「才能がある/ない」は簡単に割り切れるものではありません(写真:Kosamtu/iStock)

「あの人が成功したのは才能があったからでしょう?」

「地アタマがよかったんでしょ?」

想定外の成果が出たときや、自分が絶対にかなわない人に出会ったときに、割と人は「才能」とか「地アタマ」という言葉を使うようです。

二元論的に人を分ける考えは間違いだ

10代の頃から「才能って何なんだろう?」と思っていた僕は、アメリカの大学に留学して心理学を学び、日本へ帰国してから学習塾の講師を務めることになります。

そこで、まず取り組んだのが、「才能がある/ない」「頭がいい/悪い」「地アタマがいい/よくない」というように二元論的に人を分ける考えは間違いだ、ということを証明することでした。誰もがついつい、こうやって言葉で分けてしまいがちですが、そんなに簡単にどちらかに割り切れるものではないはずです。

証明するためには、きっちりデータを取り、数字などを使って明確に示さなくてはなりません。そこで僕がやったのが、塾での指導の記録を全部取ることでした。

生徒さんにどんな課題を与えたのか。その結果がどうだったのか。そこでどんな声かけをしたのか。面接で何を話したのか。最終的な合否はどうだったのか。もうありとあらゆることを記録していったのです。

僕はたくさんの生徒さんと出会ってきたので、「勉強ができる子」も「できない子」も「勉強しているけれど成績が伸びない子」も「急激に勉強が好きになった子」も「うちの子はやる気になればできると思っている親御さん」も見てきました。

そうしているうちにいろんなケースが集まってきて、気づけば1000人以上のデータが取れていました。

そのデータを丹念に見返してみると、塾へ来た最初の段階で「才能がない」「地アタマがよくない」「頭が悪い」「やる気がない」と言われていた生徒さんでも(そう決めつけるのは、たいてい親御さんです)、一流大学に合格しているケースがたくさんあったのです。

こうして、かなりの人数分のデータを丹念に見ていって、僕は確信しました。

それは、才能というのは、結果でしかないということです。

拙著『才能の正体』でも詳しく解説していますが、いわゆる「才能がある」と言われている人たちには共通点があります。

彼ら、彼女たちはみんな努力をしていることです。

多くの人は、"あまり努力をしなくてもできちゃう人"のことを「才能がある」と言いがちではないでしょうか。

でも、その考え方が根本的に間違っていることに、僕は気づいたのです。

人間というのは他の動物に比べて本質的にもともと頭がよくて、脳の構造から見てもとても優秀です。つまりすべての人が、優秀と言われる可能性をもともと持っているのです。

だとしたら、いったいどこで差がつくのでしょうか。

「才能がある」と言われている人たちの「正しいやり方」

たくさんの子どもたちを見てきて言えるのは、勉強のやり方が間違っていたり、うまく継続できなかったり、動機づけができなくて意欲が湧かなかったり……など、いろいろな理由で、上達していかないことがあるんだということです。

いきなり本質的なことを言いますが、自分に合っていない、ふさわしくない場所でいくら頑張っても、物事は身に付きません。

「才能がある」と言われている人たちは、"その人に合った"動機づけがまずあって、そこから"正しいやり方"を選んで、"コツコツと努力"を積み重ねている。

そしてきっちりと結果を出して、そのときに初めて「才能がある」という状態になる。正確に言えば、「才能がある」と言われるようになる。

周りの人たちは、その人が"努力してきた部分"をすっ飛ばし、目に見えている結果だけを見て「だって地アタマがいい人だからでしょ?」「才能のない自分にはできるはずがない」「才能は生まれつきだから」と頭ごなしに決めつけてしまいます。

しかし、それは間違いです。

「氷山の一角」という言葉がありますが、水面よりも上に出ている部分は、全体の約1割だと言われています。その下の9割に、血のにじむような努力があってこそ、氷は浮いていられるのです。

名門の中高一貫校に合格した、早稲田大学に受かった、東京大学に受かった、医学部に受かった、ハーバード大学へ留学した、弁護士になった、本を書いてミリオンセラーを出した、すごい発明をして世界を変えた、起業して株式公開をして大金持ちになった、ノーベル賞を受賞した……などなど、いずれも"結果だけ"を見て、この人は「地アタマがいい」「才能がある」と言っているのです。

こう説明すると、皆さん、ハッとするようです。

世間では、どんな人であっても、結果が出たら「元がいい」「地アタマがいい」と言われ、結果が出なければ「もともと才能がない」と言われるのです。受験までに驚くほど偏差値が上がっていたとしても、です。

人は結果しか見てくれない、結果からしか判断しない、ということなのです。

このように多くの場合、「結果」が才能の有無の判断基準になります。これはつまり、結果によって、過去の解釈もすべて変わってしまう、ということでもあります。 面白いことに、「いい結果」が出ると、その人の過去にやっていたことが、"すべて"ポジティブな見方でとらえられるようになってしまいます。

わかりやすい例を挙げましょう。

ノーベル賞を受賞すると、必ずニュースになりますよね。すると、たとえば、受賞者の奥様にインタビューして、彼女にとってどういう夫なのか尋ねたり、受賞者の出身地へ行って、彼がどんな子どもだったかを聞いて回ったりします。

a「研究者としては一流かもしれないけど、家では何もしない人です」
b「あまり群れないタイプで、昔から一匹狼みたいな感じです」
c「みんなが右へ行くときでも、自分は左だと思ったら左へ行くような人」
d「何を言われても気にしない、"自分"を強く持っている人です」
e「子どものときから発想がほかの人とは違ったところがあって、ユニークでした」

……といった具合に、ノーベル賞を受賞するような人は、普段から普通とは違う、子どもの頃から思考も発想もほかの人とは全然違っていた、というような内容のコメントが次々出てきます。

結果次第でその人の評価は真逆になる

ここで、少し皮肉な見方をしてみます。同じ人が、実は「罪を犯した人」だったらどうでしょう?

a′「家のことはすべて妻に任せっきりで、外へ出掛けてばかりいた」
b′「どのグループにも属さず、まったく協調性がなかった」
c′「こうと決めたらテコでも動かない人で、絶対に従わなかった」
d′「ルールは全然守らなかったし、人の話なんかまったく意に介さなかった」
e′「いつも一人だけ違う考え方で、わがままを言って和を乱し、大変だった」

……どうですか?

ノーベル賞を獲った人と、罪を犯した人。同じ性格の同じ過去を持った人だったとしても、結果次第でここまで見方が変わってしまう。"真逆の認知"をされてしまう。

このように人々は、「結果」からさかのぼって「物語」を作ろうとするものなのです。

結果を見て、それまでの認知が変わってしまい、新しい物語が出来上がる。このときのキーファクターとなるもの、大きなウェートを占めているものが、まさに「才能」なのです。


僕は2013年に『学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話』を出版しています。タイトルのとおりのいきさつをまとめたものですが、この本がベストセラーになると、主人公のさやかちゃんについて「彼女はもともと才能があったんでしょ?」と多くの人から言われました。

どうやら人は"才能の有無"を、安易に断定したがるようです。でも、「才能」は生まれつきのものなのでしょうか? 一部の人にしか備わっていない、特別なモノなのでしょうか?

それに対する、僕の答えは「ノー」です。

才能は、誰にでもある。僕はいつもそう言っています。