インタビューに応じてくれた映画「ハナレイ・ベイ」松永大司監督

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 漫画家・手塚治虫の手記を原案にした「トイレのピエタ」で注目を集めた松永大司監督。最新作は村上春樹の同名短編小説を実写化した「ハナレイ・ベイ」(現在公開中)。世界の村上春樹作品の実写化に向けた思いや「嘘のない」作品づくりへのこだわりまで語ってもらった。

【写真を見る】映画「ハナレイ・ベイ」メインカット (c)2018『ハナレイ・ベイ』製作委員会

2005年発表の村上春樹の短編小説集「東京奇譚集」に収録された同名小説を実写化した映画「ハナレイ・ベイ」は、ハワイのカウアイ島に実際にあるハナレイ・ベイを舞台にした作品。

ハナレイ・ベイでサメに襲われ息子・タカシを亡くしたシングルマザーのサチ。それ以来、タカシの命日にハナレイ・ベイを訪れ、同じ浜辺にチェアを置き数日を過ごすようになった。それから10年が経ち、サチは偶然出会った日本人サーファーから「右脚のない日本人サーファーがいる」という話を聞く。主人公・サチを吉田羊が熱演し、息子・タカシを佐野玲於、日本人サーファー・高橋を村上虹郎が演じている。脚本は松永監督が担当している。

村上春樹の原作を映画に。世界的な人気を誇る作家の原作だけに、映画化の意義を自身に問い続けた松永監督。映画にするにあたり、原作と向き合えば向き合うほどに村上春樹の偉大さを思い知らされた。小説として完結しているだけにシナリオ制作で行き詰まり、その度に映画にする意味を考え続けた。「最終的に映画にできたと思ったのは最後の改定稿のとき。原作のエピソードを残しつつ、手形や父親の形見のヘッドフォンなどのエピソードを新たに加え、虹郎君が演じた高橋の設定を彼に寄せて設定も変えました。改定稿を書き終えたとき、自分の映画として撮れるようになると感じた」

原作で語られるサチの過去について。本作にはその描写がほとんどない。松永監督は映画にするにあたり、過去を膨らませるのではなく、あくまでも今のサチを映し出すことに注力した。「僕が見せたいと思ったのは吉田さんが演じるサチの今。回想の強さよりもサチの強さを絶対に撮りたいと思いました。ラスト30分はサチがただ歩いているだけですが、そこにある苦しみを抱いて歩いているのを感じてほしい。シナリオだと淡々とした印象ですが、役者がやったことによってそれ以上のものに飛躍すればと思いました」

サチを演じた吉田には高い演技力が要求された。松永監督は吉田のこれまでの演技の癖を徹底的に指摘し、否定。吉田の生き様をサチに投影するつもりで演じてほしいと伝えた。「日本の芝居はわかりやすい表現をすることが技術だと思われているところがあって。例えば、本作ならサチが息子のタカシのヘッドフォンを取るときに汚い物を触るように取るけれど、普通はそんなことはしない。ましてや、サチは心の中を悟られないとしている人物。『表層的な演技はしないでほしい』とは吉田さんに伝えました」

サチがハナレイ・ベイで出会う人たちにも秘密が。メイン以外のほとんどのキャストは、実際にいる現地の人が務めている。最初は役者を中心にオーディションをしてみたが、手応えがなく、難しいキャスティングだったことを明かす松永監督。「『この島を嫌いにならないでくれ』というセリフがあるんですが、実感がない人が言うとすごく嫌味に聞こえてしまう。こういうセリフって役者は気持ち良く言ってしまうんです。必要以上に欲がでるから。それが嫌で『このセリフを言えるような生き方をしているような人を探してほし』と伝えて、探してもらったんです」

警察官役は現地でカヌー指導をしている人。手形の手続きを担当するスタッフ役は、現地で働く本物のスタッフをキャスティング。普段から死と直面した人生観をもっているからこそ、役者には真似できないリアリティがある。「死を扱う人はどこか客観的でないといけない。必要以上に入り込まない。でも嫌な気分にさせないように相手のことを考える必要がある。そういう意味では彼らは日常底に芝居をしているんです。だからなのか1回もNGを出さなかったですね」

本作は全編に渡り「嘘」がない。フィクションを越えたリアリティが映し出されている。それは、ドキュメンタリー映画を数多く手掛けた松永監督だからこそのバックボーンが関係する。「ドキュメンタリーはフィクションよりドラマ的な瞬間があるし、フィクションの中にもドキュメントな瞬間があると思う。吉田さんが歩くところや木と対峙するところは『フリじゃなく本物の苦しさを見せてほしい』と相当追い込みました。この作品にはフィクション性とドキュメント性が介在しているんです。特にハナレイベイという実際にある場所、実際にある自然を撮っているので、嘘がつけない。嘘がある作品にはしたくないと、キャスティングや芝居に対しての要求だったんだと思います」

映画は観客に委ねることが美徳だとは思わないし、必ず答え合わせをするものでもないと話す松永監督。今の「わかりやすい日本映画」とは違う映画づくりのこだわりをこう話す。「理解できなかったことがダメなわけではなく、観る側の化学反応を考えたうえで不完全な状態で映画を流す。それを受け取った観客が完成させていく映画もあってもいいんじゃないかって思うんです。隙間や余白があって、観客も考察するゆとりがある方がいい。自分を投影したり反芻したりしながら、自分の心を行ったり来たりできる映画って今は本当に少ないと感じています」

最後に、松永監督は本作を劇場スクリーンで観てほしいとアピール。「ゆったりした時間の中で観客が何を感じられる映画になればいいと思って作りました。テレビやスマホでこの作品を観ると飽きてしまうかも。劇場のスクリーンで観てもらうことを想定して作ったので、スクリーンで観てもらえればこの映画の本質を感じてもらえるはずです」(関西ウォーカー・山根翼)