「結婚なんかしない」

そう、言い張っていた。

今の生活を手放すなんて考えられない。自由で気まぐれな独身貴族、それでいいと思っていた。

仕事が何より大事だと自分に言い聞かせ、次々にキャリア戦線を離脱してゆく女たちを尻目に、私はただひたすら一人で生きてゆくことを決意していたのに―。

”想定外妊娠”に戸惑っていたのもつかの間、千華ははじめてのエコーで心を揺さぶられ、たとえ独身だろうと産む決意を固める。

元カレ・ショーンとすれ違い続けていた千華は、憧れの先輩から言われた一言をきっかけに自分の本心に気づき、ついに彼と結ばれた。

だが真っ先に報告した親友・舞子は浮かない顔だった。さらに、ショーンの母・妙子は辛辣な言葉で千華を絶望の底へと叩き落とし、信頼していた部下・徳永さえも冷淡な反応をしめす。そんな中、千華はついに会社で意識を失ってしまい…。




「しばらく休め。まだ夏休みを取ってないだろう。」

職場で倒れてしまった私に真っ先に電話をよこしたのは、仕事が忙しいフィアンセでも、心から信頼する親友でも、仕事を押し付けてしまった部下でもなかった。

部長は、電話越しに何度も「安心しろ、こっちは大丈夫だから」と繰り返す。

「本当に、申し訳ありません…。」

点滴の落ちる音がポタポタと響く個室で、私は力なく答えた。

電話を切ったあと不意に病室の窓に目を向けると、すっかり日が落ちて、クリニックの通り沿いにタクシーが列を作っているのが見える。

「夏休みかぁ…。」



こうして私は、急遽2週間の夏休みを取得することになってしまった。

最初の2、3日は、自宅とクリニックを往復して点滴を打たれるだけの日々が続いていた。

断固として入院を拒否した私に、先生が提案したのは「毎日、点滴を打ちに通院する」ということだ。

会社で倒れた日に点滴をしてもらってから、体調はかなり楽になっている。吐き気止めも同時に処方してもらい、食べられるものも増えた。

けれど、家に帰ればたった一人。頭の中を巡るのは仕事のこと、体調のこと、義母のこと…。その全てから、一度距離を起きたかった。

-実家、帰ろうかな…。

カレンダーはとっくに9月になっているけれど、相変わらず夏の熱気を残したままの東京を生き抜く精神力など、今の私にはほんの少しも残っていないのだ。


ようやく、体調が落ち着いた千華の夏休みは…


「だいぶ落ち着いてきましたね。」

先生が穏やかな微笑みを浮かべて私を見つめる。

私自身もそれは自覚していた。数値も安定し、口にできるものが増え、妊娠が発覚してから減る一方だった体重もわずかに上昇したのだ。

「ありがとうございます、先生。」

「木田さん、よく頑張りましたね。妊娠中って体の変化が激しいから、気持ちもなかなか追いつかなくて辛いですから。」

相変わらずテキパキと手を動かす先生だったが、「頑張りましたね」という言葉だけで私は救われるような気がした。

この数ヶ月の間に経験した出来事を含めて、こんなふうに言ってくれる人が居るというのは心強い。

「先生、あの…。」

「なんですか?」

点滴の針を抜いたばかりの左腕を抑える手に、思わず力が入る。

「福岡に、実家に行こうと思っているんです。飛行機、乗っても平気ですか?」




会社で倒れた日、ショーンにすぐ連絡を入れたが、返信が帰ってきたのは真夜中を過ぎた頃だ。

折返しの電話をかけ事情を説明するなり、ショーンは慌てふためき「すぐに帰る!」と大騒ぎしていた。以来、毎日のように電話をくれるようになった。

産院についても結局、ショーンが駆けつけやすいようにと東京のクリニックに決めた。

そして、数日の間、点滴を打って落ち着いたことと、しばらく実家に帰ろうと思っていることを告げると、彼は「いい機会だから俺も行く!」と、出張先からそのまま福岡に来ると宣言したのだった。

