は?




【今週のオールドリッチ】

名前:東堂薫子(とうどう・かおるこ)
年齢:24歳
職業:法律事務所事務員
住居:松濤

うららかな土曜日の午後。薫子は松濤の邸宅で、名画の額縁のように荘厳な姿見の前に立っていた。

「お嬢様、スカートの丈はこのくらいにいたしましょうか」

手に持った巻尺の端を薫子の膝の下に合わせながら、白髪の仕立て屋が鏡越しに問いかける。

薫子が身につける服のほとんどは、オートクチュールだ。季節ごとにこうして、銀座の高級老舗洋裁店が自宅まで採寸に訪れる。

「もう少し短く、膝が見えるくらいにしても…」

「いえ、この方が上品に見えます。お父様もこちらの方がお好みだと思いますよ」

ささやかなリクエストは、柳のようなにこやかな笑顔で却下された。

長年東堂家に出入りするこの仕立て屋は、薫子のスカートを絶対に膝上丈には仕立てない。

「そうですね…。では、そうしてください」

薫子は、いつものように提案を受け入れる。
ため息を押し殺して、穏やかな微笑みを浮かべながら。


現代の貴族の自由を奪った、衝撃的な事件


全ては父の選挙のため。娘の強いられた「自由」という名の犠牲


仕立て屋が帰った自室で、薫子はクローゼットを開け広げた。

ズラリと並んだ上質なワードローブから、オフホワイトのワンピースを選んで身につける。ブランドを主張しない日本製の革バッグを合わせ外出の準備を整えると、家事室へと向かった。

「小宮さん、青学のお友達と代官山のカルトナージュ教室に行ってきます。お夕飯は済ませてくると思います」

「まぁまぁ、薫子さん。今日もとってもお綺麗。どうぞいってらっしゃいませ!」

薫子が生まれる前から東堂家に勤めている家政婦の小宮さんに見送られながら、玄関でローヒールのパンプスに足を通す。

「カルトナージュのお作品、完成したら見せてくださいませね〜!」とはしゃぐ小宮さんに会釈をし、薫子は松濤の自宅を後にした。

森のような庭を擁する大豪邸。ヨーロッパのアンティークの調度品。体に馴染むオートクチュールに、住み込みの家政婦…。

薫子の生活は、まさに”現代の貴族”と称するに相応しい。

しかし薫子の心は、満たされるどころか空虚感に苛まれていた。



国会議員として多忙を極める父と、そのサポートのために地方の選挙区で挨拶回りに明け暮れる母。

ほぼ両親不在のもとで育った薫子だったが、高祖父の代から多数の政治家と法曹を輩出するオールドリッチの名家・東堂家の娘として、それを疑問に思ったことはない。

むしろ、両親が留守がちなことで気ままに過ごせる生活を気に入ってすらいた。

そんな穏やかな日々に亀裂が入ったのは、高等部1年生の頃に起きた事件がきっかけだった。

大物議員だった、大伯父の失脚。

地方で災害が起きた日に、高級鮨店のカウンターで食事をしているところを週刊誌に叩かれたのだ。

その妻である大叔母が、シャネルのスーツやバーキンなどの高級ブランド品で身を固めていたことが、火に油を注いだ。

マスコミは大叔母の持ち物の値段を特定すると、「総額2,000万円妻」などと騒ぎ立て、その結果大伯父は失脚を余儀なくされることとなった。




「薫子。私達がお父様の弱点になるわけにはいかないの。東堂家一丸となって、お父様を応援しましょうね」

事件後、そんな母の宣言とともに薫子の生活は一変した。

友人との寄り道の禁止。
華美な装いの禁止。
ゲームセンターなど、軽薄な場所への出入禁止。
値段の分かりやすいブランド品所持の禁止。
外出は許可制。
外食は馴染みの店の個室に限る。
私用での移動手段の基本は電車に限る…

