大久保利通(左)と西郷隆盛(写真:近現代PL / アフロ)

明治編に突入したNHK大河ドラマ「西郷どん」。西郷隆盛は「明治六年政変」で盟友・大久保利通とたもとを分かち、西南戦争で激突するのだが、そのきっかけとなった征韓論については、不可解な点が多い。はたして西郷は何を主張し、政府を辞する決意に至ったのだろうか? 『歴史ドラマがさらに面白くなる本 幕末・維新〜並列100年 日本史&世界史年表』(監修:山本博文/NHK出版)を基に考えてみたい。

西郷には武力で朝鮮を征する意思はなかった

明治6年(1873)10月23日、西郷隆盛は胸の痛みを理由に参議(当時の政府首脳が務めていた役職)・陸軍大将・近衛都督(天皇直轄軍の司令官)を辞し、さらに位階の返上も申し出た。このとき、参議と近衛都督の辞職は認められたが、陸軍大将と位階については許されなかった。

このとき、西郷と同じ参議の板垣退助・副島種臣・後藤象二郎・江藤新平といった政府首脳、さらには征韓・遣韓派や西郷を慕う政治家・軍人・官僚が600人余りが辞任する事態となった。この一大政変は「明治六年政変」と呼ばれ、幕末から志を共にしてきた西郷と大久保利通はたもとを分かった。

一連の政変は朝鮮を武力で従えるか否かという「征韓論」から始まったものである。内政を優先する大久保や岩倉具視が全権大使として朝鮮に乗り込もうとした西郷の行動を阻止し、それを受けて西郷は辞表を提出したわけだ。

しかし、そもそも西郷には武力で朝鮮を征する意思はなかった。いったい、どういうことだろうか。

ことの始まりは明治6年(1873)6月、外務少輔の上野景範が「朝鮮政府が日本の国書を拒絶して使節を侮辱し、朝鮮に住む日本人(居留民)の安全が脅かされている。彼らを朝鮮から撤退させたほうがいいのか、それとも武力をもって修好条約の締結を迫ったほうがいいのか。政府の裁決をあおぎたい」と報告し、議案を提出したことに端を発する。このとき、岩倉や大久保、木戸孝允らは欧米視察に出ており、西郷が政府を牽引する立場にあった。

上野の議案提出を受けて、政府の面々は激昂した。というのも、朝鮮には「大中華の文明を吸収したわれわれは日本よりも上位にある」という小中華思想があり、開国して西洋の文化・文明を受け入れた日本人をさげすんでいたからだ。ついには、釜山の日本公館の門前に「日本人は西洋の猿まねをする恥ずべき人間だ」という文書まで掲げられた。

閣議では参議の板垣退助が「朝鮮にいる居留民を守るため、朝鮮に出兵すべき」と強硬に主張し、他の参議もこれに同調した。ところが西郷は朝鮮派兵に反対し、自分を全権大使とする使節団の派遣を主張する。議論の結果、西郷を遣韓大使とすることが8月17日に閣議決定され、岩倉ら使節団の帰国を待って正式決定することにした。

外交によって朝鮮との関係を構築しようとしていた

従来は、「自分が朝鮮で殺されれば、心置きなく朝鮮に派兵できると考えた西郷が、使節として自ら朝鮮に乗り込むことを主張した」というのが一般的な定説だった。しかし、実際は武力で朝鮮を征する考えは西郷の頭になく、むしろ平和的なやり方での国交回復を望んでいたようだ。ちなみに、征韓論というのはこのとき初めて出てきたわけではなく、明治初年には木戸孝允も唱えている。幕末から明治にかけて、日本は欧米列強や清国と国交を結び、同様に朝鮮とも国交を結ぼうとした。ところが、朝鮮は依然として鎖国体制を続けようとするので、「こうなったら武力をもって朝鮮を征するしかない」という征韓の考えが何度も出てきたのである。

