大混雑・大混乱した渋谷のハロウィン。大胆な露出の仮装で参加した女性もいた。盗撮で逮捕された不届き者も(写真:Rodrigo Reyes Marin/アフロ)

「やっぱりね」「そりゃそうだろ」と思った人は多いのではないでしょうか。

今年もハロウィンでにぎわう渋谷で痴漢騒動が起きました。逮捕者が出たほか、被害を訴える女性が多かったことで、メディアやSNSでは、さまざまな声が錯綜。なかでも、大混雑し、大騒ぎする場所に「行く人が悪い」「コスプレのヤツは自業自得」「さわられに行くようなもの」などの自己責任論を訴える声が目立ちます。

「自己責任」と言えば、先日シリアで拘束されていた安田純平さんが解放された際に、活発な議論となったばかりのフレーズ。さらに、体操の世界選手権で女子団体が五輪出場権を獲得できなかったことについても、「協会と代表選手がもめたせい」という自己責任論が噴出しました。セキララ交際の影響で引退説を報じられている剛力彩芽さんに対しても同様で、多岐なジャンルにわたって自己責任論が叫ばれています。

私自身、この1週間でテレビ局、新聞社、出版社、ネットメディアに顔を出したところ、すべての場所で自己責任論が話題にあがり、見解を求められました。連日の報道や著名人の反応を見ても、今年の「新語・流行語大賞」を受賞しそうなホットワードとなっています。

ここでは国や政治的にどうということではなく、人間関係コンサルタントとしての見地から、自己責任論を訴える個人の危うさを掘り下げていきます。

自己責任論を訴える2つのタイプ

自己責任論を簡潔に言い換えると、「つらい思いをしたとしても、自分が悪いのだからあきらめるべき」「自分のことは自分で守るのが当たり前」。個人の思考回路としては、何の問題もないでしょう。

ただ、それが他人に向けられ、突きつけられるとなれば話は別。無慈悲に人を「見捨てる」「罰を与える」ことになってしまうからです。これは裏を返せば、「自分はそんなバカなことはしない」という根拠に欠ける自信の表れであり、上から目線によるもの。たとえば、渋谷のハロウィンなら、「あんなところにコスプレしていく女はバカ」「痴漢されて反省するくらいでちょうどいい」などと、ミスを犯して弱い立場になってしまった人を見下していることになります。

このような思考になりがちなのは、社会的なステイタスが高いタイプや、管理職など仕事上でリーダーシップを求められるタイプ、あるいは金銭的に恵まれた生活をしている人。「足を引っ張られてステイタスや生活の質を下げられたくない」という強迫観念のようなものがあるため、他人を突き放してしまいがちです。そういう立場の人が自己責任論を口にするほど周囲の人々は距離を取りたくなり、徐々に孤立していくでしょう。

また、とりわけ自己責任論がヒートアップするのは、渋谷のハロウィンなら警備費用、安田さん解放なら身代金、体操協会なら助成金のように、税金が絡むとき。つまり、「自分の稼いだお金がミスを犯した人を助けることに使われるのは許せない」という発想の人が強烈な批判を繰り広げています。

税金などのお金に反応して自己責任論を訴える人に多いのは、日々の生活にどこか満たされない思いを抱えている人。仕事内容や待遇、上司や同僚、恋愛や結婚、生活環境や体調、さらに国や社会そのもの……。これらへの不満を抱えたまま軽減させる方法がない人ほど、見知らぬ人に自己責任論をぶつけたがる傾向が見られます。

たとえば、「やりたくない」「向いていない」「お金が足りない」「人に恵まれない」「面倒くさい」「ストレスがたまる」と感じているときに、ニュースなどでミスを犯した人を見ると、「オレだって思い通りにならない日々を過ごしているのだから、ミスをした人は自分で責任を取るべきだ」と考えがちなのです。

ステイタスが高く、恵まれた生活をしている人は、「自分の現実とだけ向き合いたいから、見知らぬ他人の現実には向き合いたくない」。日々の生活に不満を感じている人は、「自分の現実と向き合えないから、見知らぬ他人の現実と向き合ってしまう」。同じ自己責任論を訴えていても、これだけの違いがあるのです。

ビジネスとしてもスケールダウン

しかし、私たちは自己破産や刑罰などのように、原則として「有限責任の世界観で生きている」のが現実。社会保障や免責事項などに守られていることも含め、多くの人々で形成された集団として生きているのです。その集団の中には、自己責任論を訴える人がいれば、うまく適合できない人や同意したくない人もいますし、両者がいるからこそ価値観の一元化や極端化がされずに済んでいるとも言えるでしょう。

