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ゲームのやりすぎはなぜ「障害」なのか

2018年6月、オンラインとオフラインを問わずデジタル・ゲームに熱中してやめられなくなった状態を「ゲーム障害」という依存症つまり精神障害の一種とすることを、世界保健機関(WHO)が発表した。

そのことはすでにここで取り上げた(参照「『ゲームを止められない』が今年から病気になる事情」)。

以来、さまざまな分野での論争が続いている。

議論の多くは、家族や医師や教育者のようにゲームへの熱中を否定的にとらえる立場とゲーマー本人やゲーム業界のように病気と考えるのは行き過ぎとする立場の間のどこかに位置づけられる。

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だが、いま必要なのは「ゲーム障害」をもっと広い視点から考えて、そこに見える現代社会の価値観を問い直してみることではないか?

それが、医学や心理学や教育学とはひと味違う社会学の役割だ。

国際的基準によれば、ゲーム障害は、次の3つの症状が個人・家族・社会・学業・仕事そのほかの重要な活動に支障がでるほど重症となって、しかも12ヵ月以上続いた場合に診断されるという。

1. ゲーム行動をコントロールできない(TPOや時間や頻度など)。
2. 日常生活や他の興味よりもゲームを優先する。
3. マイナスの結果が生じていてもゲームを続けエスカレートさせる。

ここでは、ゲームは遊びやレジャーという非日常世界のものであるということが前提となって、それがもっと真面目な日常生活に入り込んで支障を来すことイコール「障害」とされている。

身も蓋もない言い方をすれば、医学的・生物学的に何かの異常があるから障害なのではなく、社会通念から外れている生き方(「逸脱」)だから障害とされているわけだ。

だが、ゲームへの熱中は正常な生き方からの「逸脱」なのだろうか?

eスポーツから見る

ここでゲーム障害と並べて考える必要があるのはeスポーツだ。

1990年代後半からゲーム企業主体でチャンピオンシップやトーナメントは行われていたが、2000年から韓国やドイツでそうした競技性の強いゲームを「eスポーツ」と呼ぶようになった。

さらに、ゲーマーの卓越したプレー技量を鑑賞する観客も生まれてきた。そうすると、イベント開催とネット配信からの収益や企業スポンサーからの契約料によって、プロのゲーマーが職業の一つとなった。

スポーツと同じようにeスポーツの協会ができて、ルールも整備され、制度化がすすみつつあるのが現状だ。市場規模は2017年で700億円以上、観客は3億人以上とされる(総務省『eスポーツ産業に関する調査研究報告』2018)。

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複数ゲーマーがチームとなってオンラインでバトルするもの(リーグオブレジェンド)、シューティングの腕を競うもの、対戦型の格闘ゲームなどが代表的なeスポーツだ。

ほぼ手先だけだが、身体的な努力によって運動スキルを向上させるのが目標であるのだから「スポーツ」だという。

ただし、PCゲームよりも家庭用ゲーム機が主流だった日本での認知度は低い。日本では高校のeスポーツ選手権やeスポーツ部ができて話題になる段階だが、英国ではすでに大学にeスポーツ学部も誕生している。

こうした事情はゲームへの熱中を障害や病気と診断する発想を根本から覆しかねない。つまり、ゲームが仕事になり得るのであれば、ゲームに熱中して他のことより優先するのは「逸脱」ではなく、仕事に頑張っている社会人のあるべき姿になってしまうからだ。

依存症のなかのゲーム障害

いっぽう、ゲーマー本人がどうにもゲームをやめられなくて困っているという条件のもとでは、病気や障害と医療専門家が名付けて診断することにプラス面も大きい。

なぜなら、病人・障害者と診断されることは、病気や障害になったのは不可抗力であって自己責任ではないと社会的に認められることにつながるからだ(責任免除)。
自己責任と言えば、麻生太郎財務相が「他人の医療費を、健康に努力している俺が払うのはあほらしい」と発言して問題となった。

これが「暴言」になるわけは、健康か病気かは自己責任ではないとの考え方のほうが当たり前だからだ。

さらにいえば、現代では病気や障害になった人たちを責めるのではなく、そうした人びとがふつうに暮らせるように支援し社会を変えていく(たとえば足の不自由な人のためにエレベーターを設置する)のが望ましいというコンセンサスがある。

ゲーム中毒で困っているゲーマーとしては、たんに意志薄弱な人ではなく、障害者と診断される方が自己責任を免除される分、自分の悩みと向かい合いやすくなるだろう。

また、親は、自分の育て方や教育の問題ではなくその子供個人の障害と診断されれば、子供や自分を責めなくてもよくなる。

だが、物事はそう単純ではない。

ゲーム障害を含む依存症は「否認の病」との別名もあるぐらいで、どんなに困っていても本人は病気とか障害という自覚を持つことがなかなか難しい。

ギャンブル障害とゲーム障害

「依存症」というとまず思いつくのはアルコールや麻薬などの物質への依存だ。

これに対して、ゲーム障害はゲームをする行動への依存であって、行動依存とかプロセス依存とも呼ばれ、ゲームによって脳内の快感回路が暴走するのが原因と考えられている((参照「『ゲームを止められない』が今年から病気になる事情」))。

いまのところ、この行動依存のなかで病気・障害と認定されているのはギャンブル障害とゲーム障害の二つだ。

国際的基準によれば、ギャンブル障害は、次の3つの症状が個人・家族・社会・学業・仕事そのほかの重要な活動に支障がでるほど重症となって、しかも12ヵ月以上続いた場合に診断されるという。