西郷が明治政府の名目上の首班である太政大臣・三条実美に送った「朝鮮国御交際決定始末書」という意見書には、次のような内容が記されている。

「かの国(朝鮮)はわが国に対してしばしば無礼な行いをして、通商もうまくいかず、釜山に住む日本人も圧迫を受けています。とはいえ、こちらから兵士を派遣するのはよくありません。まずは一国を代表する使節を送るのが妥当だと思います。暴挙の可能性があるからといって、戦いの準備をして使節を送るのは礼儀に反します。そのため、わが国はあくまで友好親善に徹する必要がありますが、もしかの国が暴挙に及ぶのであれば、そのときはかの国の非道を訴え、罪に問うべきではないでしょうか」

西郷が乱暴な手段を好まず、外交によって朝鮮との関係を構築しようとしたのは、上記の意見書の要約を見れば明らかだ。

しかし、盟友・大久保利通の考えは異なっていた。当時の朝鮮政府を仕切っていた大院君(朝鮮国王・高宗の実父)は日本を毛嫌いしており、西郷が行けば殺される可能性があると危惧していた。

仮に殺されなくても、交渉が物別れに終われば戦争に発展するおそれもある。岩倉使節団として欧米列強の国力を直接目の当たりにした大久保は、「日本を強国にするには、まずは国力の充実が最優先である」と考えていた。

そのため、膨大な支出を要する対外戦争だけは絶対に避けなければならないと考えていた。あるいは、大久保は「相手が朝鮮だけならどうにかなるかもしれないが、朝鮮王朝の背後には清国やロシアもいる。それらの大国が朝鮮側について参戦すれば、日本は間違いなく国家存亡の危機に見舞われる」とまで考えていた。

西郷と大久保の考えは、戦いを避けるという意味では一致しているようにもみえる。しかし、西郷が「自分が出向けば朝鮮を絶対に説得できる」と思っていたのに対し、大久保は「朝鮮との交渉がうまくいくわけがない」と思っていたとみられ、両者の思惑には相違があったと考えられる。

また、明治4年(1871)に岩倉使節団が出発するとき、使節団(岩倉、大久保など)と留守政府(西郷、板垣など)は「留守政府は、やむをえざる事件以外は改革を一切差し控えるべし」という約束を交わしたが、西郷は学制改革や徴兵令の布告、地租改正、身分制度改革、近代的司法改革など、約束を無視して新たな制度を次々と実行に移している。明治政府が発足してまもない時期だったのでやむをえないとはいえ、この件がきっかけで、大久保は西郷に対して複雑な思いを抱くようになったのかもしれない。

大久保は簡単には引き下がらなかった

このように、大久保には西郷の遣使を中止させたいという意思があったが、当時の大久保は参議ではなかったので、国策を決定する資格がなかった。しかも、当時の参議の大半は西郷を支持していたので、これを覆すのは容易ではない。そこで、大久保と同様に西郷の遣使に否定的だった岩倉具視の助けを借り、大久保もまた参議の地位に就いた。

こうして西郷と並び立つ立場となった大久保は、明治6(1873)年10月14日に開かれた閣議の席で西郷の朝鮮派遣に反対し、どちらかといえば征韓に消極的だった参議を味方に引き入れ、どうにか互角まで持ち込んだ。だが翌日、西郷の威勢に押された太政大臣の三条実美が西郷派遣を再決定してしまう。こうして、後は明治天皇の裁可を得るのみとなった。

しかし、大久保は簡単には引き下がらなかった。10月17日、三条が極度のストレスで倒れると、大久保は岩倉を太政大臣代理に据えるよう画策する。そして、天皇は西郷が大のお気に入りだったので、岩倉を通して「西郷が朝鮮に派遣されたら、確実に彼は命の危険にさらされるでしょう」と吹き込んだ。

