先祖代々受け継がれし名声と財産。

それを守り続けるために、幼い頃から心身に叩き込まれる躾と品位。

名家の系譜を汲む彼らは、新興のビジネスで財を成した富裕層と差別化されてこう呼ばれる。
「オールドリッチ」と。

一見すると何の悩みもなく、ただ恵まれた人生を送っているように見えるオールドリッチ。

しかし、オールドリッチの多くは、人からは理解されない苦悩や重圧に晒されている。

知られざるオールドリッチ達の心のうちが、今、つまびらかにされる-。

前回は、狭い上流階級で現実逃避する春香を紹介した。今回は?




【今週のオールドリッチ】
名前:飛田紀之
年齢:39歳
職業:外資コンサル勤務
住居:麻布十番

「うん、うん。年末には一度帰るから」

耳元のスマホは、もう10分以上は母の小言を垂れ流し続けている。

月に2回は掛かってくる、「家業を継ぐための心得」を説く電話。何を言っても逆上する母をよく知っている紀之は、眼下に広がる東京の夜景をボンヤリと眺めながら生返事を繰り返していた。

麻布十番にそびえるタワーマンション高層階の自宅は、東京滞在する時の別宅を兼ねて両親が紀之に買い与えたものだ。コンパクトな2LDKにも関わらず開放感を感じるのは、壁一面に設えられた大きな窓のせいだろう。

地上のきらめきとは対照的に、空には星が見えない。ただ穴のようにポッカリと月だけが浮かぶ東京の空を見て、紀之は小さなため息を吐く。

―もうすぐ、タイムリミットか…。


愛する人とは一緒になれない、紀之の悲しい人生とは?


愛する人と結婚する。ささやかな夢を打ち砕く老舗の呪い


関東近郊の温泉地にある、明治時代からの歴史を持つ老舗旅館。それが紀之の実家だ。一人息子である紀之は、近く5代目になることが決まっている。

旅館を継ぐことに不満はない。誇張ではなく、この旅館を継ぐために紀之は生まれて来た。

それを重々理解している紀之は、いつか大旦那になるための教養として、マナーから芸術品の目利きに至るまで、両親の指示通りにこなして来た。激務のコンサルで働いているのも、いずれ旅館経営に役立てるための武者修行の一環だった。

延々と続いていた母の電話は、ひとしきり言いたいことを言って満足したのか、いつもの締めくくりの言葉を結ぶ。

「とにかく、早くお嫁さんを見つけて来なさい。40歳になったらいくらなんでも、母さんの決めたお嬢さんと身を固めてもらうからね」

言うが早いか電話を切ってしまった母に、紀之は怒りを超えた虚しさを抱く。

大学進学を機に上京してきた頃の紀之は、決まり切った人生の中で、ひとつだけ自分で選べることがあると信じていた。

それは、愛する相手。

しかし、そんな幻想はもう紀之の中には欠片も残ってはいない。窓際に立ち尽くす紀之の胸を、絶望に似た気持ちが満たす。




5年付き合った、カフェで働く彼女・優を母に紹介したのは、紀之が25歳の時だった。

早稲田大学の学生時代にカフェでのバイト仲間として出会った2歳年下の優とは、いずれは結婚するつもりだった。しかし、母に強引にお見合いを勧められることにうんざりしていた紀之は、想定よりも早く優を紹介することにしたのだった。

約束の時間に指定された銀座の料亭に到着すると、両親はすでに個室で2人を待ち受けていた。

「お待たせしちゃってすみません!」

カフェで多くの常連達から愛されるとびきりの笑顔で、優が入室する。

「あらまあ。紀之がこんなに可愛らしい方とお付き合いしていたなんて、全く知りませんでした」

作り物のような笑顔で、母が挨拶をする。会食の雰囲気は、至極和やかだった。カフェでの仕事が楽しい、接客業が天職、と語る優のことを、両親とも気に入ってくれたかのように思えた。

しかし、食事が済むや否や母が発した言葉は、その場を凍りつかせた。

「不合格、ね」

「…え?」

とまどう優に、母は続けた。

「敷居を踏んでの入室。器の上に箸を置く渡し箸。左手を受け皿にする手皿。会話にも教養が感じられませんでしたが、大学も出ていらっしゃらないとか。それで接客業が天職だなんて、お笑い種ね。紀之と結婚したいなら、教養を身につけて出直していらして」

「母さん!」

愛する彼女へのあまりの物言いに、紀之は思わず母を怒鳴りつけた。しかし、母は氷のような冷たさで言い放つ。

「うちは多くの文豪や著名人に愛された格式の高い旅館です。お前の妻は、そういう旅館の女将になるということを、“次”こそは忘れないように」

“次”。優が目の前にいるというのに、今後の相手探しの話をする母の残酷さに、紀之は思わず身震いした。

「あの…私、失礼します」

蚊の鳴くような小さな挨拶を残し、優が飛び出していく。追いかけようとする紀之に、それまで押し黙っていた父がつぶやいた。

「旅館の魂は、女将だ。旅館の格を保つためには、冷酷さが必要なこともある…」

紀之は、力なくうなだれた。その後、優とは連絡が取れなくなった。


婚活に励む5代目を、元カノとの衝撃の再会が打ちのめす


厳しい審査を行っていたのは、母?それとも自分自身?