自己責任論を訴える人の多くは、そんな現実を忘れ、「俺は1人で生きている」という感覚が強い傾向があります。ところが、食材や飲食店も、自動車や鉄道も、テレビやネットも、いろいろな人がいるからこそ作られ、その恩恵を得られるものですし、もっと言えば「ミスしてしまう人がいるからビジネスが成立している」企業や個人も少なくないでしょう。世の中の大半は、「集団あってこそ」なのです。

たとえば、暴飲暴食をして持病を抱えた人や、不注意で大ケガをした人がいたとしましょう。「何でオレたちがその人の医療費を払わなければいけないんだ」と思うかもしれませんが、一方で飲食物の製造者や提供者は利益を得られているという側面がありますし、もちろん不測の事態も含めて「医療費は保険に頼らず、すべて自分で払え」とは言えないはずです。

「ミスを犯した人と共存する道を探る」のが集団における本来の姿。渋谷のハロウィンなら、「痴漢をどのように抑止するか」「発生してしまったらどのようにつかまえるか」、さらに「女性が安心して楽しめるイベントに変えられないか」などのビジネスチャンスを考えるほうが健全であることは間違いありません。

ビジネスだけを切り取ってみても、「自己責任論でミスを犯した人を見捨てる」というスタンスは、チャンスや売り上げをダウンさせるだけ。そもそも、「話し合いや改善の余地さえ与えない」という姿勢は、争いの絶えなかった戦国時代と変わらない旧時代的なものなのです。

自己責任論を訴える人の指導能力は低い

もう1つ、自己責任論を訴える人に危うさを感じるのは、“私刑”の自覚がないこと。冒頭に挙げた例では、安田さん、剛力さん、女子体操関係者が、自己責任論を超えて名誉毀損にも該当しそうな言葉を浴びせられ、なかには個人情報を拡散されるケースもありました。

ミスを犯したし、問題こそあったものの、犯罪者のように吊るし上げる“私刑”は、その後の長い人生を考えれば、刑事罰よりも重いものがあります。これを言い換えると、「自己責任論を訴えているにもかかわらず、知らない人に浴びせる言葉に責任を持っていない」ということ。「知らない人だから、自分が言ったひどい言葉を忘れられる」という無責任な思考回路を自覚していることもあり、その発言は実際の感情以上に攻撃的なものになってしまいがちです。

また、自己責任論に「そうだ」「その通り」と追随する人が多いのは、「個人では人を攻撃しづらいけど、誰かとつながって集団になれば、攻撃しやすくなる」という思考回路。しかし、この構図は、「ミスを犯した1人の社員を上司が徹底的に叱り、同僚たちも『あいつが悪い』と追随して見下す」という意味でブラック企業と似ています。

ミスを犯した社員を徹底的に叱る上司は得てして、「彼のためであり、これは愛情だ」「再発防止や抑止につながる」と言いますが、それが本人に合い、業績が上がる方法かは疑問。仕事上で自己責任論を訴える人ほど、指導能力が低く、結果は部下任せであることが多いものです。

数字優先で一貫性を欠くメディア

もし自己責任論をぶつけるとしたら、ミスを犯した人ではなく、メディアではないでしょうか。たとえば、安田さんのニュースでは、「持論として英雄視したと思ったら、世間のムードを見て個人を叩き始めた」というメディアが少なくありませんでした。あるいは、多くの著名人がコメントし始めたのを見て、それを並べて報じるだけの責任を放棄するようなメディアもありました。

前述した“私刑”という面でメディアの威力は大きく、世間の印象を決定づけてしまうところがあります。もちろんビジネスでやっている以上、テレビなら視聴率、新聞や雑誌なら販売部数、ネットならページビューやユニークブラウザを稼がなければいけないのは当然ですが、客観性や一貫性、バランスや配慮を欠いた報道では、メディアとしての信頼性を失ってしまうだけ。もしかしたら今回のようなメディアの報道こそ、「信頼を失いかねない」という意味では自己責任を問われるのかもしれません。

最後に、「凶悪犯罪の増加から、厳罰化を望む声が高まっている」ことと、今回の自己責任論は次元が違う話であり、混同は禁物。自分たちで息苦しい世界へ突き進んでしまわないようにしたいところです。

また、見知らぬ人への懲罰感情で自分のストレスを解消するのは不可能。心の中に「人を罰した」という負の感情を蓄積させ、何気ない幸せに気づけない人になってしまうだけであり、公私ともにポジティブなことはありません。もしあなたが賢明なビジネスパーソンなら、集団で生きていることを踏まえたうえで、人を罰しない形で共存していく方法を考えられるはずです。