このルール無視の強引な手法で、最終的に西郷の朝鮮派遣は中止に追い込まれた。土壇場で覆された西郷は職を辞し、ほかの征韓・遣韓派の参議もこれに続いたのである。

野に下った西郷は故郷・鹿児島に帰り、西南戦争で挙兵するまで猟などをして気ままに過ごした。これに対し、大久保は国内行政の大半を担う内務省を創設し、初代内務卿として政権のトップに君臨した。富国強兵をスローガンに掲げ、殖産興業政策を実施して国力増強を図った。

一方で、明治7年(1874)には台湾出兵を行い、翌年には朝鮮半島に軍艦を派遣して武力衝突を起こしている(江華島事件)。朝鮮の領海内で勝手に測量を行い、朝鮮側が砲撃したのを機に衝突し、最終的には日朝修好条規の締結に至ったわけだが、この大久保の対外政策にはどう見ても矛盾がある。西郷の朝鮮派遣の際には「対外戦争は避けるべき」と主張したが、舌の根が乾かぬうちに台湾や朝鮮に派兵している。現に木戸孝允は、「征韓論を否定しておきながら、台湾に出兵するのは矛盾している」と抗議し、政府を一時下野している(後に復帰)。

江藤を追い落とすために政変を引き起こした?

この征韓論論争と海外派兵の矛盾を踏まえると、大久保は対外戦争を避けるためだけに政変を起こしたわけではないのがわかる。では、なぜ大久保は征韓をめぐる対立を引き起こしたのか? その背景には、大久保が使節団の一員として欧米を回っている間に留守政府で台頭した土佐・肥前出身者の存在がある。

留守政府では西郷がリーダーを務めたが、実際に政府を牽引したのは板垣退助(土佐)、江藤新平(肥前)、副島種臣(肥前)などであった。当初、明治政府は倒幕運動で多くの血を流した薩摩や長州の出身者で占められたが、リーダーの西郷が出身にとらわれずに有能な人材を抜擢したので、倒幕運動ではギリギリまで日和見を決め込んでいた土佐や肥前の出身者も政府首脳として活躍できたのである。特に江藤は山県有朋や井上馨などの長州出身者の金銭スキャンダルを糾弾して失脚させ、さらに、司法改革を実施するなどして政府内で頭角を現していた。


こうした状況は、薩摩出身の大久保からすれば必ずしも面白くはなかった。しかも江藤は政府を動かすたぐいまれなる才覚を持ち合わせていたので、将来自分の政敵として対峙する可能性がある。西郷の朝鮮派遣が決まれば、遣韓賛成派の江藤の政府における重要性はさらに高まるので、大久保は岩倉を利用して西郷遣韓阻止に動いたのではないだろうか。

もちろん、これは説のひとつでしかないのだが、黎明期の明治政府ではこうした政争が日常茶飯事的に行われていた。そのため、大久保が江藤を追い落とすために行動したとしても不思議ではないのだ。

明治7年(1874)2月、政府を追われた江藤は故郷の佐賀で不平士族に担がれ、反乱を起こした(佐賀の乱)。このとき、大久保は自ら兵を率いて鎮圧にあたっている。最終的には江藤が斬首刑に処せられてさらし首にされたのだが、この処分からも、大久保の江藤に対する警戒心が並々ならぬものだったことをうかがわせている。

ちなみに、「明治六年政変」では大久保の盟友である西郷も職を辞して政府を去ったが、位階と陸軍大将の地位はそのまま据え置かれている。これは、ほとぼりが冷めたら彼を政府に呼び戻すという、大久保の西郷に対する配慮と意図があったのではないだろうか。

しかし、西郷は鹿児島にとどまり続け、ついに政府へ戻ることはなかった。岩倉や大久保が仕掛けた政変のやり口に憤慨・失望し、故郷で静かな余生を過ごす道を選んだのかもしれない。一方、西郷や江藤が去ったことで大久保は政府の実権を握り、初代内務卿(現在の内閣総理大臣に相当する地位)に就いて自らが目指す国づくりの実行に動いた。かつて倒幕に向けて共に歩んだ2人は別々の道を進み、やがて正面切って対決することになる。