優の一件以来、紀之は数々の女性との恋愛に真剣に取り組んだ。しかし、母の選別眼の厳しさは想像以上だった。

東大卒の才女は、実家が貧しいことを理由に。
日本文化に傾倒するイギリス人学者は、国籍を理由に。
お嬢様大卒の秘書は、覇気がないことを理由に。

「どうにかしていらして」と、無理難題をふっかけては追い払った。

もはや、恋路の邪魔こそが母の目的のように感じられる時もある。

しかし、老舗旅館を切り盛りする女将の仕事は、一介の女性にとっては並大抵の負担ではないことはまぎれもない事実。「これくらいの圧力をかけられて逃げるようでは女将は務まらない」と母に言われてしまっては、紀之は返す言葉を持たない。

―いつかは「家」にふさわしく、愛しあえる相手が現れるはず…

そんな微かな希望にしがみつく紀之に思いがけない事件が起きたのは、35歳の時だった。




その日紀之は、接待で向島の高級料亭を訪れていた。

「失礼します」

澄んだ声とともに、個室の襖が滑るように開かれる。正座で現れた中居は音もなく立ち上がると、敷居も踏まず、しっかりとした着付けで、舞いのように配膳を進めた。

その所作の美しさに思わず目を奪われていた紀之だったが、伏せ気味な中居の顔に奇妙な既視感を抱く。しげしげと見つめる紀之を、衝撃が襲った。

―…優!

その視線に気づいたのか、優はそそくさと退室する。紀之は同席者に一言離席の許しを請うと、その背中を追った。

「紀くん、久しぶり…」

紀之が来るのが分かっていたのか、優は廊下の隅に佇んでいた。

「優、どうして…」

言葉を失う紀之に、優は言葉を続ける。

「私、あの後必死にマナーを勉強したんだ。接客を仕事にするなら、お母様の言う通りだなと思って」

「それなら、どうして連絡をくれなかったんだ? 今の君ならきっと母も…」

そう言いかけた紀之に優は小さく首を振ると、結婚指輪の光る左手を目の前にかざした。

運命の再会。紀之の胸に浮かんだそんな言葉が、急速に萎んでいく。

呆然とする紀之に、優は語りかけた。

「私ね、教養のために文学作品もたくさん読んだよ。知ってる?日本最古の物語は竹取物語なんだって。それで思ったの。紀くんは、かぐや姫みたいって」

「は?かぐや姫…?」

理解できない紀之は、優に真意を問う。

「月に帰ることが決まっているかぐや姫は、あの手この手で求婚者を試すの。自分にふさわしくない相手をふるいにかけるために。私みたいな一般人じゃ、きっと紀くんの妻は務まらなかったんだよ」

「違う、認めなかったのは母だ!」

否定する紀之に、優は追い討ちをかける。

「家を捨てて私と結婚する選択肢もあった。でも紀くんにとっての家は、絶対に帰らなきゃいけない月みたいなものだよね。お母様に追い払われた私を、紀くんは追いかけてこなかったでしょう?私を“不合格”にしたのは、紀くん自身だよ」

「あ…」

何も言えずにいる紀之を置いて、優は廊下の奥へと去って行った。

自身を蝕んでいた「家の呪縛」にまざまざと気付かされた紀之は、その場に立ち尽くすしかなかった。


家と愛の狭間で磨り減った男は、享楽に走る


もう、愛さない。5代目が行き着いた終着点


あれから4年。紀之は何度も過去を振り返った。

しかし、いくら頭の中でリプレイをしても「家を捨てて優と一緒になる」という決断をイメージすることができない。

生まれた時から5代目として育てられて来た紀之にとって、「人生」と「家」は同義語だった。




窓際で物思いに耽る紀之の背後で、勢いよくリビングのドアが開かれる。

「飛田さ〜ん、今だれかと電話してませんでした?」

「だれでもないよ。シャワー浴びた?」

そういって、濡れた髪の女の肩を抱き寄せる。さっき西麻布のバーで出会ったばかりの、自称モデルの若い女。名前すら定かでない、瞬間の関係。

「そんなこといって、彼女か奥さんだったりして〜」

「彼女なんてもうずーっといないよ。どう、俺の彼女にならない?」

「えー」と体をくねらせながら女はクスクスと笑う。耳障りな雑音を消すために、紀之はその唇を塞ぐ。

―誰を愛しても、きっと俺は「家」の試練にかけてしまう。だったらもう、誰も愛さない。月に帰るその時までは好きに過ごさせてくれ…。

家を捨てて愛を求める事も、愛を諦めて家のために生きる事も決められない紀之は、地上からも夜空からも遠すぎるタワーマンションの高層階で、今夜も宙ぶらりんな夜を過ごす。

自暴自棄なキスを交わす紀之の頭上には、煌々と満月が輝いていた。

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