2014年の日米野球では当時カブスに所属していた和田がMLBオールスターの一員として来日

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◆ 4年ぶりの開催

 日本シリーズも終わり、選手の去就やFAの話題が表に出るようになってきた今日この頃。いよいよストーブリーグが本格化し始める時期になってきたが、近年はこの時期に侍ジャパンの強化試合が組まれることが恒例となっている。

 今年は4年ぶりにメジャーリーグ(MLB)の選抜チームが来日し、侍ジャパンとの『日米野球』が開催される。相手はMLBという「リーグ選抜」であるのに対し、こちらはナショナルチーム。個人的には少々違和感のあるマッチングではあるのだが、この形式は前回大会からのもので、かつては日本側もプロリーグ・NPBの選抜メンバーでMLBを迎えていた。

 さらに言えば、MLBのオールスターチームの来日が恒常化するのは、日米野球草創期を除けば、日本がバブルにわいた昭和の終わりからで、それまで日米野球といえば、単独チームでの来日が相場だった。今回は2014年以来となる日米野球の開催にあたって、その歴史を概観してみたい。

◆ プロ野球創設の契機に

 日米野球が日本のプロ野球創設のキッカケとなったのは有名な話だろう。あのベーブ・ルースを口説き落として実施された1934年(昭和9年)の『日米野球』は、MLBのオールスターチームが太平洋を船で渡って来日した。その際、主催者の読売新聞が編成した「全日本軍」が、プロ化して巨人軍の基となった。

 1908年(明治42年)以降、アメリカのプロチームを招いての日米野球は行われていたが、日本側は大学やクラブチームでこれを迎え、散々な成績に終わっていた。この時の全日本軍もMLB相手に16戦全敗に終わったが、静岡の草薙球場で行われた試合では、「沢村賞」にその名を残す沢村栄治がメジャー(もっとも昔は「大リーグ」と言うのが普通だったが)打線を“きりきり舞い”にさせ、1失点という快投を見せた。

 その後、太平洋戦争が起こり、この企画どころか、1936年(昭和11年)に発足したプロ野球自体も休止してしまう。

 大戦後、日米両国民に親しまれていた野球は、外交ツールとして用いられた。占領軍・GHQの総司令官であるマッカーサーは、アメリカに叩きのめされた日本人を慰撫するため、野球を利用することを思いつき、1949年(昭和24年)に日米野球を復活させる。

 日本のプロ野球は終戦後すぐに立ち直り、1945年(昭和20年)11月には東西対抗戦を実施。翌年にはリーグ戦を再開させていた。

 来日したのは、サンフランシスコ・シールズ。現在も存在するパシフィックコーストリーグに属していた3Aクラスのマイナーリーグのチームだった。ただし、航空機での移動が一般的でなかったこの時代、まだMLBは大陸東部16都市に展開される地方リーグの域を脱せず、報酬も他の有力マイナーリーグを圧倒するようなものでもなかった。

 それに、現在のようなメジャー球団の下にクラス別のマイナーチームがファームとして存在するという組織化は成されておらず、地理的にもMLBのエリアと隔絶された太平洋岸に展開されるパシフィックコーストリーグには好選手が集まり、そのレベルはMLBとさほど変わるものではなかったという。実際、日本は7戦全敗(東京六大学選抜戦1試合を含む)と完膚なきまでに打ちのめされた。

◆ 「大リーグ」への挑戦の時代

 戦後復興、高度成長と坂道を登っていく日本にあって、野球界の目標も「アメリカに追いつき、追い越せ」となった。

 日米野球もやがて恒例行事となり、1953年(昭和28年)には、この行事の主催を張り合った読売新聞社と毎日新聞社が同時に計26試合を挙行するという「大リーグ祭り」のような事態になったが、その後は両社が交互に、おおむね2年ごとに開催するという方向に落ち着く。

 日本のプロ野球は2リーグ制の導入、そして長嶋・王という不世出の大スターの出現もあり、国民的スポーツの階段を駆け上っていくことになるが、その勢いで「大リーグ」を打ちのめさんと、日米野球に臨んだ。

 この時代、MLB側は単独チームを派遣する方針だったのだが、日本側は「真のワールドシリーズ」をと、その年のワールドシリーズの覇者の派遣を望んだ。しかし、MLB側は時期尚早と主張。1966年の春にはMLB傘下のマイナーリーグに入り、2Aクラスに振り分けられたメキシカンリーグのメキシコシティ・タイガースを送り込んできたが、日本側は13勝無敗で蹴散らし、意地を見せた。

 とは言え、日本側も「大リーグ」に対し、常にオールスターチームで臨んでいたわけではなく、この時代の日米野球は、単独チーム、混成チームにセ・パのリーグ選抜、そして「全日本」と試合ごとにメンバー構成を変えていた。