自由気ままな生活からのあまりの落差に、薫子は何度も反論を試みた。だが、「父が足元をすくわれないための防衛策」と言われてしまえば、娘としては受け入れるしかない。

華やかで自由な青山学院の校風とはかけ離れた、閉塞的な生活。

友人達が放課後、遊びに、アルバイトに、恋愛に精を出す一方、1人早々に帰宅する寂しさは今でもありありと思い出せる。

両親の過剰な束縛は就職活動にも影響し、薫子は今、親族が代表を務める恵比寿の法律事務所でお茶汲みをしている。

いつかは父の目に適う男性と見合い結婚をして、寿退社でもするのだろう。



薫子の心に巣食う虚しさは、いつも渋谷駅へと足を進めるにつれて強まっていく。

東急百貨店のショーウインドウに並ぶ美しいブランド品。開放的なファッションを楽しむ往来の女性達。渋谷の街を彩る輝きの全てが、薫子の疎外感をあおる。

東堂家の財力を持ってすれば、大抵のものを手に入れることはできるだろう。しかし、どれだけの財力があっても、「自由」は手に入らない。

渋谷区での貴族のような暮らしは、薫子にとっては牢獄のようなものだった。

そんな薫子にとっての唯一の救いは、ほんの少しの旧友たち。だが…。


唯一の心の拠り所である親友達の、薫子への隠し事


自由に羽ばたくお嬢様仲間達を尻目に、牢獄へと舞い戻る土曜の夜


代官山駅に到着すると、薫子は駅近くにあるマンションの一室を訪ねた。

初等部からの親友・絵里が自宅で始めたカルトナージュサロン。扉を開けると、絵里を含めたいつもの幼馴染3人がすでに揃っている。

「薫子、遅いよ〜!先に始めてるからね!」

付き合いの悪くなった薫子からは、多くの友人が離れていった。

その一方で、薫子の事情を理解し、それでもこうして一緒に過ごしてくれる幼馴染3人との仲は、以前よりも深まったように思う。

カルトナージュはまだ2回目だが、厚紙で作った箱を美しい布で装飾していると無心になれる。

友人達とのおしゃべりや、細かな作業に没頭できる時間は、薫子にとって貴重な息抜きの時だった。

しかし、3時間ほど経った頃だろうか。仕上げに入っていた薫子のカルトナージュボックスに、異変が起きた。

「あれ?」

「どうしたの?薫子」

「どうしよう…。お喋りに夢中になりすぎて、ボンドをつけすぎちゃったみたい」

布とタッセルで飾り付けたボックスの、蓋が開かない。はみ出たボンドでしっかりと接着されてしまったのだろう。

絵里が、ボックスを手にとりチェックする。

「あぁ〜、速乾性ボンドつかったでしょ?無理に引っ張ると、布が剥がれちゃうかも…。まぁ、開かなくても飾っておくだけでも可愛いよ!」

「もう!人ごとだと思って!」

薫子の失敗に、友人達は笑い声を上げた。塞いでいた気持ちが晴れていく。18時を過ぎそろそろ解散の時だったが、友人達と別れがたい薫子は、後の予定を問いかけた。

「ねえ、この後夕食に行こうよ。恵比寿の『広東料理 龍天門』なら父のお気に入りだから、個室を取れると思うの」

「あ〜、えっと…」

薫子の提案に、友人達は気まずそうに顔を見合わせる。いぶかしむ薫子に、絵里がおずおずと話し始めた。

「薫子、ごめんね。私達これから六本木の『格之進R』でテレビマンと食事会なんだ。しかも、幹事の男の子は報道局なの。薫子は来られない…よね?」

テレビ局の、しかも報道の男性と、食事会。父が許す訳はないだろう。

それをよく理解して薫子を誘わなかった友人達の優しさが、逆に薫子を傷つける。先ほどまでの高揚した気分は、一瞬でどこかへ吹き飛んでしまった。

だが、気を取り直すと薫子はにっこり微笑んだ。

「そっか!気使わせちゃってごめんね、食事会楽しんできて!」

明るい薫子の様子を見て、友人達は安堵の表情を浮かべる。

これも、薫子にとっては見慣れた光景だった。




「薫子、バイバーイ」

タクシーに乗り込む友人達を見送ると、薫子は代官山駅から東横線に乗り込んだ。

土曜の夜の開放感で浮き足立つ乗客達とは対照的に、薫子の気分は沈みきっている。渋谷駅まではたった1駅だが、空席に腰かけた。

―お夕飯やっぱりいるって言ったら、小宮さん困るかしら…。しかも、完成したカルトナージュボックスは蓋が開かないなんて、呆れられちゃうよね。

「まもなく、渋谷…」

車内放送が流れる。考えを巡らせている間に、あっという間に渋谷駅へと到着してしまった。

乗客達は思い思いの夜を過ごすために我先にと降車していく。

しかし、薫子は立つことができない。

丈の長いスカートが包む膝。その上に乗せた空箱が、妙に重たく感じる。

―豪華に飾りたてられた、蓋が開かない空の箱。まるで、私の生活みたい。

渋谷区に閉じ込められた、豪華で空虚な毎日。

薫子の心を、いつもの空虚感が襲う。

その時だった。

「この電車は、各駅停車和光市行き…」というアナウンスと共に、電車のドアが閉じた。

―しまった!

降車しそびれたことに焦る薫子をよそに、電車はゆっくりと進み出す。いつもは渋谷に着くなりすぐに降りてしまうため、副都心線へと直通運転していることをすっかり忘れていた。

「そっか。渋谷はもう、終点じゃないんだ…」

小さな声で呟くと、薫子は路線図を見やった。

新宿三丁目。雑司が谷。池袋。路線図に名を連ねる、行ったことのない街。

薫子の心を、小さな痛快感がくすぐる。

―多分、どこにも降りずに渋谷に引き返すことになる。でも、私だってその気になればどこへでも行けるのよね…。

電車の揺れに身を任せながら、薫子はほんの少し体が軽くなったのを感じる。

渋谷区という飾り立てた箱の蓋が、ほんの少しだけ開いた気がした。

▶NEXT:11月17日 土曜更新予定
世が世なら、お姫様。白金で身を粉にして働くお嬢様に残された最後のプライド