1. ギャンブルをコントロールできない(TPOや時間や頻度など)。
2. 日常生活や他の興味よりもギャンブルを優先する。
3. マイナスの結果が生じていてもギャンブルを続けエスカレートさせる。

既読感があると思う。それも当然、これはゲーム障害の定義でのゲームをギャンブルと入れ替えただけなのだ。

つまり、脳内の快感回路の暴走から起きる以上、理論上はどんな「行動」に対しても行動依存という病気・障害になり得ることになる。

ゲームへの熱中が精神障害であれば、インターネット依存、セックス依存、恋愛依存、買い物依存など、すべてが精神障害となってもおかしくない。

ゲーム障害を病気・障害として認めるという決断は、ゲームだけに留まらず「何でも依存症」、「何でも精神障害」の社会への第一歩にもなり得る。

そんな未来社会が本当に望ましいのか、立ち止まって考えてみるべきではないか。

ギャンブルのゲーム化

もう一つ興味を引かれるのは、いまのところギャンブルとゲームだけが(行動)依存症に含まれている点だ。

これは、21世紀に入って加速する「ギャンブルのゲーム化」現象と切り離せない。

1990年代後半から、オーストラリアと米国では、カジノ企業がギャンブルという言葉の悪いイメージを嫌ってギャンブルをゲームの一種と再定義するようになった。

それは、収益拡大のために、一攫千金を狙う(男性)ギャンブラーだけではなく、少額で遊ぶ女性や高齢者をターゲットとするマーケティング戦略の一部だった。

ギャンブルの悪印象を減らす戦略は見事に当り、カジノへの課税収入を財源にしたい国や地方自治体による規制緩和の追い風にもなった。

その結果、オーストラリアや米国のカジノは、ディーラーがいてテーブルでカードやダイスを使ったライブゲームをする場所ではなく、レバーではなくボタンで操作するスロットマシンが並ぶゲームセンターのような場所へと変容した。

私にも、数年前にラスベガスのカジノを訪問したとき、高齢者で溢れるフロアのほとんどが一見パチスロのような機械で占拠されていて驚いた記憶がある。

ギャンブラーにインタビュー調査を行ったナターシャ・ダウ・シュール博士によれば、現代の常習的ギャンブラーのほとんどはジャックポット(大当たり)狙いではなく、長時間スロットで遊んで「ゾーン」体験を得ることを目的としているという(『デザインされたギャンブル依存症』青土社2018)。

ゾーンとは、リラックスしながらも没頭できる「超集中状態」として、アスリートが使い始めた用語だ。ギャンブラーの場合スロットマシンと一体化した体験を意味する。

ゾーン狙いのギャンブラーは長時間プレーが目標なので、大当たりしたときではなく、手持ち資金が底をついたときにギャンブルを中断する。また、ゾーンに入るためのリズムや流れを安定させるためオートプレイを好むこともある。

シュール博士によれば、大当たりボーナスでリズムが崩れるのに立腹したり、止めたいのに止められず「神様、この金を持っていってください。そうすれば立ち上がって家に帰れます」と心で祈ったりするギャンブル障害患者までいるという。

ギャンブル障害の人びとは一発逆転で大金を掴むのに必死というわけでもないのだ。

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人間とマシンの共生のためのレッスン

こうして実態を知ってみれば「ギャンブルのゲーム化」の中で、ギャンブル障害とゲーム障害は、快感回路の暴走というメカニズムが共通なだけでなく、人間がマシンと離れられなくなる点でも似通っているとわかる。それはSNSやネットへの依存とも共通する。

これは人間とマシンの「共依存」と言い換えてもいいだろう。

共依存とは、もともとアルコール依存症の男性とそのパートナーの間でのこじれた人間関係への囚われを指して使われたことばで、単純化して言うと、依存症者は暴力を振るいながらもパートナーに依存し、パートナーは「見捨てたら彼は死んでしまう」と語りつつ献身的であることに依存する状態だ。

人間がマシンに依存すると同時に、資本主義のもとでのマシン開発競争のなかではより長時間より高い強度で人間を誘引する(人間の快感回路に)献身的なマシンが次々とデザインされていく、その共依存スパイラルの一つがゲーム障害なのだろう。

こう考えれば、ゲーム依存症やゲーム障害という考え方そのものの問題点が見えてくる。

何かの問題を病気・障害として定義すること(「医療化」)は、社会的な文脈から人びとの目を逸らさせ、その問題の原因は個人の内部(ゲーマーの心理特性や脳画像や遺伝子)にあるとの先入観を植え付けてしまう。

だが実際には、人間とマシンの共依存としてのゲーム障害には、マシンそのもののハードとソフトの性質も重要な(したがって必要なら規制されるべき)要素となる。

ゲームとゲーム障害の問題は、人間とリアルタイムで複雑に相互作用するマシンと人間とがどう共生できるかのテストケースといえるだろう。

ゲーム障害への対策には、人間の依存症だけを見ていては不十分で、人間の快感に献身的(?)過ぎるマシンも視野に入れなければならない。

比喩的に言えば、当局による規制であれ自主ガイドラインであれ、マシンのほうにも人間とお付き合いしていく上でのルールやエチケットが求められている。

じつはゲーム障害が病気・障害と認定された現在、それは待ったなしだ。人間にゲーム障害という危害を与えるマシンを作る製造者は巨額の訴訟リスクにさらされている。