 単独チームで臨む場合、オフシーズンの「大リーグ」との対戦は若手選手にとって恰好のアピール場となり、1978年のシリーズでは「ビッグレッドマシン」とも称されたシンシナティ・レッズ相手に気を吐いた巨人の中畑清が、翌年にブレークを果たしている。

◆ 悲願成就も…

 「日米決戦」の日本の悲願が達成されたのは、1984年のこと。読売新聞が日米野球を主催する番となったこの年、奇しくも巨人軍は球団創設50周年を迎え、NPBも「球界の盟主」のメモリアルイヤーを飾るべくワールドチャンピオンの招聘をMLBに要請した。

 日程の都合などから、さすがにその年のワールドシリーズ優勝チームの招聘はならなかったのだが、前年の1983年に王者となったボルチモア・オリオールズが1971年以来2度目の来日を果たす。

 このシリーズの初戦から第5戦までは「日米決戦」と称し、日本シリーズ優勝チームとオリオールズの対戦が用意されたが、残念ながら本社がしつらえた舞台に巨人は立つことができず、広島が「世界一」を争った。

 広島は初戦で完封勝利を収めたものの、その後は4連敗。しかし、巨人戦や全日本戦などを含めた14試合をトータルで見ると、オリオールズの5勝8敗1分けという結果に終わった。

 “決戦”の後、当時の広島の監督・古葉竹識は「本気でやれば勝てる相手」とオリオールズを評したが、この当時、メジャー側もオフの物見遊山気分で来日しており、この対戦を「真のワールドシリーズ」と捉えている人はほとんどいなかった。

 このシリーズを最後に、基本的に単独チームでの来日はなくなる。1993年にロサンゼルス・ドジャーズが来日したが、これは台湾遠征の帰途、当時飛ぶ鳥を落とす勢いであったダイエーに呼ばれて福岡で2試合を戦ったもの。

 MLBの単独チームが日本チームと試合を行うのは、2000年以降にMLBの公式戦が行われた際、出場チームがNPBのチームとエキシビションゲームを行う場合に限られた。

◆ 「MLB対NPB」のリーグ対抗戦へ

 昭和の終わりなると日本球界も力をつけ、MLB側も単独チームではNPBの選抜軍に楽勝とはいかなくなってきた。そして、訪れたバブル景気は、ジャパンマネーをもってMLBのスターたちを吸い寄せるようになる。

 1986年のシリーズから、日米野球はMLBオールスターチームとNPBから選抜された「全日本」との対戦が基本となっていった。

 1996年にはMLB選抜チームに野茂英雄(当時ドジャース)が加わり、以後の日米野球は日本人選手の凱旋も兼ねるようになっていく。この頃から日米野球のチケットはプラチナ化し、アメリカでマーク・マグワイア(当時カージナルス)とともにホームラン旋風を巻き起こしたサミー・ソーサ(当時カブス)が参加した1998年大会からは、日本側も固定メンバーで臨むことに。

 2000年シリーズからはトータル成績に基づいて賞金を争うようになり、「MLB対NPB」というリーグ対抗戦の色彩を強くしていった。そうなると、当然NPBに在籍している外国人選手にも参加資格があるということになり、2002年大会には、台湾出身の張誌家やベネズエラ出身のアレックス・カブレラ(ともに当時西武)が出場した。

 この頃になると、日本側はメジャー相手に互角の勝負を演じ、メジャー側からも物見遊山気分は消えていった。日米野球は単なるエキシビションの枠を越え、白熱したものへとなっていく。

◆ 新たな時代へ 

 しかし、グローバル化の波は日米野球をも飲み込んでいく。地球規模にマーケットを広げたMLBは、その選手報酬を増大させ、その結果、「出稼ぎと物見遊山」に来るメジャーリーガーのモチベーションを低下させた。

 「真剣勝負」についても、2006年にWBCが始まったことにより、日米野球の存在意義が低下。前年から国際ポストシーズンであるアジアシリーズが開始され、WBCも始まった2006年大会を最後に一旦日米野球は休止となるが、一説には、メジャーリーガーの高額な参加報酬を知った日本側の選手が、参加意欲をなくしたということもささやかれている。

 2011年、日本代表チームが常設化されると、2014年に8年ぶりに侍ジャパンの強化試合として日米野球が復活。しかし、正直なところ、前回も今回もMLB側のメンバー構成は「オールスター」というわけではない。

 とくに投手は、NPBに向けたショーケース(見本市)の感さえあるし、ケガの影響などもあるが、日本側の辞退者が多いのも気にはなる。日米野球もまた時流の中にあるようだ。

 今年はこのイベントが始まって110年目の節目に当たる。様々な変化もあるが、日米野球史の映し鏡であるこのイベントを、ストーブリーグの入り口として楽しむのも一興ではないだろうか。

文=阿佐智(あさ・さとし)