「妙子さんほどじゃないけど、私の母もそこそこ強烈だから覚悟しておいて。」

「それでも、千華と結婚するんだし、ご挨拶なら早いほうがいいだろ。」

意地悪くショーンに告げたが、珍しく男気をみせるショーンに、私は久しぶりに声を出して笑っていた。本当に久しぶりに、心から笑っていたのだ。

「じゃあ、私は先に福岡に行ってるわね。待ってるから、ちゃんと来てよ?」

「わかってる、かならず行くよ。」

ショーンの優しい声が心地よく耳に響く。終わりの見えない暗闇のようだったこの数日の出来事も、彼の声を聞けば不思議と落ち着いてしまう。

-早くショーンに会いたい。

そんな事を思いながら、急遽福岡行きのエアチケットを購入した。


実家に帰省を決めた千華。彼女を待つ家族の反応とは


見慣れた居間の古いテーブルに並ぶ、母の手料理。それを囲む親戚が、目を輝かせて私達を待っていた。真ん中にぽつんと不自然に空いた座布団が2つ並んでいて、彼らは有無を言わさず、ショーンと私をそこへ座らせる。

「ニューヨークから来たと!?」

相変わらず母の声は大きい。

そしてその日、私が”妊娠して結婚する”と聞きつけ集まった親族も、母に負けず劣らず大きな声で、目を丸くするショーンを質問攻めにしていた。

私がそのテンションの高さを注意する隙間なんか、ほんの少しも無い程に。

ショーンははじめのうちは、戸惑ったように曖昧な笑みを浮かべていた。だが、父が勧める日本酒を飲むうちに、ショーンはやたらと高いコミュニケーション能力を発揮し、すっかりその雰囲気に溶け込んでしまった。

たまに私の方にやって来ては「”しゃあしい”って何?どういう意味?」と、方言について質問する。

「うるさいって、ことよ。」

私がそう答えると、何が面白いのか一族揃って大笑いしている。そんな賑やかな私の家族にショーンが一生懸命馴染もうとしている姿は、私をほんの少し感動させたのだ。




「申し訳ありません、飲みすぎてしまって…まともにご挨拶もせず。」

結局明け方近くまで、ショーンは皆と飲み続けていたようだった。

呆れてさっさと眠ってしまった私が翌朝目をさますと、居間には屍のようにショーンと親族がゴロゴロと転がっていたのだ。

二日酔いの頭を抱えるショーンを、母の運転する車に乗せて空港へと向かっていた。

「あんたたちが仲良かとは、わかったけんね。それで十分。」

母はいつもの調子で、聞き慣れた大きな声で笑っていた。その声からは、私が妊娠したと告げた日の、心配そうな様子など微塵も感じない。

「千華さんと、産まれてくる子供は、僕が必ず幸せにしてみせます。」

自分の声が頭に響くのか、時折こめかみを押さえながらショーンは絞り出すようにその決意を口にしていたが、母はまたしてもケラケラと笑いながら答えた。

「ええんよ、そげん気負わんでも。家族って言うとは全員で作るものっちゃけんね。私たちも家族っちゃけん、いつでも頼りぃ。」

それから暫く沈黙が続いた。ふとショーンの横顔を見ると、そのグレーの瞳にはほんの少しだけ、涙が浮かんでいた。

かつて、「家族が、どういうものなのかわからない。」と、寂しそうに口にしていたショーン。きっと私以上に不安だったのかもしれない。

けれど、これから先、私達を待っている未来は、三人で築き上げていくものだ。母の言葉通り、私達は家族になる。

私は空港に着くまでの間、後部座席でショーンの左手をギュッと握っていた。



一足先に東京に帰ったショーンを見送った数日後。相変わらず体調に波はあるものの、つわりのピークは脱したようだった。

部長の言葉に甘え、しっかりと実家でリフレッシュした夏休みが、もうすぐ終わろうとしている。

現実に立ち向かう力は十分にある。下腹部に手を当て、もう一度私は誓ったのだ。

-私と、ショーンで、必ず幸せな家族にしてみせる。

羽田行きのチケットを買い、私は空港へと向かった。

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ついに千華は安定期を迎え、子供の性別が判明する。しかし、婚姻届提出を目前にして強敵が再び立ちはだかる!